二十九、人と銀
夏も半ばが過ぎ一回目の蕎麦の取り入れが行われようとしていた。
平素のように夜明け前に置き、布団の位置を直してから夜明けと共に不寝番を呼び、洗顔、朝食の支度をさせた。そして朝食後、いつものように政務を始めるべく書類に目を通していると、弥次郎兵衛が慌てた顔でやってきた。弥次郎兵衛が慌てるのも珍しい。
「何が起こった」
戦か、南北いずれか、或いは両方で戦端が開かれたのかと思ったが違った。
「大変でございます。戸石城、落ちましてございます」
それがどうしたのだ、と一瞬言いかけて、思い出した。甲斐武田家が昨年大敗を喫したのが戸石城である。それが、いつの間にか落ちていたという。
「大きな戦らしい戦もなく、我らも他国の情勢まで見る余裕がほとんどございませんでしたが、昨夜甲斐より参った旅商人に話を聞くと、戸石城は卯月二十日ころに調略により甲斐武田の手に落ちていたという。とすると、三か月近く前である。
そうか、ご苦労であった、という草太の顔は冴えなかった。この後の展開を知っているからこそではあるが、北信濃の雄、村上氏はこの後、ずるずると負け続け一年半後には滅亡し越後へ逃亡を余儀なくされる。そういう運命にある。そしてその後に来るのは、甲斐武田家の飛騨侵攻である。史実通りならば、真先に江馬氏が甲斐武田に降伏し、三木氏を圧迫、三木氏は上杉家に接近し、滅亡寸前に追い込まれるも川中島の戦いにより甲斐武田が兵を引いたことにより辛くも生き延びる。その後も、上杉、甲斐武田、後に織田が加わって代理戦争を繰り広げ、本能寺の変の後、ようやく三木氏による統一がなされるも秀吉の配下金森氏が三木氏を倒し、ようやく飛騨の戦国は終わるのである。
要するに飛騨にとって戦国時代とは、周辺の大国の代理戦争を繰り返した揚句にようやく統一できた直後に日本を統一した勢力によって再度押しつぶされる、という歴史なのである。そういう、血で血を洗うような時代にしたくない。不幸な人間は一人でも出ない方が良いに決まっている。民によって立つというのはそういう意味であり、そのための政を行うことが必要なのだ。
少し思考が脱線した、と反省しながら草太は、いずれにせよ時間がない、と考えていた。だが焦っても始まらない。村上氏が滅亡してから甲斐武田の飛騨侵攻まで少し時間があったはずだ。それが何年かは分からない。それでもすぐその足で、というようなものではなかったはずだ。
焦らず、だが可能な限り急いで飛騨を統一しなければならない。草太はそう決心を新たにした。
草太はこのところ、午前中は政務を行い、午後は視察を行うと決めていた。午前中の政務といっても、朝のように報告を聞く、報告書を見る、というだけではなく、場合によっては水裁判のような公事の資料を読み必要なことを指示するなど、行うべきことは多岐にわたっていた。一方で視察も、街中もあれば岡前館の施設、例えば鍛冶場などを見ることもあり、その場その場で不満がないか、必要なものはないかを尋ねるようにしていた。
この日も、午後の視察を終えて帰ろうとすると、一人の下役が、一人を罰するように頼みにやってきた。話を聞くと、簡単に流れを言えばこういうことである。
領外から来たものは、岡前館の前の広場で食事を摂らせ、今までの職業や経験からそれぞれ必要な場所に割り当てて行く。だが最近、食事を取った後必要な場所を割り当てる前に居なくなり、何日も食事を摂りつづけている輩がいるという。それを「処罰したい」のだそうだ。と、そこへ顕誓が通りがかり、彼にも話を聞いてもらい、草太は顕誓に言った。
「何度も貰うのは悪いとは思いませんが、貰える食事にたかり続けるだけの乞食を作るつもりはありません。どうしたらよいでしょうか」
「なんともいえないがな。一回限りと明確に決めていないなら、こちらの落ち度でもある。そのものは今どこにいるのじゃ」
「案内するも何もあの小屋に」と、一件の掛け小屋を指差した。「最近は、来る人間の整理をしてくれているようです」
「ならば、仕事をしているではないか」と顕誓は言い、草太に向かって「この際だから正式に雇ってはいかがかな」と言い始めた。
まずは顔を見て話をする、全てはそれからです、と草太はかわし、掛け小屋に入った。川で漁でもしたのか、川魚が数匹、干してあった。そしてその男は寝ていたが、三人が入ってきたのを見て起きあがって姿勢をただした。
「ようこそこのあばら家へ。……と、思ったよりも大物が来ましたな。領内では非公式の場では直答が許されておるはずなので直答いたします。姉小路房綱様、高屋平助さま、それから僧は、たしか顕誓さまでしたか」
よくこちらのことを把握している。
「それは調べもしますよ、これから仕えたいと思っている相手ですからね。……自分は師岡一羽、武者修行というより美濃が斎藤家の支配になったから居難くなって、飛騨を通って越後へ抜けようと思っていたところ、ここでは米の飯が食べられる。庶民を優先する戦国武将なんてはじめてでした。なので、雑兵でもなんでもいたします故、置いて下され」
何が得意だ、と聞くと剣はいささか、と答えた。
「ならば平助と立ち会ってみよ、平助が良いと思えば合格としよう」
そういって、木剣を手に立ち会うこととなった。一間の間を開けて平助が剣気を抑えずに立つが、師岡は風を柳とばかりに受け流す。四半時ほどそうして打ち込みは両者ともなく、最後に平助が一度打ち込みを入れたのもすとかわし、師岡の返しを平助がかわしてもとの間合いに戻った。そして剣気を抑えた平助が言った。
「合格にございます。剣の腕にも、その剣そのものにも、一点の曇りも見当たりませぬ」
ならば、と師岡一羽を雇い、槍も使えるということであったから、当面は一鍬衆の武術指南役とした。考えてみれば今まで一鍬衆は人数を集め行進をさせてはいたが、槍を習わせたりしたことは一度もない。指南役がいてしかるべきであった。
師岡を雇った夜、まだまだ色々と不足していると痛感した。だが必要性に気がつかないことも多い。例えば外交や他国の諜報といった分野は、弥次郎兵衛が多少ともやっているものの、全く手が回っていない。専門の技量をもった人材がそれぞれ必要だろう。出来そうなものを抜擢する、というのも一つの方策か。
いずれにせよ、まだまだだな、と痛感した日であった。
また何日か過ぎた別の日のことである。全兵衛から金と銀の延べ棒各一本が献上されてきた。姉小路家日誌によれば、皐月二十四日のことであるという。
「全兵衛儀、天生鉱山より採掘した金銀各一貫目献上仕り候。公お喜び召され、全兵衛を山主として七公三民にて採掘を許可いたし候」
ただし、この鉱山については機密事項だったらしく、他の資料では、例えば一条家への年に一回の寄贈品目録では神岡産とされている。実際に神岡産を送っていたのか、天生鉱山産のものを偽って出していたのかは不明であるが、姉小路家日誌以外でこの鉱山の名前が確認できるのは、約百年後に書かれた諸国産出目録を待たなければならない。
また、同様の隠し鉱山を姉小路家はいくつも保有していたらしく、同様に姉小路家日誌には名前があるが他の資料には相当後の時代になるまで載らなかったものも少なくない。
「試し掘りをしたところ、思った通り銀が出ました。銀の方が多いようでございますが、金も混ざっておるようでございます。灰吹にて集め分け、まず最初の一貫目の延べ棒各一本をお納めいたします」
全兵衛が、三方に載せた金と銀の延べ棒を提出してきた。重さはいずれも一貫目(3.75kg)であるという。ずしりと重い、銀の塊である。概ねであるが、金が銭では四百貫(四億円ほど)、銀が銭では八十貫(800万円ほど)に相当するという。どのくらい掘るかは、人数と資材次第ではあるが、相当量であることは間違いない。
「分かった。何人くらい必要か、またどのくらいの資材が必要か、詳細は弥次郎兵衛と詰めるが良い。取れた金と銀だが、米が七公二民一倉ゆえ、銀も同じく七割を納めることとする。それでよいか」
「七割、でございますか」
「必要な資材はこちらが用意するか、実費をこちらが負担する。そなたらは掘って精錬するだけで良い。不足か」
「山主はどなたでございますか」
「天生鉱山については、全兵衛、お主が見つけた山故、お主に一任する。製錬された金銀他の七割を納めよ。鉱夫と山主の取り分については口は挟まぬ。挟むつもりはない。が、あまり酷く致すな。生活が立つようにしてやることを忘れずにせよ。それから鉱毒にも注意せよ」
「心得ましてございます」
そうして、全兵衛と弥次郎兵衛の間で細かい取り決めをし、人を送り込める体制を整えていった。勿論、内ヶ島氏理にも手紙を送って鉱山を掘る旨を教え、今一度内ヶ島家の取り分はなしで良いかと問い合わせている。返書には、二言はございません、好きに掘れば良い、とあった。
全兵衛は、人足は未経験者にせよ斡旋してもらえ、採掘用の資材は補填されるため実質的に負担なし、精錬した金銀銅の七割を納める以外の三割を人足と分ければ済む。現代で言えば、国の補助金で資材その他を入れることができ、国が鉱夫の斡旋も行ってくれる鉱山の経営を任され、その上がりの三割を自分と人足とで分けろ、といわれているに等しい。例え一割を全兵衛の懐に入れ二割を人足に渡したとしても、月に金、銀が一貫目も採れれば月収で5000万円近い額になる。年収が手取りで六億円、となれば鼻息も荒くなるというものである。
しかもこの後、全兵衛は鉱山近くに長屋を作り娼館、居酒屋の類を作り、人足達の落とす金が全兵衛にわたる形を整えて行ったため、人足達の給金を多少多くしたところで結局の全兵衛の取り分はあまり変わらない。こうしたあたり、全兵衛もなかなかの狸である。
だが、全兵衛は自分で使いきれない額はすぐに匿名で寄進してしまったり、人に貸してそのまま忘れることも多かったので、金には困らないが富という意味では実際にはさして残らなかったようだ。ようだ、とあるのは、平助殿夜話という、高屋平助の思い出話を書き連ねた書にそう書いてあるというだけであり、他に裏付けはないためだ。ただ、傍証のように、いくつかの寺の改修や由緒書きに篤志家が寄進をした旨があり、平助殿夜話の記述にある寺がいくつも含まれているのは事実であった。
しかし伝承には、巨万の富を得たといわれている。ただし、いわれているというのは、彼の館は天正大地震の際に地滑りにより埋没してしまい、未だその遺構すら発見されていないためである。今でも時折、屋敷があったとされている地帯では試掘が行われているが、見つかっていない。
無論、この鉱山からの収入が姉小路家の特に内政について、最初の数年を支える原動力であったことは間違いないであろう。
活動報告にも書きましたが、飛騨統一までの間は毎日0時に更新します。
推敲が甘くなる可能性もありますが、その場合はご指摘ください。
歴史日間ランキング3位(8月28日18時現在)、ありがとうございます。




