帰宅部の私に、学年一の美女が毎日キスをせがんでくる
放課後、旧校舎の三階にある、なぜか私たちしか使わない空き教室。
夕焼けが差し込むその場所は、私、佐藤日和にとって、日課の“試練の場“だった。
「ねえ日和、今日はなんでキスしてくれないの?」
学年一の美女、一ノ瀬美玲が、ぷくっと頬を膨らませて詰め寄ってくる。
その距離、わずか三十センチ──。
私の心臓は、警報ベルが鳴り響くかのようにバクバクと暴れ出した。
「っ……そ、その、き、キスなんて、そんな、簡単にできるものじゃ……」
「えー、簡単じゃん! こうやって、チューってするだけだよ? ほら、日和の顔、真っ赤!」
「だ、誰のせだと……っ!」
私の顔が熱くなるのは、美玲のせいだ。
毎回毎回、こんなことを言ってくる彼女の神経が理解できない。
私は──そんな、いきなりキスとか、無理なのだ。
そもそも、なぜ学年一の美女と称される一ノ瀬美玲が、私のような地味な帰宅部員に付きまとい、あまつさえ毎日キスをせがむようになったのか。
時計の針を、半年前の放課後まで巻き戻してみる。
◇
それは、土砂降りの雨が降る午後のことだった。
傘を持っていなかった私は、雨が弱まるのを待つために、普段は滅多に足を踏み入れない図書室の隅っこで、静かに文庫本を読んでいた。
そこへ、一人の女子生徒が駆け込んできた。
濡れた髪を払い、誰もいないと思って安心したのか、彼女は「あー、最悪!」と大きな独り言を漏らした。
それが、美玲だった。
校内では【氷の微笑】だの【高嶺の花】だのと噂され、常に毅然としている彼女の、見たこともないほど崩れた、そして人間臭い表情。
「……ううっ、お腹空いた。お昼の購買、パン買えなかったんだよね……。今の私、空腹すぎて、もう……本棚の角とか齧れそう……」
彼女はお腹を押さえ、誰もいない書架に向かって情けない声を漏らしていた。
私は思わず、カバンの中に忍ばせていた「予備のメロンパン」を差し出してしまった。
「……あの、よければこれ、食べますか?」
「ひゃああっ!? ……あ、え、あ……」
美玲は飛び上がるほど驚き、顔を真っ赤にして固まった。
いつもの完璧な仮面はどこへやら、彼女はオロオロと視線を彷徨わせた後、私の差し出したパンを、捨てられた子犬のような目で見つめた。
「……くれるの?」
「はい。二つ持ってたので」
それが、すべての元凶──。
いや、きっかけだった。
パンを半分こして食べながら、美玲は意外なことを口にした。
「みんな、私の顔しか見てくれないの。綺麗だね、付き合って、って……中身なんてどうでもいいみたい。でも、君は……私の情けない姿を見ても、笑わずにパンをくれた」
美玲はメロンパンを頬張りながら、少し寂しそうに微笑んだ。
そして、食べ終える頃には、なぜか彼女の瞳には奇妙な決意の光が宿っていた。
「ねえ、私、決めた」
「何をですか?」
「私を“普通の一ノ瀬美玲“として扱ってくれる君を、私の特別な人に任命する! だから……」
そこで、彼女はいたずらっぽく、でもどこか必死な顔で私に顔を寄せた。
「これから毎日、君にキスをねだることにするね!」
「……は!? なんでそうな……っ」
「だって、ドキドキしてくれたら、私のことちゃんと“女の子“として意識してるって証拠でしょ?」
それが、美玲の【キス・ハラスメント(本人談:愛の試行錯誤)】の始まりだったのだ。
あの日から半年。
美玲の要求は日を追うごとにエスカレートし、理由もどんどん支離滅裂になっていったけれど、彼女の瞳の奥にある熱だけは、最初からずっと変わっていなかった。
◆
ケース1〜期末試験最終日:脳内メーカーは「キス」一色?〜
期末試験最終日の放課後。
解答欄をすべて埋めた達成感よりも、「これでやっと帰って寝られる」という解放感に浸っていた私を、美玲は逃してくれなかった。
いつもの空き教室。
私がカバンを肩にかけた瞬間、背後から「ガタン!」と勢いよくドアが閉まる音が響いた。
「日和! 待って、行かないで! 私の脳細胞が死にそうなの!」
「……一ノ瀬さん。試験が終わったなら、脳細胞を休ませるために早く帰って寝た方がいいよ」
振り返ると、そこにはおでこを真っ赤にした美玲が立っていた。おそらく、必死に試験に取り組んだので、知恵熱でも出たのだろう。いつもは完璧な彼女の髪が、少しだけ乱れていた。
「ダメだよ、寝るだけじゃ回復しないの! 日和も知ってるでしょ? 脳の唯一のエネルギー源はブドウ糖だってこと!」
「えっと……まあ、そうだね」
「でもね、私の脳は特殊なの。ブドウ糖じゃなくて、日和からの“ご褒美“がないと再起動できない仕様になってるんだよ!」
美玲はそう言うと、トテトテと距離を詰め、私の両肩をガシッと掴んだ。
学年一の美女に肩を揺さぶられ、私の視界はぐらぐらと揺れた。
「だから……試験頑張ったご褒美に、キスしよ! はい、目を閉じて!」
「ちょ、ちょっと待って! 理屈が飛躍しすぎてるし……近い!」
美玲の顔が、ぐんぐんと迫ってくる。
至近距離で見る彼女の瞳は、試験の疲れのせいか、いつもより少しトロンとしていて、破壊力が倍増していた。
「……ねえ、いいでしょ? 一箇所だけ、どうしても解けなかった数学の問題があったんだけど、それを思い出すたびに心が折れそうなの。日和がチューしてくれたら、その悔しさも全部上書き保存できる気がするんだよ」
「それ、ただの現実逃避だよね!?」
私は必死に、手元の参考書を美玲の顔の前に差し出した。
ムニュッ、と美玲の唇が【チャート式 数学II+B】の表紙に押し当てられた。
「……んむっ!? 日和、これ紙の味がする!」
「数学が苦手なら、参考書とキスして仲良くなったらいいよ。……じゃあ、私はこれで!」
「ああっ、日和、待ってよ! 今のはノーカウント! 教科書じゃなくて日和がいいんだってばー!」
背後から聞こえる絶世の美女の情けない叫び声を振り切り、私は全速力で校門へと駆け抜けた。
ケース2〜極寒の登校路:氷点下の誘惑〜
「……ひ、日和……見つけた……」
校門の前で、雪だるまのように真っ白になった美玲が、ガタガタと震えながら私を待ち伏せしていた。
高級そうなコートを着ているはずなのに、彼女の鼻の頭は赤くなり、睫毛には小さな氷の粒がついていた。
「一ノ瀬さん!? 何してるの? 早く教室に入らないと風邪を引くよ!」
「待ってたの……日和が来るのを……。だって、私……もう限界……」
美玲は力なく私の腕にしがみつくと、消え入りそうな声で囁いた。
「……寒いよ。体温が、どんどん奪われていくの。このままだと私、雪の女王になって……そのまま消えちゃうかもしれない……」
「そんなドラマチックなことにはならないよ。ほら、カイロあげるから」
「カイロじゃ足りない! もっと、こう……ダイレクトに熱が伝わるものじゃないと……!」
美玲は潤んだ瞳で私を見上げると、震える指先で自分の唇を指差した。
「……ねえ、日和。雪の中で、熱い口付けをして? そうすれば、心臓がバクバクして、血の巡りが良くなって、きっと助かると思うの。これ、医学的にも……たぶん、正解、だし……」
「不正解。低体温症を舐めないで」
彼女の顔が、寒さのせいか、あるいは演技か、いつもより白く透き通っていて、不覚にも“守ってあげたい“という本能が疼いた。
美玲はチャンスと見たのか、凍える吐息を私の耳元に吹きかけてきた。
「日和の唇……あったかそう……。一口だけでいいから……私を、解凍して……?」
彼女がゆっくりと目を閉じ、真っ赤な唇を突き出してきた。
周囲は一面の銀世界。
誰もいない通学路。シチュエーションとしては完璧すぎて、私の奥手な心臓は、寒さとは別の理由で激しく波打った。
(……や、やばい。今回ばかりは、美玲のペースに飲まれそう……!)
私は必死に理性をかき集め、カバンの中から“あるもの“を取り出した。
「……はい、これ!」
「んぐっ!?」
美玲の唇に押し当てられたのは、私が家から持ってきた保温ボトル入りの熱いほうじ茶だった。
「これ、飲んで。中から温めるのが一番効率的だから」
「ふごっ……あ、熱い! ほうじ茶、香ばしい……けど違う! 私が求めてたのは、もっとこう、甘くて情熱的なやつで……!」
「お茶を飲んだら走るよ! ほら、一時間目が始まっちゃう!」
私はブツブツ文句を言う美玲の背中を押し、雪の中を強引に走り抜けた。
ケース3〜人口密度とキスの相関関係?〜
二月も半ばに差し掛かり、三年生が自由登校期間に入ったころ。
第一校舎からは喧騒が消え、学校全体がどこか余白の多い、静かな箱のようになっていた。
「日和! 見て、誰もいないよ! 廊下が、私たちが全力疾走しても、あるいは情熱的に愛を誓い合ってもいいくらいに、ガランとしてるよ!」
第一校舎の理科室に掃除に行く途中、美玲が大げさに両手を広げて大声を上げた。。
「本当、静かだね。でも、全力疾走は廊下を傷めるのでやめて。愛を誓い合うのも、他の人と別の場所でやってね」
「日和はいつもそうやって現実的なことばかり言う! いい? 三年生がいないってことは、今、この校舎の人口密度は通常の三分の二なんだよ!?」
美玲がフンスと鼻を鳴らし、机をバンと叩いて詰め寄ってくる。
「……それが何か?」
「つまり、酸素が余ってるの! 私たちがここで少しくらい激しいキスをして、酸素を過剰に摂取したとしても、他の生徒の呼吸を妨げる心配がないってことだよ! これはもう、エコロジーの観点からも“今すぐキスすべき“っていう神様の啓示じゃないかな!?」
「神様はそんな非科学的な啓示を下さないよ。あと、エコロジーの使い方が間違ってる」
私はいつものように呆れ顔で、掃除の準備をする。しかし、美玲は掃除用具の前に立ちはだかった。彼女はスッと私の背後の壁に手を突き、いわゆる「壁ドン」の体勢をとった。
「……ねえ、日和。真面目な話、静かすぎて寂しくない?」
「え……?」
「先輩たちがいなくなって、もうすぐ私たちも二年生が終わる。……なんだか、世界に二人きりになっちゃったみたいじゃない?」
美玲の瞳が、ふっと寂しげに細まった。
いつもはあんなに騒がしい彼女が、静寂に溶け込むような低い声で囁く。
「こんなに静かなんだから……一回くらい、リップ音が響いちゃっても、誰にもバレないよ……?」
彼女の顔が、ゆっくりと迫ってくる。
校舎の静けさが、彼女の吐息を際立たせ、私の鼓動をより鮮明に浮き彫りにした。
(……どうしよう。空気が薄いのは、酸素のせいじゃなくて、美玲のせいだ……)
私は逃げ場を失い、思わず手元にあった“英語の単語帳“を自分の顔の前に掲げた。
「……っ、そ、そんなに酸素が余ってるなら、英単語の一つでも暗記して消費して! はい、『Kiss』の意味は!?」
「……『日和とするもの』」
「不正解! ちゃんと勉強しておくように。さようなら!」
「ああっ! また逃げた! 日和が実践して教えてよー!」
◆
こんな風に、毎回なんだかんだと言い訳を考えては、美玲の要求を躱してきた。
彼女の、私に注ぐ真っ直ぐな眼差しは、いつだって私の心臓を簡単に持っていってしまいそうで、本当に困ってしまうのだ。
◇
しかし、今日ばかりは、私の防御壁も崩壊寸前だった。
「今日はね、ちゃんと、ちゃんと理由があるんだよ」
美玲が、背中に隠していた紙袋を、少し照れくさそうに差し出した。
中から出てきたのは、ラッピングこそ綺麗にされているが、どう見ても不格好な手作りチョコレート。
そして、一枚のメッセージカード。
「これ……美玲が、作ったの?」
「うん……実はね、昨日の夜、何回も失敗して……。ほら、指に絆創膏貼っちゃった」
美玲が少し赤くなった指先を見せてきた。
その指には、絆創膏がぺたりと貼られている。
──あの完璧な美玲が、私のために不器用に頑張った……?
その事実が、私の奥底にしまっていた“女の子“の部分を、そっとくすぐった。
私は震える手でチョコレートを一つ、口に運んだ。
ほんのり苦い、でも温かい甘さが口いっぱいに広がる。
「……美味しい、よ」
正直な感想だった。
その言葉に、美玲の顔がパッと輝く。
「やった! 日和が、美味しいって言ってくれた!」
彼女は、まるで小さな子供のように喜んだ。
その無邪気な笑顔に、私の心臓はさらに大きく跳ねた。
メッセージカードには、美玲の少し丸っこい字でこう書かれていた。
【日和へ。
いつもキスしてくれないけど、私、本当に日和のことが大好きだよ。
バレンタインだから、勇気を出して作ったんだ。
ご褒美に、キス、してほしいな。】
文字から伝わる彼女の熱量に、胸の奥が、小さく跳ねた。
視界が少しだけ滲む。こんなに真っ直ぐな気持ちを向けられたのは、生まれて初めてだった。
「日和……?」
美玲が、不安そうに私の顔を覗き込む。
いつもは自信満々な彼女の瞳に、ほんの少しの弱さが滲んでいるように見えた。
「……こんなの、ずるいよ……」
「そお? でも、私、本気だよ?」
美玲が、一歩、私のほうに踏み出した。
そして、私の両手をそっと握る。
その手が、想像以上に温かくて、私はさらに顔が熱くなるのを感じた。
「日和のこと、奥手なところも、いつも困っちゃう顔も、全部全部、可愛いなって思ってるよ」
「っ……! み、美玲……」
私は、美玲の言葉に、これ以上ないほど鼓動が速くなるのを感じた。
奥手な私が、こんなに真正面から好意を向けられたことなんてない。
どうすればいいか分からず、ただ美玲の顔を見つめることしかできない。
「ねえ、日和。……私じゃ、ダメかな?」
美玲が、おずおずと、私に顔を近づけてくる。
その瞳は、真剣そのものだった。
夕焼けが、空き教室を真っ赤に染め上げている。
美玲の長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が閉じられる。
「……ん」
かすかな吐息とともに、彼女の潤んだ唇が、吸い寄せられるように私の顔へと近づいてきた。
私の脳内は、完全にオーバーヒート状態だった。
(どうしよう、どうしよう! 逃げなきゃ……でも、あの不格好なチョコを思い出すと、足が動かない!)
美玲の手の温もりが、握りしめた私の指先から全身へと伝わってくる。
あんなに毎日、出鱈目な理由を並べて迫ってきた彼女が、今は冗談一つ言わずに、ただ一途な熱を帯びて私を求めている。
あと五センチ──。
あと三センチ──。
美玲の吐息が私の唇をかすめ、甘いチョコレートの香りが鼻腔をくすぐる。
心臓が、耳元で警鐘を鳴らす。
【佐藤日和、ここで受け入れたら、もう“いつもの日常“には戻れないぞ】と、理性が必死に叫んでいる。
(でも……こんなに一生懸命な彼女を、また突き放すなんて、私にできるの……っ?)
私は、ぎゅっと目を閉じた。
逃げるために身を引くのか、それとも、彼女を迎え入れるために顎を上げるのか。
自分でも自分の体の動きが予測できない。
唇に触れるか触れないかという、極限の境界線──。
熱い空気の塊が、二人の間に閉じ込められた。
果たして、私はこの【学年一の美女】の猛攻を、今日という日に限って、無事に躱しきることができるのだろうか。
それとも、この甘い香りに絆されて、陥落してしまうのか──。
私たちの影が、床の上で完全に──重なり合った。
〜〜〜おしまい〜〜〜
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