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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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百四、椎名家の錯乱

 また時は少し遡る。一般に椎名家の錯乱と言われる、この時期の東越中の状況の大幅な変化がある。

 大混乱の一場面として埋没してしまいがちである。残念なことに、なによりも他の局面に比べて、地味なのである。更に同時期に派手な戦いが飛騨で、若狭で、そして北信濃では第二次川中島の合戦が行われている、その時期の中で行われた事件であるため、余り有名ではない。だが、様々な影響を後々まで残した、という意味では重要な意味を持っている状況変化である。


 まず第一に椎名長常が突如病死し、家督が椎名康胤に移ったことである。病死というが、時期が時期であり、その死後の大変化を勘案して暗殺、乃至はそれに近いことが行われたと考える論者もいる。だが、子が親を暗殺することなど珍しくもないのが乱世の常である。病死か暗殺かについては、さして重要ではない。重要なのは、この大混乱の発生時期に椎名康胤が家督を継いだこと、そして又守護として補任してきた越後長尾家に一方的に断絶を通告し、甲斐武田家に乗り換えるという事態が起こった事、最後に初七日さえ終わらないうちに兵を集め、西越中に攻め込む姿勢を見せたことであった。

 家督相続については、他国が口を出す話ではない。だが又守護代として任命していた越後長尾家との断絶は、大きく言えば室町幕府の権威の否定でさえあり、更に甲斐武田家に臣従の使者を出したということは越後長尾家にしてみれば公然と敵対関係になると宣言されたに等しい。その上で、これまで兵糧、塩の売却先であり、更に鰤街道を通じて関係の深い姉小路家に攻め込む姿勢を見せたことは理解しがたく、正に錯乱と呼ばれるにふさわしいものである。



 椎名長常は病に倒れていた。常に一枚上に行く姉小路房綱という存在、証拠の存在しないが離反するかもしれないという配下の存在、いつ誰が裏切るかという不安、そういった現代で言うストレスが、椎名長常を蝕み、椎名長常の寿命を削っていた。そして酒量が増え、心臓の発作により倒れた。病床で出された薬は、毒が入っているかもしれないと思うと飲めなかった。あの小島職鎮ですら、何の接点もなかったはずなのに最後は裏切って内通し、水越勝重と神保長職を死に至らしめたのだ。自分の医師が調略されていないと考える理由が、何一つなかった。既に長くないと悟った椎名長常は甥で嫡男の椎名康胤を呼び、家督を譲ると宣言した後で次のように言った。

「姉小路房綱を除ける機会があるならば、ためらってはならぬ」


 果たしてその機会は来ていた。自らの手ではないにせよ、越前朝倉家によって分断された土地に赴いた草太を、補給の切られた草太を朝倉家が総力を挙げて叩く、という。この策を纏めようとしているのが石山本願寺、即ち一向宗であることは気に入らなかったが、この策に乗ることに決めた。同時期に越後長尾家から信濃北部への出兵要請が来ていたが、知った事か、と独断で拒否し、同時に縁切り状を叩きつけた。又守護代として東越中を治めていたが、これからは自力で治める、その意味もあり、また石山本願寺が協力する条件、甲斐武田家との同盟というより従属にとって、どうしても越後長尾家との決別はすべきであった。


 そして、家督相続と同時に兵を集めた。叔父であり養父であり先代当主であった椎名長常の葬儀もそこそこに。名目は、東越中の家督相続に付き、馬揃えをすべき、とした。

 だが、それが馬揃えだけで終わるわけもなく、西越中、飛騨、越後のいずれかへ向けられることは明白であった。同時に一向門徒衆も越中一の一向宗の古刹である願海寺に集結を開始していたが、その討伐かと家中では考えられていた。家老土肥政繁は一向宗討伐ではないと考えていたうちの一人であった。家督相続後、暴走といっていい越後長尾家との絶縁、甲斐武田家への従属は、甲斐武田家が隣国ならばあり得る話であったが、そうでないのであれば、共通の隣国、越後長尾家への宣戦布告に他ならない。土肥政繁は一向門徒衆も動員しての越後出兵であると考えていた。


 椎名家の居城である松倉城は、連年の食糧の輸出で兵糧に不安があったが、それでもそれに見合った軍資金があり、装備は椎名家直属部隊に限って言えば相当に良好であった。鉄砲がないのは伝手がないからであり、姉小路家に仲介を頼んだこともあったが自軍の分も不足している故、と断られていた。国友村では数年先まで予約が埋まっているという話であり、姉小路家も困っている、と言われてはどうにもならなかった。数年前に堺鉄砲の小筒が売られていたが、そのときに無理にでも買っておけばよかった、と後悔していたが後の祭りであった。といっても、小筒が十丁ばかりあっても誰も使い方も分からず、火薬さえ作れずどうしようもなかったであろうから、結局は同じことのようにも思えたが。


 家臣団の連れてきた雑兵は大部分が農民兵であり、ごくわずかに郎党衆がいる、という形であった。これは椎名家直轄軍も同じであったが、装備はやはり最上級に位置した。合計一万二千の兵であるが、結局のところは百人、二百人という単位の兵を率いた家臣の寄せ集めに他ならない。直轄軍が最も多く四千、その次が土肥政繁の二千五百、この他神前和泉守千八百、細川惣十郎千などが主なところであった。これを百や二百を率いたものはまとめて与力という形で軍に編成するのであるが、命令権者と与力の仲の良し悪し、兵士数の大体の均等化まで考えなければならないのであるから、この編成がまずは一番の大仕事だと考えてよい。

「戦う前に消耗するのは、困るのだがな」

 心の中でそうぼやきながら、未だ示されない相手との戦いのための陣割を行っていく土肥政繁であった。


 そして、評定であった。誰それは誰の隊に、と読み上げるのも土肥政繁の仕事であったが、さてどこを攻めるのかは分からなかった。集結中とされる一向門徒衆とされてはいたが、近ごろの関係は割合に良好であった。少なくともこの一年は一向一揆自体が起っていなかった。姉小路家が瑞泉寺、勝興寺を配下に組み込んだためであろうとは推察されたが、今後の新しい中核を探しているだけかもしれなかった。

 評定で軍の陣割が発表された後、椎名康胤は驚くべきことを言った。

「一向門徒衆と共に、西越中を攻略し、越中を統一する」


 確かに越中統一は椎名家の悲願ではあったが、これまでも椎名家がその名目で兵を挙げたことはなかった。神保家に圧迫されては越後長尾家に借りを作り、一向一揆が起ればやはり越後長尾家に借りを作っていた。越後長尾家は守護代として東越中半国を得る代わりに、又守護代として椎名家の越中支配を認めてきた。これを言ってみれば武力で、室町幕府が作った制度の支配体制からの脱却をすることで越中を支配しようとしているのであった。しかも一向門徒衆と協力とは。つい三年程前にも一向一揆の鎮圧に越後長尾家の力を借りたばかりであった。それが一向門徒衆と協力して越後長尾家とは縁を切ると言った。

 土肥政繁は開いた口がふさがらなかった。


 その上で椎名康胤は驚くべきことを言った。

「越中を平定後、甲斐武田家と協力して越後長尾家を倒す。支配体制から脱却する」

 まずは越中の平定である、姉小路家の主力が居ない今こそ、その好機であると、椎名康胤は宣言したのであった。


 陣割は三つ、椎名康胤が率いる直轄部隊を中心とした第一部隊六千、土肥政繁隊を中心とした第二部隊四千、そして両者の後詰及び遊撃として神前和泉守率いる二千とされていたが、一向門徒衆がどのようになっているのかは分からなかった。一向門徒衆は南方の栃津の地にある願海寺に、既に一万程が集結しており、最終的には一万二千から一万五千という数になると考えられていた。その中心人物は、加賀から落ち延びてきた州崎景勝、小出城城主唐人兵庫らが入っているとの報告があった。松倉城に参集するはずの国人まで一向門徒衆側についている辺り、椎名康胤の器が知れた。もっとも地位が器を作ることもあるから、まだ継いだばかりの椎名康胤の器がこれから大きく育つことも、それを示す機会があると、土肥政繁は考えていた。


 一向宗との接点は、最近の政務、その一環としての視察が増えたことを喜んでいた土肥政繁であったが、その視察の際に庄屋の家などで接していたのであろうと推察された。唐人兵庫は、もしかすると一向門徒衆に参加したのではなく椎名康胤が送り込んだ手のものであるかもしれないな、と気がついた。陣割の際に唐人兵庫が居ないことを報告したが、それを別段咎める様子もなかったのはその証座であろうと推察された。

 土肥政繁の思っていたよりも、椎名康胤の器は大きく、既に一向宗も収めていたのかもしれなかったが、むしろ一向宗に取り込まれているという方がしっくり来てしまうのは、おそらくはそちらの方が普段の言動から推した椎名康胤の器であったためであった。実際に石山本願寺の策によって動かされている操り人形に過ぎない椎名康胤であったから、土肥政繁の推察は正しかったのであるが。

 椎名康胤の策によれば、神通川を各隊分かれて渡り、一気呵成に砺波郡までを平らげる、というものであった。中央、増山城を含む一帯には椎名康胤率いる本隊が当たり、海沿いに放生津、守山城までを土肥政繁率いる第二隊が、その中央を予備隊である第三隊が渡り両方を補佐する、その更に上流で一向門徒衆が渡河して増山城より南部を、特に瑞泉寺、勝興寺を奪回する、というものであった。



 さて、一方の姉小路家、増山城に詰めていた小島職鎮は椎名康胤が兵を集め、一向門徒衆も集結中であるという報告を聞き、早速軍議を開くべく、能登の守備を任された寺島職定、上見城を居城にして同じく西越中の守備を任された内ケ島氏理を増山城に呼び寄せた。単にこの集結した一向一揆討伐のために椎名康胤が兵を集めたのであれば問題はない。それは東越中の内部の話である。だが、一向一揆が発生する前から陣触れが行われていたと見られることから、おそらくは両者は手を結んでおりこちらに向かってくる、と見て準備しておくべきである、と小島職鎮は考えていた。無論、準備が無駄になったとしても、攻撃されない方に賭けて準備しないより数倍ましであることは明らかであった。

 そして軍議の結果、守山城に一鍬衆二千を寺島職定が入り、富崎城には小島職鎮が一鍬衆五千と中筒隊五百を率いて入り、内ケ島氏理は独自に養成していた一鍬衆四千と中筒隊三百を率いて瑞泉寺付近に築城された井波城に入ることが決められようとしていた。

 丁度この軍議の行われている最中に、増山城に一人の軍使が来た。城生斎藤氏の使いであると言った。

 天文二十三年長月二十六日(1554年10月22日)のことであった。


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