静かな日常
春の風が吹いていた。
灰色のコンクリートに囲まれた屋上の手すりにもたれかかりながら、神原カナメは静かに目を閉じていた。
耳元で制服の裾がひらめく音、遠くで鳴くカラスの声、そして、心臓の鼓動。
そのひとつひとつが、妙に輪郭を持って感じられる気がする。
まるで、何かが自分の内側でゆっくりと目を覚まそうとしているような――そんな感覚。
「……また、だ」
カナメは額に手を当てる。
微熱。熱があるとまでは言えないが、身体の芯がじんわりと温かく、妙に集中力だけが冴えていた。
「カナメ、もう! こんなとこで何してんの?」
肩越しにかけられた声に、振り向く。
扉の陰から姿を現したのは、綾野ユイだった。
風に揺れるポニーテールが、彼女の軽やかな足取りを際立たせている。
「あとちょっとで昼休み終わっちゃうよ! 急いで!」
「あたしが外連れ出してあげればよかったね!」
ユイはカナメの隣に腰を下ろし、手すりの向こうに目を向けた。
見下ろせばグラウンドが見え、サッカー部がランニングをしていた。
「……また調子、悪い?」
「うん。というか……変なんだ。目覚めた時から、なんか世界が濁って見える。音も、いつもよりはっきりしてる気がする」
「それって……夢、見たとか?」
カナメは答えず、ほんの少しだけ唇を噛んだ。
――夢、ではない。
確かに、昨晩――いや、今朝方――奇妙な“気配”を感じたのだ。
布団の中で目を閉じていた時、
誰かが自分を見ているような……遠くから呼びかけられるような――。
「……誰かに、呼ばれたような気がした」
「……え?」
「声は聞こえなかった。でも、確かに、何かが“こちら”を見ていた。夢じゃない。あれは……起きてた」
言ってから、自分でも妙なことを言っている自覚はあった。
だが、ユイは鼻で笑ったりはしなかった。
少し黙って、それからそっと視線を落とした。
「カナメって、たまに変なこと言うけど……」
「うん」
「……そういうとこ、好きだよ」
「……」
カナメは言葉を失った。
けれど、ユイは気にした様子もなく、軽く立ち上がって制服の裾を払った。
「変な感覚も、誰かに呼ばれた気がしたのも……全部疲れてるだけだよ。きっと。今日は午後、現代文でしょ? 先生の話、いつも通り退屈だから、途中で寝なよ」
そう言って、手を振りながら階段へ向かう。
カナメはその背中を見送りながら、再び自分の胸に手を当てた。
(……違うんだ)
違和感は、熱でも夢でもない。
もっと根源的な、“何か”が、体の奥で回り始めている。
――その証拠に。
さっきから、視界の隅で、歯車のような模様がちらついていた。
それが現実なのか、幻覚なのか、カナメにはまだわからなかった。