百二、見る戦い、見せぬ戦い
奥飛騨は、神岡の地より南へ進んだ先、高原川に沿って存在する僅かな平地にすがって生きる人々の住む地であった。
天文二十三年までは。
安房峠を越えて安房谷と高原川が合流する地に、平湯温泉を発見したのは山縣昌景であり、ここで兵を休めつつ合図を待っていた。狼煙台の設置は済んでいたため、北信濃からならば一刻足らずで合図が届く手筈になっていた。その合図があり次第、高原川を下って飛騨吉城郡に侵入する、その予定であった。
しかし、山縣昌景はただ兵を休めていたわけではない。絶え間なく物見を出し、敵城の様子を探ろうとしていた。
名もなき侍がまた一人、物見として繰り出されていた。平湯から川沿いに下り、吉城郡を探るのがその任務であった。しかし、慣れぬ山は道が分からず、迷いやすかった。川沿いに、というが、川が幾筋にも合流しているため、川から少し離れた山の上を通っていたが、少し川が見えなくなったかと思えばすぐに道に迷ってしまっていた。
ガサガサ、という音を立てて藪をかき分け進んでいたところ、突然人が現れた。
「なんでぇ、お侍さんかよぅ」
その姿から、土地の猟師と見えた。
「この土地の猟師か。少し頼みがある」
「弁当なら分けねぇぞ。食い物はもう蓄えがあまりねぇ。銭を貰っても、腹は膨れねぇ」
侍は苦笑して、そうではない、と言った。
「奥飛騨の人里まで道案内を頼みたい。駄賃ならはずもう。人里で食料も買えるだけ買ってやろう。どうだな」
猟師は言った。
「人里まで、って、かなりあるだよ。お侍さんの足なら、一日半はかかるかのぅ。……途中で山菜取りをするで、それを待ってくれるならやらんでもねぇ」
「山菜取り、か。どのくらいかかるのだ。急ぐのだがな」
と侍は言ったが、
「そんなことを言っても、弁当は今日の夜の分しかねぇ。お侍さんをつれて獲物も取れまいし、山菜くらいないと飯がねぇだよ」
と猟師は聞かなかった。その時別の猟師が、腰に仕留めたウサギを二羽ぶら下げて現れた。
「おぅ、田吾作でねぇか。獲物はウサギかよ」
出てきた猟師は田吾作というらしかった。侍は二人の会話を聞いていた。
「今年は大物が少ねぇからな。……時にそのお侍さんは」
「人里に、行きてぇんだとよ。時にそのウサギ、分けちゃくれねえか」
「分けられねぇ。他に人が居ねぇからな。悪いな」
そうか、と猟師は言い、
「そういうわけだからよ」
といつ抜いたのか短刀が侍のわき腹に深々と刺さっていた。
「悪いが、人里には連れていけねぇよ」
侍が声もなく絶命すると、二人は手早く侍の持ち物を剥ぎ、必要な情報がないかを検めた後、穴を掘って死体を埋めた。
「八人目か」
そう言ったのは、土地の猟師に扮した平野神右衛門であった。
「それにしては、後ろもおりませんな。あまり大人数では物見の役には適さないとはいえ、一人ずつ、それも後ろから付けるものもなしにただ出し続けるとは」
田吾作と呼ばれた猟師が答えた。この者は本名が田吾作であり本職の猟師であったが、博打で身を持ち崩し、鷹巣城に入って平野神右衛門配下として忍びの技をいくつか身に着け、そのまま服部保長配下として今に至っている、という経歴の持ち主であった。
「大方、道に迷っているとでも思っているのだろう。他に居ないか、また来ないか確認しておけ。多分、本隊が動くまでは来続けるはずだ。定期的に出しているから、次は明日ぐらいか」
そういって田吾作を送り出した後、平野神右衛門はひとりごちた。
「本職の忍びではないのは分かるが、もうこれで八人だ。後ろを付けるだとか、複数人で出すとか、何か工夫しようという気はないのかね」
山縣昌景は、未だにどの物見も戻らないことに、焦りを感じ始めていた。このまま川を下れば奥飛騨にたどり着く、地図にはそう書いてあった。だが未だに奥飛騨にたどり着いて戻ったものは一人もいなかった。誰一人として戻らず、本当にこの地図が正しいのか、或いは地図とは別の川のほとりにいるのかと考え始めていた。一度引き返すことも考え始めていた、丁度その時に、兵たちが騒ぎ出した。熊でも出たか、と思ったが違った。猟師が一人、現れたのだという報告に、すぐに会うことを判断した山縣昌景であった。
この猟師は、無論平野神右衛門であるが、今はどこからどう見ても猟師であった。この一月ほど、実際に猟師をやりつつ物見を狩っていたのであるから、兵に見分けがつくわけもなかった。それは山縣昌景も同じであった。
「猟師、名は何と申す」
山縣昌景は尋ねた。
「おらぁ、熊五郎というだぁね。お侍さんは何て名だね」
「甲斐武田家の将、山縣昌景と申す。……ああ、平伏するな。これ、面を上げよ」
熊五郎となった平野神右衛門は、おそるおそる顔を上げた。
「なにも怖がることはない。ちと質問に答えてほしいだけだ」
へへぇ、と頭を下げて、縮こまったまま熊五郎は質問した。
「お侍さん方、沢山でこんなところで一体、何をしているだぁね」
山縣昌景は、どこまでも真正直な男であった。だからこその戦で無類の強さではあるし、だからこその内政の腕前であるが、逆にだからこそのこの手の戦いには弱かった。
「我らは奥飛騨を目指しているのだ。どうだ、熊五郎とやら。案内するなら何なりと褒美をやろう。だから奥飛騨へ、いや吉城郡まで案内してはくれぬか」
熊五郎となった平野神右衛門は、予想通りにこの間道を通り奥飛騨を経由して飛騨の吉城郡を攻撃しようとしていることを理解した。だが、ここは正直に言った方が良いようであった。
「はて、お侍さん、変なことを言うだね。この川を下れば一日足らずで着くだよ。一里もいけば奥飛騨に、そこを更に川沿いに下っていけば、六里ってところかねぇ」
これは本当であった。川沿いに一里も歩かぬうちに奥飛騨に、そこから更に五里も歩かぬうちに石神城や洞城に着く、その位置に山縣昌景は陣を張っていたのであった。山縣昌景は、地図が正しかったのを確認できて安心したのと同時に、物見が戻らないのはなぜかを考えていた。
「で、お侍さん、すぐに行くかね。今からなら、日があるうちに着けるかもしらんが」
山縣昌景は、攻撃命令を待って突入という手筈を聞いていたため、出発するのは合図があってからだからまだ先なのだと答えると、熊五郎ならぬ平野神右衛門は言った。
「おらぁ、まだ狩りもしなけりゃならんでよ。里には親兄弟いて心配するだろうし、まだ出ねぇなら仕方ねぇ」
と、立ち上がった。すぐにでも猟に戻るという。
「なに、心配すんな。また明日にでも来るからよ、出る日になったら案内するさね。そうさな、米一俵、褒美にもらおうかね」
山縣昌景は引き留めようとしたが、出発はまだだべ、ならここにいる必要はねぇだ、家じゃ親兄弟が腹すかせて待っているでの、と言われたために、仕方がなく放してやった。
そうして山に戻った平野神右衛門は、甲斐武田軍の陣容を把握し、ほとんどが農民兵で主将は山縣昌景であること、兵士数が約二万と多いが弓を使えるものも少なく、鉄砲は存在しないことなどを確認した。合図というのが分からなかったが、おそらくは狼煙か火矢の類であろうと想像がついた。この情報を持ち帰るべく、すぐにその場を離れたのであった。
山縣昌景は、真正直であったが、流石に名将であった。配下に向かって、あの者を付けよ、と命じ、また別のものに川沿いを下らせた。両方とも三人ずつ、計六名が陣を出た。
無論、この動きを平野神右衛門は気が付いていた。だが付けてきたもの三名はそれなりの手練れらしく、個別に倒すのは難しそうであった。猟をしながら機会を待たなければならないが、余りに時間をかけると川沿いに進んだものを捕らえられなくなるおそれがあった。平野神右衛門は猟師という事になっていたから、猟をしようと獲物を探すのだが、後方の侍たちの出す音や持っている匂いにより、獲物が皆逃げていってしまっていた。どうしようもないので大木に身を隠して接近し、そして三人の侍に言った。
「お侍さん方、付けてきたいのだろうが、もう少し静かに来てくれんかね。獲物が皆、逃げちまう」
や、これは済まぬ、という侍たちを見て、二人までは今すぐに倒せるが三人は厳しいか、と平野神右衛門は冷静に判断していた。一人にでも逃げられたり大声を上げられれば、それは大失敗につながるおそれが充分にあったためだ。
そのため、三人をほぼ同時に、声を立てさせない形で倒す必要があった。……いや、別の手があるか。
平野神右衛門は三人に、後をつけるなら離れて静かに、と言っておいて少し歩き、ウサギの通り道を探した。これはすぐに見つかった。そして罠を仕掛け、ここしばらく寝泊まりしている小屋に向かった。小屋といったが、木の枝を組んだだけの簡単なものであった。
「お侍さん方、今日はここで夜明かしだから、入るが良いよ」
侍の一人が聞いた。夜明かしとは、何をするのだ、と。
「いやな、さっき罠を仕掛けたからな、それにウサギが掛かるのよ。んで、今日はキノコも採ったから、ここでキノコ鍋をしつつ明日かかっているウサギを捕って持って帰ればいいわけだぁよ」
侍の一人が、一羽で良いのかと聞くと、
「罠はいくつもかけてあるだぁよ。お侍さんたちが見たのは最後の一つだけだべ。んだら、お近づきのしるしに一献」
と平野神右衛門は小屋の隅の瓢箪から酒を三人にふるまった。
「この辺の木の実酒だで、口に合うかどうか」
平野神右衛門と三人の侍はその酒を飲んだ。無論、痺れ薬が入っているが、平野神右衛門だけは解毒の薬を予め飲んでいるので痺れず、三人が痺れたところで一人一刺しずつ倒した。そしてすぐに小屋を出て、奥飛騨へ向かった三人を追った。
田吾作は三人の侍が川沿いにまっすぐに奥飛騨に向かうのを、黙って見ていた。田吾作は単なる猟師でしかなかったため、その三人を止める手立ては持っていなかった。とはいえ、奥飛騨までは知られてもよい、とは命を受けていた。それ以上進んだとあっても、精々会って話を少しばかりして時間を引き延ばし、平野神右衛門が合流するのを待つ程度しかできなかったが。三人のうち一人は奥飛騨で引き返し、残りの二人は奥飛騨を抜け、高原川の河川敷を川を下って進んでいた。声をかけるかどうかを考えていたときに、平野神右衛門が追いついてきた。奥飛騨から一人、引き返したことを話すと、それはそれで良いという。
「重要なのはな、洞城と石神城、あそこの鉄砲櫓を知られないことだ。遠目には大きな木があるようにしか見えないように、木の枝で隠れるようにはしてあるのだがな。だが、近づかれるわけにはいかない。本隊が動いたのなら別だがな。それで、あの二人だけか」
二人ならばなんとでもなる、と平野神右衛門が言い、また風のように去っていった。正確には谷を滑り降りていくのであるが、修練の賜物であろう、まさに風のようにという速度であった。
半刻もしないうちに、平野神右衛門は二人の侍に追いついていた。さすがに呼吸は整えて、さも偶然会ったかのように見せかけながら姿を現した。
「あれ、お侍さんたち、ここでなにをしているだ」
侍の一人が刀に手をかけた。
「三人はどうした。貴様からは血のにおいがするな」
正面切っての戦いとなれば、平野神右衛門は忍術も使えない、ただの人であった。精々が短刀を使った暗殺の技には長けていたが、刀を抜かれては堪らない。
「三人、ってなんだね。さっき獲物の血抜きさしたから、血の匂いってのはそれだべ」
侍は刀から手を放し、三人の侍がお主を付けていたのだがと教えた。すると熊五郎になった平野神右衛門は言った。
「あぁ、あのうるさいの。あまりにうるさくて獲物が皆逃げちまうからよ、ちょっと撒いて来ちまったよ。今頃、山の中で迷子だんべ。悪いことしたかね」
はぁ、と二人の侍から殺気が抜け、我らはもう行く、と背を向けた。その隙を見逃す平野神右衛門ではなかった。両手に一振りずつ二人の背中に短刀を突き立てた。さすがに一人の侍はそれを予期していたのであろう、深くは刺さらず、刀を抜いて抜き打ちに平野神右衛門がいたところを切ったが、いつまでも刺した後にいる平野神右衛門ではなかった。抜き打ちに切りかかるころには、刀の範囲からは抜け出ていた。短刀の刃には毒が塗ってあり、浅くしか刺さらなかった侍も、程なくして仏になった。
「修行、足んねぇなぁ俺も」
ぼそりと平野神右衛門が言い、そうして合流した田吾作と共に二人の侍の死体を検め、埋めたのであった。勿論その後、山小屋の三人の死体も同じようにした。
一方の山縣昌景は、奥飛騨までは確かに行けることは確認したが、それ以上先から戻ったものが居ないのを不審に思っていた。思い切ってある程度の人数を出すべきか考えていた矢先に、狼煙が上がった。突入せよ、との命令であった。
山縣昌景は、不安を抱えつつも奥飛騨まで出れば案内人も見つかるだろうと考え、前進の指示を出したのであった。




