逃げ場のない日常。
翌朝、カナメは鏡の前で、ゆっくりと制服の襟を整えていた。
瞳に浮かぶ歯車模様は、今はない。
額にも紋様はない。
ただの、いつもの自分。
けれど――何も変わっていないように見える日常は、確実に「変わっていた」。
登校すると、校門の前には教師と警備員が立っていた。
妙に目を光らせている。
けれど、それを不自然と思っている者は少なかった。
教室に入っても、昨日の事件のことを口にする生徒はいない。
まるで“なかったこと”のように。
「おはよ、カナメ」
ユイが隣の席に座る。
その声色は明るく、自然だったが、昨日とは微妙に違う気がした。
「昨日さ、如月くん……休みだったよね?」
「……え?」
カナメの声がわずかに震える。
「いや……あれ? そうだったっけ? 誰かの見間違いかな。なんか変な夢見た気がして」
ユイはそう言って、何でもないように微笑んだ。
(……消えてる)
彼女の“記憶”が、書き換えられている。
ヒロトが暴走し、自分たちの目の前で異形化した事実も――
自分が光を放ち、時間が歪んだあの感覚も――
なかったことにされている。
(じゃあ……他のみんなも?)
廊下を歩いていても、誰もヒロトの話をしない。
昨日あれだけの異常が起きたというのに、空気はいつも通り。
事件そのものの“記憶”が、何者かの手によって塗りつぶされたのだ。
――だが、自分だけは消えていない。
そして、教室の隅に座る白河ナオが、ふとこちらを見た気がした。
氷のような瞳。
何も言わない。
けれど、その視線は明らかに“知っている”者の目だった。
(……あいつも)
気づいている。
記憶が改変されていない、あるいは――“別の段階”にいる存在。
他にも、数人。
見慣れたはずのクラスメイトの中に、“妙な違和感”を持つ者が混ざっている気配があった。
逃げ場のない日常。
けれど、その中に、確実に“変わってしまったものたち”が息を潜めている。
そして、昨日から変わらぬまま、心の奥に残っていた言葉。
〈器たちよ、いずれ裁きの刻が訪れん〉
これはもう、“日常”ではない。
平穏なふりをするこの世界が、いずれ本当に壊れる日が来る。
その時、自分は――何を選ぶのか。




