職員室、真名の叫び
職員室。いつもは静かな朝の風景だが、今朝は違っていた。
ひときわ目を引くA3の書類。赤い印字でこうある。
【生徒追加3年A組】
氏名(※希望記載)ノーフェイス
フリガナ:のーふぇいす
呼称希望 御随意に
「……呼称希望 御随意に?」
教頭の村井は書類を見て、わずかに震えた。
「これは……私の処理じゃないですね。記憶にありません。いやほんと、記憶にありません。むしろ私が名付けたんじゃないかって噂されてますけど……ないです。絶対にないです。怖いです」
「“ノーフェイス”って名前、すごいな。記号か? いや、定数か? 否、未定義……いや、これは“定義を拒絶する変数”……好きなやつだ」
数学担当の梶田がうなずきながら頬杖をついた。
「“顔がない”じゃなくて、“顔を見せない”でもなく、“顔を与えられていない”。つまりこれは存在詩よ。アイデンティティの詩よ……」
国語の篠宮はうっとりと呟き、書類を胸に抱きしめた。
「物理的にノーフェイスだと、口から摂食できるのか気になるな。いや、そのへん曖昧なほうがあのクラスにはいいのか……」
理科担当の西岡はメガネを押し上げながら、すでに何かを計算し始めていた。
「ノーフェイス……描きたいな。輪郭のない肖像画。あえて目も鼻も描かず、黒の中に虚を置く……」
美術の霧島はスケッチブックをめくり、筆を握る手が止まらない。
「“声なき者が奏でる旋律”……まさに沈黙のソロね。合唱に入れたら浮くだろうけど、それがまた美……」
音楽の佐伯が静かに笑った。
「おいふざけんなよ!? ノーフェイスってなんだよ!? どこ殴ればいいんだよ!? 名前が弱点じゃねぇか!!」
体育の鬼塚は吠えた。
技術の吉村は無言で書類を読み、ひと言だけ。
「……ふーん。デフォルトネームっぽい。問題行動なければいいよ。LAN確認しとくか」
「ノーフェイスちゃん、可愛いじゃない。名前タグ縫いつけてあげたいわ。え、名前が縫えない? じゃあ“?”の刺繍にしましょ」
家庭科の東山がほんわかと語る。
そして、養護教諭の坂上が、紅茶を一口すすって言った。
「“ノーフェイス”は名前じゃない。“鍵”よ。見ない方がいいものって、あるの」
職員室が、静まり返った。
教頭・村井がぽつりと呟く。
「……私が彼の顔を見ていないことを、今はただ……幸運と呼んでおきましょうかね……」
【教職員連絡ノート・抜粋】
担任・伊丹より
転校生の件、生徒が勝手に“命名の儀”を行いました。
すでに呼称は全校に浸透しており、変更は困難です。
本人も「ノーフェイスで構いません」と明言。
朝礼で名乗るかは不明。正体不明ですが出席番号は17です。
念のため、ロッカーに聖水を設置済みです。
水道水をそれっぽい瓶に☆