異変の兆し。
教室には昼下がり特有の、倦怠と静寂が漂っていた。
窓から差し込む日差しが床に長く伸び、生徒たちはそれぞれのノートにペンを走らせている。
教師の声は抑揚が乏しく、ただ黒板の板書が淡々と進んでいく。
だが、神原カナメの耳には、その声が少しだけ“遠く”聞こえていた。
いや――むしろ、クラス全体の空気が、どこか“こもって”感じられるのだ。
(息苦しい……?)
隣のユイがちらりとカナメを見やり、小さく囁く。
「また、熱っぽい?」
カナメはかすかに首を振る。
しかしその瞬間――
「うるっせーんだよッ!」
――教室の後方から、怒声が響いた。
全員が一斉に振り向く。
その声の主は、教室の隅に座る如月ヒロトだった。
普段は目立たないタイプの生徒だった。
大人しく、授業中もほとんど発言せず、昼休みもひとりで弁当を食べていたはずだ。
だが、今の彼は――異様だった。
机を思い切り蹴り飛ばし、立ち上がった彼の顔は赤黒く染まり、何かに憑かれたような、剥き出しの怒りに満ちていた。
目は見開かれ、唇が小刻みに震えている。
「お前ら、なに見てんだよ……なに勝手に、こっちばっか見てんだよ!」
ざわめきが広がる。
担任が慌てて駆け寄ろうとするが、それより早く、ヒロトが教壇のチョークケースを掴み、壁に叩きつけた。
ガシャン――!
乾いた音とともに、粉々に砕けた破片が床に散らばる。
「落ち着け、如月! 何があったんだ!」
教師の叫びも届いていないようだった。
いや、届いているのかもしれない。
ただ、彼の中で何かが暴走していて、制御が効かないだけなのかもしれない。
「やめろ……やめろよ……!」
ヒロトは叫びながら、自分の頭を抱えた。
その指の間から、ぽたりと汗が――いや、汗ではない。
蒼白い何かが、皮膚の下から滲み出ているように見えた。
「……ユイ。あれ……」
カナメが思わず言葉を漏らすと、ユイも固まったまま頷く。
「……やばい。これ、普通じゃない」
そのときだった。
カナメの視界が、また“ズレた”。
音が遅れ、光が歪み、時間の流れが妙に引き延ばされたように感じられる。
視界の中で、ヒロトの動きだけが異様なほどはっきりと、細部まで見える――。
(まただ……。あの感覚)
遠ざかる音、研ぎ澄まされる視覚。
そして、背筋に走る氷のような震え。
カナメの瞳が、再びわずかに光を帯びた。
まだ自分では気づいていない――歯車が、静かにまわり始めていることに。