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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第一章 少年立志編
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一、草太という少年



 草太は、一口に言えば「変な子供」であった。


 彼の公式な記録を書くとすれば、非常に短い文章で終わる。

 2000年3月6日に東京都某区で生まれ、3歳まで滞在。その後両親の離婚とともに岐阜県某村へ移住。公式な幼稚園の類に所属していた記録はないが、同町にあった寺に預けられることが多かった、と児童相談所の記録に名前が残されている。

 2006年4月、小学校入学。虐待が疑われる事例が多数、担任からも報告されている。

 2009年8月、夏休み中に海に家族と遊びに行き、大型の浮きバナナボートで遊んでいて流され、以後行方不明。死亡したと推定された。


 当初母親を含む数名の共謀によるものとされた。通報されたのも流されてから3時間以上が経過しており、潮の流れもあり広範囲の捜索が行われた。この経費がすべて税金ということもあり、また草太には保険金がかけられていたこともあり、保険金詐欺をもくろんだ殺人、という格好のワイドショーネタとなった。

 しかし、同ボートで母親を含む数名も遊んでいたこと(ヨット側から撮影した写真が数枚証拠として提出されている)、ヨットとバナナボートを繋ぐ紐を切断したりした跡はなく自然にほどけたとみるのが自然であること(母親の「友人」がそれなりに実力者の息子であったこともその一つかもしれない)などの理由により保険金詐欺を疑うに足る十分な証拠はなく、結局は事故によるものと判断された。

 ちなみにワイドショーは一週間もしないうちにアイドルの不倫スクープ一色になり、草太の行方については二週間後に捜査を打ち切ったという旨の短い記事を最後にどこにもなくなった。

 最後に彼についてなにがしかを公式に記したのは、もしかしたらその年の海難事故者数の数字かもしれない。


 だがしかし、少しだけ真実に近づこう。

 彼の母親や母親の「友人」が乗ったバナナボートを、紐をほどいたと知らせずに、次はおまえも乗ってみろと言って乗せなかったとは、誰が言い切れるだろうか。

 そのようなことはしなかった、と確かに草太の母親は証言したし、彼女の「友人」も同様の証言をした。通報したのが遅れたのも、騒ぎを大きくしたくなかっただけだ、と。

 そこには単に証言があるだけで、何の証拠もありはしない。


 因みに母親はその後、保険金を受け取り名誉毀損で示談金を受け取った後、引っ越しをして足取りはわからない。

 「友人」は十数年後に衆議院選挙に立候補して当選後、この時のことについて聞かれた際に「痛恨の極みであった」と述べ、数年間寺で菩提を弔っていたと語った(実のところ、寺に押し込められていただけだが)。


 話を草太に戻そう。

 まず、彼がよく遊んだという寺のことだ。この住職は子供らはあまり好かなかったらしく、子供たちが境内に入ってくると追い出していたが、草太だけは許された。いや、逆だろうか。他の子供たちがだれもいないからこそ草太が寺にいることができたのだろうか。ともかく、どのような縁か草太は住職に気に入られ、境内にいることを許されるのみならず、住職の手が空いたときには寺の中であれこれ教えられていたり、時には食事や風呂まで世話になっていたらしい。草太の母親がそれを知り、それならということで預けっぱなしにしたりするのは、それはそれでまた別の話ではあるが。

 妻子もおらず、副住職は一家で隣の一軒家に住んでいる住職にしてみれば、草太は息子も同然だったのかもしれない。それなりの規模の寺であったにも関わらず、住職自ら文字を教え漢籍を教え、経文を教えていた。


 小学校に話を移そう。

 草太の通っていた小学校には、公立には珍しく、制服があった。これは草太にとって非常な幸運であった。何しろ制服という服が与えられることが保証されたのだから。

 幸運だったのはまだある。普通は一年生は午前中だけの場合には給食は出ないのだが、彼の学校では必ず平日は給食が与えられたことだ。彼の母親に食事を期待すべくもなく、寺の食事もそう毎日とはいかないという事情から、まさに給食は草太にとって生命線であった。給食なしでは、早いうちに餓死していたかもしれない。もっとも、給食があるから母親も安心して食事を与えないで遊び回ることができたともいえるかもしれないが。

 草太の食生活をかいま見させる半紙が一枚、残されている。小学校三年の習字の時間、好きな文字を書いて提出するという課題に彼が書いた字は「特売」の二文字だった。

 草太は小学校にあがった後、なかなか家に帰りたがらなかった。といって友人と遊んでいたわけではない。友人たちも、親が母親とかかわり合いになりたくないのか「おつきあいしてはいけません」と指導していたらしく、用がなければ誰も話しかけない、二人組を作ると最後まで余るという態で、放課後は常に単独行動であった。

 見かねた一年・二年の担任が、習字の師範資格を持っていたこともあり、習字も墨汁を使わずに墨をする(この時点で他にもいた希望者は全員脱落した)本格的なものを教え込んだ。さすがに楷書は仮名を最初に教え、次に漢字も教えてみて、住職の教えもあったのだろう、常用漢字程度であればそう苦労もなくモノにしていった。

 その彼をみて、彼の担任は、その彼に好きな言葉を、といえば漢籍・仏典から引いてくるだろう、そうであれば賞を与えられるだろう、賞を与えられれば、彼も自信というものがもてるかもしれない、そう考えて行った課題であったが、提出された書に賞は与えられなかった。これが「不幸」などであればまだしも「特売」では。


 二年からは委員会活動が開始された。草太は図書委員に立候補させられ、見事に彼一人が図書委員として任命された。翌三年になって、彼が不在になっても代わりの図書委員はいわば罰ゲームのように忌避されるものでしかなかった。放課後、長時間の司書役という名の図書室の番をするのは、多くの小学生たちにとって退屈でしかなかったためだ。しかもこの小学校は歴史があるためにおいてある本も古く、といって予算もないため新しい本を買えず、児童文学の本などなかったが、そのかわりに郷土史の本や図鑑の類は充実していた。

 漢字が毛筆で美しく書け、漢籍・仏典にも詳しい一方で、自宅にはテレビやラジオの類は一切なく、和尚もそういったものは嫌いだったため、マンガ、アニメの類には全くと言っていいほど縁がなかった。

 学校の図書室で読める本は、学校の教科書に関連するもの以外は歴史の参考書や偉人伝、郷土史の類であった。一年数ヶ月という期間、放課後のかなりの部分を草太はそうして過ごしていた。


 この時代の草太のことを話すためには、もう一人語るべき人物がいる。一人の老人で、彼も名をソウタと呼ばれていた。小学生たちは、本名は誰も知らないが、ソウタ爺といえば全校生徒に通じるほど、彼はよく知られていた。もしかすると草太が学校で嫌われていたり親たちからつきあわないようにいわれていたのは、このソウタ爺との混同が原因だったのかもしれない。

 だが、草太は、他に相手もいない為もあり、ソウタ爺とつきあいがあった。草太の母親も寺の住職も学校の先生も、それとは知っていたらしいが別に止めなかったところをみると、実はそれほど危険人物ではなかったのかもしれない。

 ソウタ爺は草太と、草太が小学校に上がる前から裏山で散歩しながら話をすることが多かった。草太は図鑑でみた植物だけではなく実地に、ソウタ爺から、食べられる、食べられない、薬になる、毒になるという草木の見分け方、罠の仕掛け方などを教わった。正確に言えば、草木の見分け方を知ってから図鑑をみた、という方が時系列としては正しいだろう。

 実をいえばこのソウタ爺はこの一帯の地主で小学校の敷地ですらこの爺からの借地であった。爺は半分以上世捨て人ではあったが、草太のことは越してきてからすぐに耳に入り、なんとなく捨ておけずそれとなく世話をみていた、というのが正しい。草太の母親が良くない連中とつきあっていることも。そのよくない連中のリーダー的な存在の一人が草太の母親の「友人」であり、その「友人」の父親の家とソウタ爺の家は対立していた。ソウタ爺自身はすでにそういったことが面倒くさく、果てしなくどうでもよいことであった。ただ、母親にほとんど捨てられていた草太をみて可哀想になり、すこし声をかけてみただけのことであった。

 そんなこともあって、ソウタ爺は特に住職とは連絡を取り合ったりはしなかったものの、草太がこの両者のどちらとも会わない日は、少なくとも小学校の図書委員になるまでは三日と続くことはなかった。

 正月もクリスマスも、母親はいなかった。ただ草太には、住職とソウタ爺だけはいた。草太は孤独ではあったが、それでも一人ではなかった。


 そんな草太が小学校三年になったころ、母親の「友人」が紹介された。新しい父親になる、ということらしい。もっとも、そうなるのはまだ先の話ではあるらしいが、そうなった場合には名字も変わるそうだ。

 最初が明智で、今は高橋、今度は姉小路になる、そう聞かされても、そういうものかとしか思わなかった。何となく、ではあるが、草太はこの「友人」が好きではなく、そうだからか最初からかこの「友人」は草太が気に入らなかったようで、度々暴力を振るった。三年に入り、ますます草太が家に帰りたがらなかったのは、この辺りの事情もあった。

 そんなある日、夏休みも終わりが近づいたある日のことだ。母親が「友人」とヨットに乗りにいくから遠出する支度をなさい、と言った。ランドセル以外には一つしかないリュックに水着(学校指定のものは持っていたから)と着替えを数着、それだけしか彼が用意すべきものはなにもなかった。

 「友人」の運転する車に乗って南へ、岐阜から西へ向かい、瀬戸大橋を越えて四国を縦断し、高知へ。途中、母親が何度か運転を代わっていたが、高知にヨットが繋いであるとのことであり、そのヨットに乗るためにはるばる来たわけだ。草太がいなければ、途中のホテルでご宿泊、夕べはお楽しみでしたねとはフロントは言わないが、二泊か三泊してもおかしくない距離だ。

 そうして、ヨットに乗り沖に出て、昼過ぎにバナナボートで「友人」と母親が遊び、証拠の写真を撮り、最後に草太の番となった。

 ロープの結び方には様々な種類がある。絶対にほどけない結び方や一方のみを引くと解ける結び方、そしてほんの少し結び方に手を加えるだけで、絶対解けない解け方からすぐに解ける解け方へと変わる方法もある。草太にもバナナボートの持ち手を離さないようにときちんと持たせた後、「友人」がほんの少し結び目を変えてヨットを走らせた。

 当然、バナナボートの結び目はすぐに解けてしまい、結果草太は取り残された。目の前で解けたロープが踊りながら遠ざかっていくのを、持ち手から手を離してロープを掴もうとさえする暇もなく、ただ眺めただけだった。


 そうして何時間か経って、ヨットが戻ってくるのは最初から期待していなかった草太は、日が落ちるのを見ながら、やはり捨てられたのだと自覚した。日が落ちると真っ暗になり、星がきれいに見えた。満点の星空とはこのことだろう、街の明かりも漁火すら全く視界には無い真っ暗な海から見上げた空は、美しかった。それを見ながら眠るとはなしに眠った。いつしか雲が出て雨が降り海が荒れた。草太は、バナナボートにしがみつきながらじっと耐えていた。この嵐に耐えても見つけてもらえるのは、それこそ万に一つの幸運でしかないとは思った。

 その翌日は、荒れているのが少し収まっていた。ただひたすらのどが渇いていたが、海水を飲むと逆にのどが渇くと本で読んで知っていたので我慢した。荒れたときには口を開けておくだけで雨水でのどが渇くことだけはなかったから、また雨が降らないかと思った。なによりも空腹だ。丸一日以上何も食べていない。

 それよりも、だんだんとバナナボートがしぼんできたように思えてきた。このまま浮力が減れば、沈むだろうか、いや人体は生きている限り浮くようにできているから、餓死か何かだろうか。のどが渇いて死ぬのだろうか。それともやはり鮫か何かに食われるのか、どうだろうか。

 草太は、自分でも驚いたことに、無理に生き延びたいとは思っていなかったが、それでも死にたくはなかったようだ。今まで山の中に住んでいたのに四方を海に囲まれながら死ぬのは皮肉なものだ、と奇妙に思った。それでもバナナボートに必死にしがみつき、死にたくはないと思っていた。

 ふと、オオイ、と声が聞こえた。遠くから船が一艘近づいてきていて、人間が張り付いているのに気がついたのだろう、声をかけたのだ。

 振り返り声を出そうとするが、のどが渇きすぎていてかすれた声しか出ない。見る間に近づいてきたのは一艘の古い木造船で、歴史の本で見たことのある和船のように見えた。舳先に立っている男は半裸で着流しを着、ふんどしを締めていた。

「妙なモンに掴まっておらんで、こっちさ移れ。聞きたいことがある」

 こうして草太は助けられた。


 だが、思い出してほしい。彼は水難事故で公式には死んだ。

 実際には草太が助かったのであれば、別のところに人間が一人現れなければ、帳尻が合わない。ではどこに?


初投稿小説です。

作者のハートはガラスよりも脆いので、お手柔らかに願います。

完結するかどうかは、未定です。


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― 新着の感想 ―
久々に読み返しております。 懐かしいですねぇ
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