サイレント・ムービー
いつもの朝、いつも通りに携帯のアラームに起こされてのそのそとベッドから這い出る。日常の習慣でミュートにしたままのテレビをつけて、座椅子にもたれ掛かって咥えたタバコに火をつけた。テレビの向こうでは、少々年を食った女性キャスターがいやに深刻な顔で口を動かしている。その声は僕には聞こえない。字幕では有名歌手の訃報を告げていた。
カーテンは閉めたままの薄暗い部屋で、テレビの白い光と煙草の先の赤だけが妙に浮き上がって見える。朝一のヤニクラはやはり別格だと頭の一部が歓喜の声を上げて、僕自身はその部分が独立して別物になってしまったかのように何も考えず、ただクラつく頭と脱力した四肢を座椅子に預けている。ただぼんやりとテレビとは向かい合わずに乱雑な自分の部屋を眺めながら、リモコンに手を伸ばしてコンポの再生ボタンを押した。
昨晩聴いてそのままいれっ放しだったCDの一曲目が流れ出して、僕はその曲が終わらないうちに煙草を灰皿に入れた。テレビを見る。左端に表示された時刻は九時半を指そうとしていた。
二曲目の途中まで脱力感を楽しんだ後、そろそろ行動しようか、僕は立ち上がって伸びをした。その場に部屋着を脱ぎ捨て、ベッドにかけてあったバスタオルを片手にユニットバスに向かう。この狭いユニットバスの洗面台では顔を洗うのも困難だから、目覚ましと寝癖直しも兼ねての朝のシャワーは一人暮らしを始めてからの日課だった。
濡れた頭をバスタオルでゴシゴシやりながら部屋に戻れば、曲はちょうど四曲目が終わる頃だった。テレビで時間を確認する。まだ十時前だった。タオルを元の通りベッドに掛けて座椅子に座る。座椅子が冷たかった。その冷たさが火照った体には心地良くて、僕はただ暇つぶしの意味でテレビに目を向ける。番組はいつも通りにニュースなのかワイドショーなのかよくわからない番組を放送していた。今日も平和だ。少なくとも、僕の周りは。
十一時を少し過ぎたのを確認してから僕はまた行動を始めた。冷蔵庫に入ったペットボトルにそのまま口をつけてお茶を飲み、それからクローゼットを開けて服を着る。その一連の動作を終えた後、僕はいつものようにインスタントのコーヒーを入れ、レンジに食パンを入れてトーストのボタンを押した。
鞄を確認して今日使う予定の教科書なんかを詰め込んでいたらレンジが鳴って、遅い朝食なのか早めの昼食なのかよくわからないトーストが用意された。それに冷蔵庫から出したバターを塗って、ちょうどいいくらいに冷めたコーヒーと一緒にそれを食べる。
これが食べ終わったら大学へ行こう。そう思った。講義が始まるまではまだ大分時間がある。それでも、とりあえず学校にいこうと思った。図書館で雑誌を読んだりノート整理をしたりするのもいいし、部室で誰かとだべるものいい。とりあえず一人でこの乱雑な部屋で煙草を呑むよりも有意義な時間を過ごせそうだと判断した結果だった。空になった皿を簡単に水で漱いで、テレビとコンポを消した。
家を出ると前の家の塀に猫が一匹丸まっていた。眠っているようだった。首輪をしていないから野良猫だろう。こんなところで寝るなんて無防備だな。よっぽど人馴れしてるんだろう。そう思って、何気なしに猫に近づいた。猫は起きなかった。そっと手を伸ばす。掌越しに伝わってくる猫の体温はびっくりするほど冷たかった。猫は眠っているのではなくてそこで死んでいたのだ。僕は交通事故以外で始めて猫の死体を見た。だからどうだというわけでもないんだけれど、それでも、猫は死ぬときになると身を隠すということを聞いたことがある。だけどこんな猫もたまにはいるものなんだろう。僕はその場を後にした。
バス停で待つ。もうとっくにバスは来ていい時間なのに、さっきから一向に来る気配がない。よほど道が混雑しているんだろうか。僕は携帯で時間を確認した後バス停の時刻表とそれを見比べた。僕の乗る系統のバスが時間通りにこないことなんかいつものことだ。特に珍しいことでもない。もう少し待ってみよう。そう自分に言い聞かせて空を仰いだ。雲ひとつ無い綺麗な青空だ。
歩いていこうか。空を見たらふとそんな気持ちになった。空は澄んだスカイブルーで太陽が透明な目でそっと優しく見下ろしている。心地いい風が時々吹いて、暑くもなく、寒くもなく。幸い荷物も少ない。絶好の散歩日和だ。どうせ早めに家を出てきたのだから、こんなところでバスを待ってじっとしているよりも体を動かしたほうが有意義に過ごせるに決まっている。学校までは一時間も歩けば着くのだ。歩いていけない距離ではない。僕はバス停の椅子に置いたままだった鞄を取り、バスの窓から見慣れた街を歩き出した。
歩く度に靴の下敷きになった落ち葉がカサカサカサカサ小さく悲鳴を上げて、秋の匂いがした。ひらひら舞い降りてきた金色の銀杏の葉っぱをそのまま掌で受け取って、特に何をするでもなく足元のそれらの仲間の中に混ぜてしまうように捨てる。道行く人は少ない。途中のバス停でバスを待つ人を見かけた。髪の毛の白くなった老婆と茶色に染めた僕と同じくらいの女の人。どちらも静かにベンチに座って俯いていた。バスはまだ来ないらしい。尤も、僕自身バスに追い越された記憶はないのでこうしてまだ歩いているのだけれど。
途中で公園に立ち寄った。少し休もうと思った。今日はなにか体がだるい。急に歩いたりしたから貧血でも起こしたのか、それとも最近寒暖の差が激しい日々が続いていたから風邪でもひいたのか。
そこはいつもバスの窓から見ていたそんなに大きくも無い、僅かな遊具とベンチがあるだけの公園だ。僕は初めてそこに足を踏み入れた。そこは想像していたのよりももう少し広くて、バスからは見えないところにはまた違う遊具と東屋と、少し離れたところに灰皿の置かれた真新しいベンチがあった。
僕はその、少し離れた方のベンチに向かった。公園内は静かで、いつもなら響き渡っているであろう子供の笑い声も、それに付き添っているはずの母親たちの井戸端会議も聞こえなくて、ただ数人、ベンチや芝生の上に寝転がっていた。天気がいいからお昼寝なのだろうか。それはとても静かで平和な光景だった。
ベンチには先客がいた。幾つなのかはわからないが、とにかく老人といった感じの、杖を持って紺色のニット帽をかぶったおじいさんだった。他に開いている場所はあったのだけれど、なぜか僕はその人の隣に腰掛けた。日当たりのいいぽかぽかする空間だった。
「いい天気ですね」
突如隣の老人が声を掛けてきた。話しかけられることなんて想定してなかった僕は少々狼狽しながらええ、とか、そうですね、とか、よくわからない答えを返した。
ポケットから一本煙草を出して火をつけた。
「一本どうですか」
何気なく隣の老人に今度はこっちから声を掛ける。彼は、ありがとう、ちょうど切らしてまして。とそれとライターを受け取って至極うまそうな顔で呑み始めた。見知らぬ二人が並んで紫煙を燻らす。それも片方は大学生で片方は還暦なんかとうに越えたであろうご老体。なんともミスマッチな組み合わせ。
「今日は静かですね」
一息つくついでに話しかける。
「静か過ぎますね」
彼は副流煙を吐き出してからそう返してきた。
「世界がね、死んでしまったんじゃないかと思うのですよ」
「どういうことですか?」
彼の言葉に僕は訳が分からなくて問い返す。この人、ボケてるんだろうか。失礼だとは思いつつも、なんかそんなことを考えてしまう。老人は僕の方を向くわけでもなく、その色素の薄くなったこげ茶色の瞳を虚空に向けたまま煙草をふかした。
「みんな静かでしょう」
「ええ。ここは平和ですね。外で昼寝が出来るなんて」
老人は口から薄い煙を吐き出した。
「寝ているのではないんですよ」
みんな、寝ているように見えて死んでいるのですよ。世間話でもするように、彼は静かにそう続けた。僕は、と言えば、なにもそんな馬鹿げたとしか言いようの無い話に言い返すこともできず、それよりもむしろそれに納得してしまって、ただ黙って彼の話の続きを促した。
しかし、彼はなにも言わずにただ煙草をふかすだけだった。
「でも、そんな話が本当だったら、みんなもっと大騒ぎするんじゃないんですか」
しびれを切らして僕が問い直す。なぜかさっきは納得してしまったけど、実際そんなことが有り得るなんて非現実的だ。
「朝のニュースでもそんなこと一言も言ってませんでしたし、それが本当なら、政府とかがなにか対策を打つとか、そんなことが起きるんじゃないんですか」
僕は一気に捲し立てる。僕の思いとは反対に、頭の中のどこかでは、勝手にそれに意を唱える自分がいる。老人は静かな目をしていた。
「それが不思議なことに。なぜかこれがみんな自然なことだと思えてしまっているんです。私もそうです。現に、あなたもそう思えているのではないのですかな」
僕はなにも言い返すことが出来なくて、ただ言葉に詰まったまま俯いた。確かにそうなのだ。この老人の話を聞いたときに、ああ、そういうことだったのか、となにか自然なことのように受け入れてしまった。いや、今でもそう思えて仕方が無い。
「なぜなんでしょうね」
暫く経ったあと、僕はただそれだけを呟いた。
「世界が死んでしまったんじゃないかと思っているんです」
最初と同じ言葉を、老人はもう一度繰り返した。
「我々一人ひとりは、それぞれ勝手に生きていると思いますか」
「どういうことですか」
「私も、貴方も、そこの猫も鳥も草木でさえも……それぞれ生きています。お互いの命になど、とんと関係しません。世界はそれぞれ、好き勝手に生きています」
老人は白い息を吐いた。
「ですが、本当に好き勝手に生きているのでしょうか? 互いになんの関係もないのでしょうか?」
「個々の生命は関係ないように見えて実は関連し合っているとか、そういうことを言いたいのですか?」
「ええ。かいつまんでしまえばそうなるでしょうな」
老人は少し嬉しそうに笑った。
「でも、それと今回のことと、一体何の関係があるっていうんですか」
「さっき自分で言っていたことですよ」
老人は僕をじらすように、もう限りなくフィルター近くまで白くなっている煙草をうまそうに吸って、それをゆっくりとした動作で名残惜しそうに灰皿でもみ消した。
「地球が死んでしまったんじゃないかと思っているんですよ」
三度目。でもセリフが少し違う。
「儂は宇宙が、星が全部生き物なんじゃないかと思いましてね」
ゆっくりとした落ち着いた口調。ぽつぽつと語られる言葉。
「それで地球も生きていて、人間や動物や植物や、全ての物体はその細胞や寄生虫みたいなものなんかではないのか。そう考えてみたわけですよ」
「……つまり、体が死んでしまったから、それを構成する生き物なんかは自然に死んでいくってことですか」
「そういうことですな。だから誰も騒がない。不自然に思わず、自然に受け取ってしまう。そういうことなのではないかと思うのですよ」
いつもなら笑い飛ばしていたような彼の言葉は、今はなぜか自然と僕の中に吸収されてもとからそうだったように自然としかるべき場所に収納された。それは本当に地球が死んでしまったせいなのか、それとも僕の頭がマヒしてしまったためなのかは僕には分からなかった。
「まあ、私が勝手にそう思っているだけですがね。……鳥も飛んでいないんですよ。いや、今日は本当に静かですね」
老人はそういうと、ひとつ大きく欠伸をした。
「ずいぶん眠たそうですね」
「そうですな。私もそろそろ眠ろうかと思っています」
また、欠伸。その言葉が何を意味するのか、さっきの彼の言葉からそれは知っていた。それでも。
「おやすみなさい。ゆっくりおやすみになられたらいいですよ」
「あなたはどうなさるおつもりで」
「僕は、もう少し違う場所に行ってみようと思います」
「そうですか」
いや、若いとはすばらしいですな。老人はそう言ってもう一度大きく欠伸をして、すぐに目を閉じた。直ぐに寝息は鼾へと変わって、次第にそれも弱まって、暫くしたら全くの静寂に変わってしまった。試しに彼の口元に掌を差し出してみる。掌にはなにも当たらなかった。ただ、少し冷たくなった風が何処からか吹いてきて僕らを包んだ。行こう。彼に言った通り。もう少し歩いて。
僕は鞄を持って立ち上がって大きく伸びをした。実をいうと僕も眠かった。体は更にだるさを増していて、どうせなら彼と共にここで眠ってしまおうかとも考えた。でも、僕は違う場所で寝たかったのだ。
大学に行っても仕方がない。そう考えた僕は元来た道を引き返す。途中のバス停にはまだ、来るときにいた人はバスを待っていた。ただ、その人数は来るときよりも些か増えていた。道路に寝転んでいる人もいた。犬もいた。首輪につながれたまま寝そべるそれ、横になった飼い主に寄り添うように伏せたそれ。鳥は見なかった。すれ違う人の数も少なくなっているような気がした。
家路を辿る僕の足取りは行くときのそれの数倍遅く、ただ時間だけが過ぎていく。ようやく我が家に辿りついたときは夕暮れが近づいていた。テレビでは今、キャスターが深刻そうな顔をしてこのことを話題に話しているんだろうか。世界中で大騒ぎになっているんだろうか。そう考えるとなんとなく笑えた。でもきっとそんなことは起きていないんだろう。僕は頭の中であの老人の話を反芻する。
バクテリア。細胞。寄生虫。そんなちっぽけな存在は、個々で独立して野に放されては生きていけないのだ。いくら科学が日進月歩でも、宿主が死を迎えればそれを甘んじて受けいれて、そして宿主と運命を共にするしかない。文明もなんもあったもんじゃない。宿主が死ねば生きられないことを知りながら、それでも懲りずに宿主を痛めつけ続けるちっぽけな生き物。今まで自分がそんな存在だなんて考えたこともなかった。ただ僕は漠然と、あの普通な日々がずっと続いていくものだとばかり思っていたのだ。
ようやくたどり着いた部屋の前で鍵を開けようと思ってふと止まる。本当にここでいいのか。こんな狭い部屋で。そう自分に問う。答えはノーだ。
理由なんてどうでもいい。ただ、今部屋で終わりを迎えるなんてちっぽけなことをしたくなかった。最期になるかも知れないときくらい、広い大きなところがいい。それでいて誰にも邪魔されない場所がいい。
僕は重い体に鞭打ってまた階段を昇る。煙草を吸いたいという気もなくなって、それなのになぜか僕はただひたすらに階段を昇る。三階を通り過ぎ、四階に着き。もう一息。その前に一休み。僕は崩れるように壁にもたれ掛かって座り込み、乱れた息を正そうとゆっくり深呼吸する。よし、行こうか。
五階から先の階段には立ち入り禁止のフェンスがかかっていて、それが疲れた僕の行く手を阻む。こんなものに邪魔されてたまるか。僕はそれに手をかけ必死によじ登った。フェンスは不安定に揺れてギシギシいって、今にも壊れてしまいそうで。それでも僕はそれを乗り越えようと必死にしがみついて。
ようやく向こう側についたときには酷く息が荒れていて、体はふらふら、視界はぼやけて。
それでも。僕は屋上へと続く階段を、ゆっくり、一段一段、丁寧に、転ばないように上がる。屋上だ。そのままの勢いでコンクリートで固められた貯水タンクの上までよじ登る。その上までようやく辿りついたとき、僕にはもう力なんて残っていないようだった。風が冷たい。太陽が赤い目でさよならを言っている。それをぼやけた目で見ながら、ぎこちなくしか動いてくれない手をもどかしく思いながらも耳にヘッドフォンを付けて音楽を鳴らした。奇遇なことに、ランダムで流れ始めたその曲は、今朝聞いたそれだった。
その激しいリズムの曲を聴きながらポケットから出した煙草に火をつけた。朝は座椅子に預けた背中を今度はコンクリートにもたれ掛かる。ジーパン越しにコンクリートの冷たさが足に伝わってきた。それでも、俯いたような形になっていた顔を上げた。背中と同じようにコンクリートに押し付けた。
最期に一目。冷たいコンクリートの上から、見慣れた街を見下ろした。街は静かだった。ちっぽけな誰かが歩いてる。違う誰かは寝転んでいる。人も車も動物も、それぞれ動いているものもあれば止まってしまったものもあった。
本当に世界は死んでしまったのだろうか。明日になればまたいつもと同じように動き出すんじゃないだろうか。だとしたらあの老人の話を信じ込んでこんなところまできてしまった僕はただの間抜けな道化師で。でも、きっとこのまま終わってしまうんだろう。と僕の頭のどこかが囁いている。どちらを信じていいのかも分からなくて、本当のことがどっちかなんて、実はどうでもよくて。
僕はただ眼下に広がる風景を眺めていた。
こんな形でそこを見下ろすのは初めてで、ちょっぴり太陽の気分が味わえた気がした。太陽はまた今日と同じように昇るのだ。でもそこにはきっと誰もいなくて、コーヒーもなくて、音楽も鳴らなくて、トーストも用意されることもなくて、バスも電車も走っていない静かな街を、こうして見下ろすのだ。それが彼の役割で、彼は彼でこっちの事情などお構いなしに自分の役目を果たすだけなのだ。
静かだった。耳元でシャウトされているはずの声も、かき鳴らされるエレキも、低いベースも、ダイナミックなドラムの音も聞えない。目も大分霞んでいる。僕は眠い。
こんなところで寝たら風邪ひくな。そう思ってちょっとだけ笑って、僕は睡魔に負けて目を閉じた。
今日は夢を見れるだろうか。