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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第一章 少年立志編
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十三、草太、元服す

「ところで、城井殿。なぜ雪解けのころに、と」

 草太はふと疑問に思ったことを口にした。

「修業の期間としては一年半はいささか短い。何かございましたか」

 弥太郎と呼び捨てになされ、と前置きをして弥太郎が述べたのは、背筋の凍るような話であった。

「今年、年が改まりましたから昨年になりますが、甲斐武田家が中信濃を攻め、自勢力内に組み込み申した。その後戸石城を甲斐武田家が攻め大敗を喫しましたが、甲斐武田と北信濃の雄である村上の力の差は歴然。しかも、その争いにいずれが勝ったとしても、或いは和議が成立したとしても、三木氏か江馬氏がそれらの勢力に接近し、後ろ盾としようとするは必定。もしこの策がなれば、飛騨統一は彼らの介入を招きかねませぬ」

 草太は知っていた。戸石崩れだ。その翌年には調略により戸石城は落ち、村上氏はそれから二年余りで戦国大名としての地位を失うことになる。その後、江馬氏が甲斐武田家、越中を制圧した越後上杉家の間で揺れ動きながら、織田家を後ろ盾にした三木氏と対峙する、という構図がおこる。

 もしこういう状況になれば、飛騨統一はおろか、単なる代理戦争の場として使いつぶされるおそれすらある。


「確かに、急がねばならぬな」

 草太にはそれまでの正確な年数は思い出せない。しかし、状況の推移がどうであったかについては、概ね間違いのない流れである。確か信玄自ら飛騨入りをした、と読んだ記憶もある。

「が、焦っても始まらないでしょう。元服し任官して、初めて話が動く」とは弥次郎兵衛の言である。続けて弥次郎兵衛が言った。

「その元服ですがね。一条公の計画には、この春にも元服を、と考えておられるようです。任官についても根回しが行われている様子。歌会もいささか例年よりも多く、また一条公が呼ぶのには珍しき方もありますな」



 西洞院時当の日記の天文二十年弥生三日|(1551年4月9日)の項に一見すると何でもないが、他の資料と見比べると奇妙な一文がある。

「夜、歌会あり、一条家を訪問す」

とある。時当自身、草太を鞍馬に送った直後に従四位下に昇格しているから最下段ではないとはいえ、前関白である一条房通が呼ぶには格としてはかなり足りない。家督を継いでいないというのであれば尚更である。時当自身、さして和歌に通じているということもなく、なにより当の一条家側にはこの日、歌会が催された旨の記録がない。草太のことについての何らかの指示がこの日あったというのが、正確なところであろう。

 日記を見ると、弥生十日(4月15日)に鞍馬へ参詣す、とあるところを見ると、迎えに行ったのも時当であったのだろう。

 先触れが草太の元に来、十日に時当が迎えに来ると聞いたのは、弥生五日か六日のことである。鞍馬寺の記録の弥生五日の項に、一条家からの寄進があったことが記されている。



 時当が一条家に呼ばれたのは、弥生三日のことである。夕刻にまぎれてくるように、とある。時当は思った。これは草太に関することだ、と。

 時当が一条家に入ると、奥の間に房通が座って待っていた。取り次ぎとして控えているのは、今回は鈴木である。鈴木がやはり型通り「直答を許す」と述べ、房通が口を開いた。

「さて、時当、久しいの。息災であったか」

 と前置きしてから本題に入った。

「時に時当よ、鞍馬の山は寒かろうな。だが信濃はどうであろうな」そこで一旦言葉を切った。試されている、と時当は思った。

「鞍馬はそろそろ雪が解け始めておりますな。果てはありませんが、まずまず、解けているかと。信濃は、甲斐の虎が暴れておるかと。美濃と越中は相変わらずでございましょう。ただ越中は、畠山殿が国元を開けすぎておるように思いまする」

 上出来じゃな、と房通は思い、言った。

「そろそろ、鞍馬の件を動かしたい。いや、そろそろ動かさねば、どうにも出来ぬやもしれぬ」

「ならば」

「ふむ。元服させる。烏帽子親は麻呂がなろうよ」

 時当は驚愕した。烏帽子親に、一条房通公自らなろうというのだ。つまり、一条家の援助を物心ともに約束するも同然ということである。勿論、逆に一条家に対して姉小路家が貢納品など援助をする事でもあるのだが、飛騨は租庸調のうち租以外を免除されるほど貧しい地域であり、貢納品はほとんど期待できない。

 それでも烏帽子親をする、といっているのだ。朝廷の権威を高揚するという事に対して並々ならぬ決意がある。そう時当には感じられた。

 無論、すぐに鞍馬から草太を連れてきても元服させるわけではない。色々と準備が必要である。そこで、十日に鞍馬から草太を連れて戻り、翌々日に元服の儀を行うことがこの日告げられた。時当の役割は、草太を鞍馬から連れてきて一条家に無事に送り届けることである。


 一方の草太である。いつも通りの鍛錬を行っていると、日頃の食事を届ける寺男ではないものが訪ねてきた。

「草太殿、にございますな。某、一条家に仕える鈴木と申すものにございます。主命により参上仕りました」といって一息ついた後、「今月十日に西洞院従四位殿、時当殿と言った方が分かりましょうか、かの御方が参詣にまいりまする。その帰りに、一緒に西洞院家へ行き、その後すぐに一条家にお入りになる手筈になります。身の回りの支度など、ご準備下さいませ」

 分かった、というと鈴木は去っていった。十日には出られるように、といっても、この小屋の中から草太が持ち出さなければならないのは、着替えと六韜三略の書、それから馬の秋雨だけである。軽装というにも軽装である。一応、非常食として干飯を日々少しずつ貯めたものもあるが、それほどの量でもない。平助も似たようなものであるが、六韜三略ではなくここへ来る時にもっていた太刀の類と、素振りをするための木刀が、草太と平助とが一本ずつ、二本あるきりである。荷を改めてまとめて風呂敷に包めるようにし、出発前夜に馬に括ればよいという程度にしておいて、意外に荷が少ないことに気がついた。

 興仙が来て、山を降りることを告げると、言葉少なにそうか、と言った。そして平助に木刀を持ってくるようにといって庭先に立ち、平助に構えさせた。これは平助が最初に立ち会った時以来である。

「まだ少し早いが、の。これは餞別代りじゃ。よく見て覚えよ」

 ゆらり、と興仙の体が前に出、木刀で木刀を抑える。木刀が粘るように動き、平助は木刀を思うように動かせない。下段から斬り上げようと木刀を下げたところで、す、と木刀が上がり額の前で止まった。真剣勝負であれば、頭を割られて死んでいる。

「霞、と呼ぶ。吉岡の小僧も、使えるはずじゃな。もっとも、形は変わっているかも知らんが」



 余談ではあるが、○栄の太閤○志伝5では、筆者はこの技以外はほとんど不要だと思っている。札を集めるためには習得するが、剣士の場合、この技と、精々上泉信綱らから貰える全体攻撃技しか使わない。その全体攻撃技も一ターン防御で貯めなければならない。霞は割合に最初に覚えられる上、武芸をあげておけば初手から使うことができ、運が絡むのは間違いないが、一撃が当たりさえすれば、この技だけで、霞→ガード→霞→……で、武器込みの武力次第では簡単に完封できる。上泉信綱でさえ、全体攻撃にさえ気をつければ負ける要素はない。その位、強い(というよりも使い勝手が良い)技である。

 筆者だけかもしれないが、個人の武力まで込みにすると上泉信綱がいるから別格として、流派として見た場合にはPC版では技一つと不遇に見えるが、その実この技があるから流派としては吉岡流がこのゲーム中最強だと、勝手に思っている。



 弥生十日は、あいにくの曇天であり、途中で雨も予想された。牛車も、それに対する用意をしてはいたが、供周りは皆蓑を着ていた。

 一方の草太である。供周りは平助だけであり、荷も馬に振り分けた少量の荷物だけである。仁王門の前で待ち、曇天で多少の雨であれば平気な草太と平助であったが、平助はとにかく草太は普段着とはいかず、正装をしていた。といっても、略式の狩衣であったが。そして、草太の馬もまさかそのまま乗っていくわけにもいかず、牛車に乗る必要から、馬は平助が引いて歩くことになっていた。

 昼前に時当一行と落ち合った一行は、一応は参詣という名目上、半時ほど仁王門前で時当以外は待っていた。その後、京への帰路ということで牛車に時当と並んで草太が、一回りも二回りも体つきが出来てきた草太が並んで乗り、供周りに一人だけ蓑をつけていない平助が二頭の馬を引いて突き従う。一行が西洞院家についたのは、黄昏時を過ぎた頃であった。軽く食事を給されたが、いつものような干飯ではなく精米したのを湯でこぼした、いわゆる姫飯である。現代の米に近いその米飯に、草太は思わず現代を思い出してしまい、境遇の変化に胸がつまった。

 それを見た時当は、元服への不安か、その後の飛騨の国司の不安か何かで胸が詰まっているのだろうと思うだけであった。だが、時当は公家であり、下向すべき国もない。一応、遠江権守に任官していた時期はあるが、名目上の官位にしかすぎず、下向したところで何かできたとは思えない。何の助言も出来ない自分が、腹立たしくもありおかしくもあった。そういう意味では、10歳以上年下の草太の方が、ずっと大人であるようにすら思えた。

 問題は作法である。系統だった正式な作法を知らないという。そのため、一日で元服の作法から任官挨拶の口上、更に任官後の帝への挨拶と下向願い、これらを全て教えなければならなかった。草太は何とか覚えたが、何の意味があるのか全く分からないものばかりだった。


 一条家が姉小路高綱から姉小路家の後継として預かっていた子供を元服させ任官させて飛騨に送り返す、という筋書きである。なぜ一条家が預かったのか、などというのは、全く関係ない。一条家という公家がそう言っているから、というだけで、根回しをきちんとすれば押し通せるという辺り、房通の手腕は並々ならぬものがあるようだった。無論、前関白という肩書や、その息子兼冬が次代の関白と囁かれているのも影響しているのだろう。だれも表立って反対はしない。少なくとも京では。

 勿論、三木氏の息のかかった下級貴族は胡散臭いものを感じているが、それはそれである。影響力のある相手には既に根回しが終わっているため、精々三木氏に手紙で事の次第を報告する程度でしかない。


 元服の日の朝、西洞院家から一条家に入った。一条家では既に準備万端整えてあった。

「姉小路高綱が嗣子、幼名、草太。烏帽子親をこの一条房通公が仕る。本日ただいまを持って元服し、我が主房通公の一文字を継ぎ、本日より姉小路房綱を名乗ることを許す」

 高らかに述べたのは、取次の近藤である。身分の差が大きすぎるためでもあり、公式の場でもあるため、直答は許されない。房通にかわって鈴木が草太の前髪を剃り、烏帽子をかぶせた。普通は本人が行うべきことだが、これもやはり房通との身分の差というものであろう。

「元服に当たり、朝廷より勅命が下っておる」取次の近藤が言う。簾の向こうに一人が入り、房通の右に座った。

「関白、二条殿下より勅命である。謹んで聞け。姉小路房綱。元服に当たり、従五位下に任官させ、同時に長らく空席であった飛騨の国司に任ずる」

 はは、ありがたき幸せ、と型どおりに返すと、二条公はすと立ち上がり去っていった。

 この後、明日の朝任官の挨拶に行けば任官の儀式は終わり、下向願いを朝廷にし、それが通れば、飛騨へと行くことになる。といっても、下向願い自体は書状は既に出されている。日付上は元服の義の終了、飛騨の国司任官と同時に提出される形になっている。下向自体が否定される可能性は、二条関白と一条前関白が主要な公家に根回ししている以上、あり得ない。

 先に断っておくが、この後も折に触れて草太は名前が変わる。名乗りは、例えば上杉謙信が幼名虎千代、元服して長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎、上杉謙信と何度も名を改めたように、名前は変わる。今や姉小路房綱となったが、必要がなければ、混乱を避けるために今後も草太で通していく。


 ともあれ、元服の儀も終わり、朝廷に出仕し、堂上人としては最下位の従五位下飛騨国司に任じられた。草太が姉小路高綱の正当な後継者であると朝廷が認めた瞬間である。歴史は我々の知っている歴史と、ここから大きく変わり始めたのだ。


 一条房通の日記の天文二十年弥生十二日の項にはこうある。姉小路房綱、元服し従五位飛騨の国司に任官す。祝着に候。即日、下向願いも受理され、天も喜びなさり候、と。因みに天というのは天皇陛下のことである。


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