十七、続、草太の旅
一行は一晩寝て回復し、翌朝、尾山御坊の門を叩いた。神通川を登って飛騨まで行きたい旨の添え状なども渡した上で、無論袖の下を門番にはそっと握らせるあたり、流石は弥次郎兵衛である。しばらく待つように言われ、待っていると一人の老僧が出てきた。老僧は特に名乗りもせず、ただ実照の使いであるとだけ述べた後
「丁寧にありがとうございます。通過についての許可を求めるものでございましたが、一向宗ではなく天台宗であろうと無法を働かぬなら自由に通過なされば宜しいかと思われます。何やら事情がお有りのようですが、それはこちらには言えぬでしょうし聞きませぬ。ただ、一筆を、と言われても困ります」
そして、ちゃり、と小粒を一つ、渡した書状の上に置き、
「このようなことをせずとも、取り次ぎはさせてもらいますよ。心配ご無用」
「これは、配下が失礼仕った」とは、平助である。身分を偽るためもあり、平助が武者修業を、草太はその弟子、弥次郎兵衛は便利屋という位置付けである。
「とは申せ、一言もなしに庭先を通られるのも、気持ちの良いものではござらぬと思い、伝手をたどっておるところ。……時に御坊、お名前をお教え願えますか」
「名乗るほどではない。この年になっても、いくら修業を積んでも、お血筋に生まれねばただの使い走りでございますよ。……是非に、というなら名乗りますが、瑞円と申します」
と、急に小声になった。
「戦で手柄を立てるなら武門の家に行きなされ。出家だの修業だの何だのというなら、一向宗は止めなされ。今の一向宗は腐り果てております。出家し仏門に入った身が、現世の権勢のために親兄弟で骨肉の争いじゃ。やめなされ、やめなされ」
しみじみという姿に草太は思わず口を挟んだ。
「では、なぜ御坊はこの寺におわすのですか」
「……ま、老僧の独り言じゃ、聞きたければ聞くが良い。……行きがかりじゃ。儂はな、元々はとある末寺で住職じゃった。が、一揆だなんだで、門徒が鍬を捨ててここへ入ってしもうた。儂は、儂の門徒を見捨てられなんだ。その果てがこれじゃ」
そういうと、一枚の木札を渡した。
「その木札を見せれば、一向宗なら多少は便宜を図ってくれるだろうよ。……なに、最初から渡さなんだは、袖の下を渡すなど後ろめたいところでもと思うたからじゃが、つまらぬ繰り言を聞いてくれた礼じゃ。そこの少年に免じてお渡しいたそう。……ところで飛騨に行くなら、庄川を遡り、白川郷中野村の照蓮寺の僧善了にこの手紙を届けてはくれぬか」
手紙を届けるなど訳もないことである。内ヶ島の領域に入るが、手紙を届けるという名分も立つため、危険は少ない。目で草太の意思を確認した平助は、快諾した。
そうして尾山御坊を後にした一行であった。だが草太は心の中で思った。一向一揆も、大小一揆など内部分裂で腐りきっているようでいて、腐っている上層部が、芯から信心をしている信者を良いように道具にして争っている。なるほど、地侍と同じという沖島牛太郎の評は、間違ってはいないらしい。
「苦しむのはいつも下だけ、か」
ふと草太は独り言を呟いた。弥次郎兵衛がつ、と草太の後ろに立って草太にだけ聞こえる声で
「旦那、そういうことは今は胸にしまって置いて下さい」
尾山御坊のある金沢平野から東へ向かい、倶梨伽羅峠を越えると越中の国であり、眼下に砺波平野が一望できる。この砺波平野を横切り、庄川のほとり瑞泉寺の近くで宿を取った。ここからは川沿いに南下する
越中の国から飛騨の国に入る道はいくつかあるが、主要な道路は神通川沿いをゆく飛越街道である。草太たちがここを通ることにしたのだが、方針を変えたのは既に述べた。飛越街道のうち、白川郷を通らないのは東街道である。地図で見ると現在の国道41号線である。ぶり街道の別名の通り、ぶりを運ぶ牛も多くおり、この地を進むには「単に歩くこと」だけである。
余談にはなるが、日本中どこでも、大抵は山賊の記述がある。有名なところでは鈴鹿山であるが、大江山のように鬼とされているもののその実山賊である例まで考えれば、大抵は存在する。しかし、ことぶり街道に関してはそのような話はない。
考えてみれば当然である。ぶりを奪ったとてそれを売りさばく先は、荷を奪った相手かその同業者でしかない。ぶりは飛騨から信州へ運ばれ、そこで銭に変わるのだ。小規模にぶりを信州に運んでも小銭にもならぬし、それこそ身元を検められればすぐに足がつく。かといって人足が懐に銭をもっている訳もない。人足以外を人目につかぬように探し出して銭を奪う、というほど人足以外が多いわけでもない。
はっきり言えば、割に合わないのだ。
話を草太に戻そう。草太たちは庄川沿いを遡り白川郷、その先の照蓮寺へ向かうこととした。道案内役の子供を夜のうちに都合しているのは、流石に弥次郎兵衛の手腕である。基本的に一向宗門徒しかおらず、門徒同士であれば危険は少ない、ということなのかもしれない。
草太たちのあずかり知らぬことではあるが、この時の加賀、越中の一向宗は、一向宗内部での権力争いによりいわゆる大小一揆とよばれる一種の内乱状態にあった。そして尾山御坊、瑞泉寺、照蓮寺とも大一揆派に属している。したがって、大一揆派の勢力内部だけで他勢力との境を通らぬ道であるため、比較的治安が良い、という側面があった。
ともかくもこの道案内の後に続いて、幸いにも好天に恵まれた一行は、流石に騎乗ではなく馬を引いてではあったが三日後の夕方、照蓮寺の門をたたくことができた。
この時代の寺社というのは、寺社というよりも小規模な砦という方がふさわしい。空堀こそ掘っていないものの、堂々たる石垣と塀を連ねた砦という印象を受けた。
「お頼み申します。手前、弥次郎兵衛という旅のものにございます。尾山御坊の瑞円様より、当寺の善了様へお手紙を預かって参りました。また日も暮れてまいりました。一夜の宿をお願い致します」
流石に如才のない弥次郎兵衛である。門前にいた門番に手紙を渡し、更に宿まで確保してしまった。
宿坊の部屋で草太は考えていた。途中で一度誰何されたが、平助が武者修行の途中であり照蓮寺への手紙を預かっていること、そして木札を見せたところ、それ以上の詮索もなく通行できた。ということは、内ヶ島家は一向宗と繋がっているかもしれない。いや、繋がっていると見た方が間違いがないだろう。飛騨を統一するということは、結局は他の勢力は滅ぼすか服従させるかのいずれかでしかない。だが内ヶ島家を滅ぼそうとするのは、おそらく一向宗を敵に回すことになる。それは、草太の考えうる最悪の場合には、飛騨の民衆そのものが敵に回るということである。これは得策ではない。三木は滅ぼさねばならないとしても、そろそろ他の勢力をどうするのかという点についても考えるべき時に来ている、そう草太は考えていた。
いずれにせよ、今日で行列と分かれて七日目である。明日は越中街道を通って国府に入ることができる。といって、行列と合流する必要がある。明日の夜付いたからといって、そのまま国入りとはならないのが厄介である。
一方の、草太たちと合流するはずの行列である。
何事もなく美濃へ入り、井ノ口の先より左に逸れる飛騨川沿いの支線を北上していた。宰領は城井弥太郎の手のものである。あえて草太には紹介していないが、全員弥次郎兵衛と面識がある。弥次郎兵衛と面識がないのは、牛車に載せた子供一人だけである。全員、誰が欠けても良いという覚悟は持っていた。その覚悟を持たなかったのは、子供一人であろう。
行列は進む。いつか山道に入った。崖を削ったような道を進む。急峻な山と川に挟まれた土地を通るときには落石を覚悟し、民家があれば少しほっとした。人目はそれなりにあるため、勅を奉じた行列を公然と襲うようなまねは考えにくい。考えられるのは、夜間の襲撃か落石、おそらくは落石が「不幸な事故」であろうと城井弥太郎は考えていた。
果たしてそれは起こった。飛騨金山を過ぎた後、川沿いの道で落石が起こったのだ。しかも狙い澄ませたように牛車周辺にだけ大きめの岩が数個、投げ落とされた。合図と共に一行は散会し、落石被害に会わぬように注意する。が、牛車だけはそのまま動けない。岩の一つが牛に当たったのだろう。牛が暴れ牛となって走りだす。だが牛車にも既に大きなものが当たっていて、甑|(車軸)は折れ、屋形は潰れていた。落石が収まってから一行が確認したが、中の子供は即死だったらしく、死亡していた。せめてもの礼儀として、壊れた牛車を燃料に荼毘に付した。
その後一行は、小柄な一人が被衣をかぶって代役となり、牛は次の焼石の里で売り捌き、先を急いでいた。
三木直頼は第一報を聞き、牛車が潰れたことから草太を始末したと考えたが、第二報で潰れたのは牛車だけだったらしく、一人が被衣をかぶっていることから、これが草太であると考えた。同じ手はそう二度三度と続けば、作為が疑われる。既に一行は焼石の里で牛を売って去ったという。とすれば、もうすぐ下呂へ、三木氏の本拠地へ現れる。
招いて毒殺しようか
ふと頭をよぎるが、すぐに否定する。行列はあくまで「不幸な事故」によって死亡しなければならい。毒殺などをすれば、朝廷が敵に回る。朝敵として指定されれば、四方から攻められて滅亡、という未来しか想像できない。少なくとも姉小路の名跡は継ぐことが出来ないだろう。仕方がない。三木直頼は命令を下した。
「上呂から高山にかけての山地で、必ずや落石の計を成功させよ」
高山に入られれば、もうその先に落石の計をしかけられる場所はない。市街を粛々と進み、国府まで到着されてしまう、という焦りもあった。
結果からいえば、この落石の計は功を奏しなかった。
行列と分かれて9日後、飛騨高山で無事に合流した。死亡した少年と牛車以外は特に被害もない。しかし、草太の頭にははっきりと、三木氏については和睦はあり得ない、滅亡以外認めない、という処分が決められたのだった。
ただしこれは、罪もない少年を身代わりにした、という罪悪感から逃れるためだったのかもしれない。




