百七十、足利将軍家の上洛
石山本願寺もその信徒の活動を活発化させ南近江の動揺を図ったが、姉小路家も沖島牛太郎の協力も仰ぎつつ南近江の安定に向けて活動を開始し、一応の安定化を見た次第については既に述べた。六角家の弓隊については完全に排除され、石山本願寺の始動による一揆はなくなったものの、甲賀地方以外からの人の出入りは常にあったため野盗の侵入は完全には防ぎきることは難しかった。それでも鈎の陣の開始直後からすれば、大幅に情勢は改善されてた。
ところで南近江の支配が終われば次は京を制圧し足利将軍家が上洛するというのが、将軍足利義輝と草太の約束であった。
姉小路家日誌天文二十四年文月九日(1555年7月28日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、渡辺前綱をして足利義輝公を奉じて上洛させ、山城国一国から三好家を駆逐させ候。京制圧までは大きな戦は之無候えども、(略)」
琵琶湖岸の安全を確保した姉小路家は将軍足利義輝を奉じて上洛を行ったが、宮中の目は足利将軍家にはなく姉小路家にあったようだ。特に朝廷の目からは、足利将軍家は何度目かの都落ちからの帰還、という程度の目でしかななかったことが他の資料から読み取れる。例えば御湯殿上日記では姉小路家の上洛については、既に三度目であったが、先陣として京に入り河内への要衝である山崎城を抑えた経過まで詳しく述べられているのに対し、足利将軍家は草太と共に上洛し参内したという事実のみがさらりと書かれているだけである。公家についても多くは草太に対しておおむね好意的な目を注いでいるという事はあっても、足利将軍家に対しては何ら述べていないか、述べていてもほんのわずかに、本圀寺を仮御所としたと述べているのみである。
京の人々は足利義輝の上洛は、これまでと同じく単なる傀儡としての上洛であり、そこから脱しようとして早晩都落ちをすると考えていたのと同時に、姉小路家が既に京で打った手、例えば比叡山延暦寺の僧兵による治安の回復、困窮しているものに対する医療の充実などが評価されたことが庶民にとって姉小路家を評価する原動力であったであろうことは想像に難くない。さらに公家については、この当時の公家については特に摂家を中心とした上級貴族の最大の出資者は姉小路家であり足利将軍家は単なる姉小路家の傀儡と見られていたようだ。御所は仮とはいえ足利将軍家が京に入ったというのに、勅使が仮御所に入った形跡もないのはその証座であろう。
南近江制圧の報告を受けて足利将軍家からの使者として堀江景実が来たのは文月朔日(7月19日)のことであった。既に水無月四日(6月25日)に松永丹波守を使いに出し文月には出馬という返事を受けていたが、その先触れであった。型通りの挨拶が終わると堀江景実は言った。
「書状の通り、足利義輝公自らの出馬にて京に入る予定でございます。兵力はその後のことも含め全軍で五千。将は足利義輝公を筆頭に細川藤孝殿、石川長高殿が副将に、また池田隼人殿ら国人衆も加わることとなっております」
うむ、ご苦労、と草太が返すと傍らから弥次郎兵衛が言った。
「して、どの道で京に入り、京ではどこの宿をとる予定か」
「こたびは琵琶湖西岸を通り瀬田を渡り、山科へ入ることと聞いております。仮御所としてはかつての誼があるとのことなので本圀寺に、その後適当な場所に御所を作ると聞いております」
草太は堀江景実がほとんど重要なことを聞かされていないのか、それとも本当に足利将軍家に深い考えがないのか判断に困った。姉小路家が支配しているところに入るのでもなければ、三好家の攻撃にさらされれば、五千程度の兵がどれほど持つのか、甚だ疑問であった。確かに将軍足利義輝という武士は素晴らしい武勇の持ち主であるにせよ一人の武勇が戦局を左右できるほど戦は甘いものではない、そのことを細川藤孝が知らぬはずはなかった。
「出陣要請があるのか」
草太が言うと、堀江景実は頭を下げた。
「正式には細川藤孝殿が兵千を引き連れて参り、姉小路家の軍と共に京へ入らんと考えております。しかし某の役割は単に道を借りるまで、と」
確かに細川藤孝が明らかに不足している兵千を引き連れ観音寺城前まで来て援軍を乞うならば、草太には無下に断るのは難しかった。この辺りは草太の性格を読んだものであろうと考えられたが、だからといって気分の良いものではなかった。
堀江景実を下がらせると草太は、弥次郎兵衛に渡辺前綱と平野右衛門尉を呼ぶように言って席を立った。時刻は丁度午の刻であり、朝の政務はひとまずは終了となったためであった。
奥に入り昼餉の膳を運ばせた。あの一件以降、時間が許す限り、つうとひ文字姫と共に過ごすこととしていたためであった。
「それで、京へ行くのですか」
つうは反対であった。可能であれば今暫くは城から出ず、療養をするべきだと考えていたためであった。政務は常と変わらず勤めているように見えるとはいえ、あのことがあってからまだ一月、無理をしていないはずはなかった。
「とりあえずは渡辺前綱に京を制圧させる。その後、将軍足利義輝公がこの地を通り京へ上洛するとあれば、同道せぬわけにはならんだろうよ。南近江の情勢を口実にしようとも、情勢は落ち着いているからな、通じないだろうよ」
でも体調は、と言いかけてつうは、体調が悪かったのは外には極秘であるという扱いになっていたのを思い出した。
「大丈夫、危険はない。ないはずだ。上洛した後、挨拶だけしたら帰ってくる。往復を含めて一月もかからない、そのはずだ。……ひ文字、そなたの実家も寄るつもりだが、何か言伝などあれば伝えよう」
ひ文字姫は給仕の手を少し止めたが、すぐに元の動作に戻り言った。
「父稙家ならば恨み言の一つもないではありませんが、もう言うべきものもありません。また兄前久には特に含むこともありませんから」
そういって草太の椀に、姫飯をよそって出した。
「今日は姫飯か。ひ文字がつくったのか」
草太が言うと、ひ文字姫は言った。
「はい。ただ米だけで作るのは贅沢なので、引き割り粥に稗、蕎麦、大麦を混ぜこんでみました」
うむ、と草太が食べるとほのかな塩味があり、滋味深い味わいがあった。これに琵琶湖で捕れた魚と蓮根の煮付けを食べ、吸い物つき香の物が一切れ二切れついたものがこの日の昼餉であった。やはり胃にやさしいもの、消化に良いものを考えているのであろうと、草太は二人の気遣いがありがたかった。
食事が終わると草太は言った。
「陣中に連れていくわけにはいかぬが、無理はせぬ。危険もないはずだ。出発まででもまだ数日ある。慌てる必要はない」
草太が昼餉を終え、服部保長を伴って呼び出していた一室に入ると渡辺前綱と平野右衛門尉が待っていた。目の前には山城を中心とした絵図が置かれており、二人は既にある程度の話をしていたようであった。床の間を背に座り話をはじめた。
「この絵図から察するに予想はついておろうが、山城国を攻略し足利将軍家が上洛する、その手助けをすることとなった。上洛の下準備は既にある程度済んでいる。知っているだろうが比叡山延暦寺の僧兵が治安維持のために走り回り、既にいくつかの別院を中心として活動している。彼らも布教のこともあればよく頑張って活動しておるようだ。思わぬ産物として、石山本願寺の力は京にはほとんど残っておらぬ。比叡山延暦寺が追い出したからな。逆に言えば天台宗以外の宗派は生き難い街になっているようだ。その辺りは気をつける必要があるかもしれぬが、さしあたっての問題ではない。それ以外にも朝廷、公家に姉小路家に誼を持つものも多く、保護を与えることは必要だろうが彼らに対する警戒はさして必要もない。また人足香具師の元締めである城井弥太郎殿にもひとまずの話は通してある。混乱さえ起こさなければ民についてもさして気にする必要はない」
ここで渡辺前綱が手をあげた。
「民を気にする必要がない、とはいかなることでございますか。京の南部、伏見から宇治にかけては人も多かったはず。それを気にするなとは」
草太は、渡辺前綱の心配も分からないではなかった。
「そうだな、伏見、宇治の辺りの建物は、いくつかの蔵を除いてほとんどが掛小屋だ。その掛小屋も三好の山城支配をすすめた際に何度も戦場になり、更に近年は将軍家との確執のため、或いは大和への足掛かりとして雑兵が相当数駐屯している関係から、掛小屋程度であっても破壊されることが多い。相当数は既に北近江を中心に抜いており、一度戦となれば京の街中、それに周辺の山々に退去できるだけの支度はさせてある」
なるほど、という顔に渡辺前綱がなったのをみて、話を先に進めた。草太は詳しい敵情を、と服部保長に促した。
「まず三好家でございますが、現在三好家当主三好長慶は芥川山城を居城としており、讃岐、摂津を中心とした地域からの兵一万五千を芥川山城から高槻城にかけての地域に、更に二千を京の南方にある填島城に入れております。一方勝龍寺城、山崎城にはほとんど兵は入っておらず、合わせて三百に満たぬかと」
なぜだ、という平野右衛門尉に服部保長が言った。
「おそらくは河内畠山家の畠山尚誠どのへの誘いかと。それから京の街の中は既に比叡山の僧兵が多く、無用の軋轢は生みたくないためという理由もあるでしょう」
少し考えたが、大和は外交で味方に付け急襲により山崎城を攻略、天王山と男山の間で敵を防ぐ、という既定路線で問題はないようであった。
規定戦略を伝え、渡辺前綱に出陣を命じた。
「渡辺前綱、一鍬衆一万、中筒隊二千五百を与える。足利将軍家が入るまで山崎城を攻略して保持せよ。三好側を京に入れるな。平野右衛門尉、一鍬衆三千、中筒隊千を与える。伏見へ入り木津川を境として周辺を警護せよ。遅くとも一月以内に将軍足利義輝公を奉じて京へ入る。よく守れ」
はは、と二人は出陣のために出て行った。
草太は、自らの手で斬った相手と自らの命令で失わせた命、いずれも結果はほとんど変わらないが、心の重さの違いの違いがどこから来るのかと考えていた。




