4.貴人エル
その日の午後は、夜に開かれる歓迎の宴の準備で台所は大忙しだった。
アイも担当している五つの火床の火加減を見つつ、料理の準備に目まぐるしく立ち働いていた。
夕陽も落ち、商館に燈明の淡い明りが灯され、ようやく料理もひと段落して、ほっと一息ついたのもつかの間、アイはバルボラから給仕を手伝うように言われた。さすがのアイも口を尖らせて、
「給仕係りは男の子たちの担当なのに」
「まあそういいなさんな」
バルボラは諭すように、
「男の子たちは倉庫の連中の世話をしなくちゃならないのさ。お前にはお館様の客間の給仕を頼みたいんだよ」
「でも、」
言い募ろうとするアイに、
「ほら、羊肉が上がったよ。冷めないうちに持ってお行き」
有無を言わさぬバルボラの指示に、アイはしかたなく蓋つきの重い大皿を持って台所を出た。
ラミュー館主の客間は三階にある。アイは歯を食いしばって階段を昇ると、客間までたどりついた。中から微かに音楽が聞える。
驚いたことに扉の前には布鎧を着込んだ兵士が立っていた。兜こそ被っていなかったが、腰には剣を下げている。
兵士はアイをちらりと見ると、黙って皿の蓋を取って中をあらためた。香草のよい香りがふわりと広がる。
兵士は無言のまま扉を開け、入れ、という風に顎をしゃくった。アイはかるく会釈して中に入った。
客間には三弦の楽器の音と、料理と酒の匂いが漂っていた。
部屋の中央では薄物をまとい、キラキラ光る宝石を散りばめた髪飾りを付けたネーナが音楽に合わせて踊っていた。
薄暗い灯明の明かりの中でも目鼻立ちがくっきりと見える濃い化粧をしていた。昼間にアイがお使いを頼まれたものだった。
上座には大きなクッションが置かれ、布鎧を着た二人の客人が座っていた。
一人は兜と剣を脇に置いたひげ面の大柄な男で、鋭い眼光で油断なく周囲を伺いながら杯をあおっていた。
もう一人は小柄な若者で、こちらは兜も取らずやや俯いたままで食事をするでもなく静かに座っていた。二人の兜に羽飾りがついているのを見たアイは、今朝北門にいた二人だ、と思った。
客人の周りには館で働いている「お姉さん」たちが何人もはべっていた。
酒を注ぐもの、料理を取り分けるもの、何か食べるたびに客人の手指を拭き清めるもの、とそれぞれ役割分担があるのだが、あまり飲み食いしない客人に手持ち無沙汰の様子だった。
手は足りているらしい。そう思ったアイは羊肉の大皿を客人の前に置くと、そのままそっと部屋の隅に行って壁を背にして立った。
「いかがされましたかな、ファーコン将軍?」
客人の向かい側のクッションにもたれていたラミュー館主が、でっぷりと太った体を起こしながら声をかけた。
「料理がお口に合いませなんだか? それとももっと強い酒をお持ちしましょうかな。先ほどからあまり食が進んでおられぬご様子。それともわれらのもてなしに何ぞご不満がありましたかな」
ひげの将軍は太い声で、
「いや、歓待痛み入る。ただ、われらは流浪の身ゆえ、すっかり質素が身についてしまいましてな。豪華なもてなしに戸惑っている次第。お気に障られたなら許されよ」
「いやいや、これは気付きませんで。それでは何か軽いものでも、薄焼きのナンと蜂蜜でも用意させましょうかな。いかがです、将軍。そちらのエル様も」
エル、と呼ばれた兜の武将が何か言ったらしい。ファーコン将軍は兜に顔を寄せた。そして小さくうなづくとラミューに向き直り、
「申し訳なき仕儀なれど、わが君は事のほかお疲れとのこと。今宵はもう休みたいとの仰せゆえ、済まぬが床の用意をお願い出来ぬか」
「おお、それはいけませんな。お部屋は用意してございます。これ、ネーナ」
ぽんぽん、と手を叩いて踊っているネーナを呼ぶ。
「はい、お館様」
「今宵はこれなるネーナが朝までお世話いたします。部屋まで案内させますので、何なりとお言いつけを」
エルは再び小さな声で何かを言った。顔を寄せて訊いていたファーコン将軍は、
「いや、それには及ばぬ。部屋まで案内していただければ結構、と仰せじゃ」
「おお、それはいけません。砂漠の夜は冷えまする。客人にはおなごの人肌にて暖をおとりいただくのが古くからの慣わし」
ファーコンはまたしても顔を寄せてエルの言葉を聴くと、いくぶん言いにくそうに、
「まこと、ご配慮痛み入る。されどわが君が申すには、その、ネーナ殿には不足はないが、つまり、その、つけておられる香り水が好みではない、と」
そう聞くと、ネーナは一瞬気を悪くしたようだった。だが、すぐに作り笑いで取り繕う。
「さようで。ですが身の回りのお世話におなごの手はご入り用でしょう。それではどうです、こちらのキサラなど」
エルは兜を横に振った。
「ではこちらのミアはいかがでしょうかな」
と、ラミューはしつこく食い下がる。
アイは必死になっているラミューが面白くてついクスリと笑ってしまった。そうまでして取入りたいなんて、このエルという男の人はよっぽど大事なお客なのね、と思う。
いずれにしてもアイにとっては他人事だった。それよりもせっかく作った料理を食べない客人には少し腹をたてていた。
(まあいいわ。残った料理はみんなで分ければいいのだし。お開きにするなら早くしてくれないかな。台所が片付かないわ)
アイがそんなことを考えていると、エルの言葉を聞き取ったファーコンが、
「エル様は、世話はそちらの子に頼みたいと仰せじゃ」
ひげの武将はまっすぐにアイを見て言った。
「それは・・・しかし」
口ごもるラミュー。
「なにか不都合がありますかな、館主どの」
「不都合はございませんが・・・」
そしてちらりとアイを見る。予想外の展開にアイはぽかんとして、ラミューとファーコン将軍とエルとを順番に見た。
「さようですな。それではアイ、エル様のお世話をいたせ。よいな」
「え、ええっ?」
ラミューは戸惑っているアイを手招くと、小声で、
「よいかアイ、エル様に何を言われても、はい、とだけ答えるのだぞ」
「え?」
「けっして逆らってはならぬ。くれぐれも粗相のないようにな」
「ちょっと、お館様?」
「今夜はエル様と一夜を共にするのだ。用意してあるのは伽の間だ。部屋から逃げ出すようなことは許さんぞ」
「はあ?」
「まったく、ネーナではなくお前のような小娘を選ぶとはな。気が知れぬとはこのことだ。世の中には年端の行かぬ小娘を好む御仁がいるとは聞いたが」
ぶつぶつと口の中でつぶやく。
ファーコン将軍は、
「娘、世話をかける。さ、エル様を案内いたせ」
「はい」
アイは言われたとおり素直に返事をすると、兜を目深にかぶった鎧武者に、
「アイと申します。ご案内いたします」
と頭を下げた。エルは兜をこくりと上下させて立ち上がった。控えていた護衛の兵士がすっとその後ろに立つ。アイは幾分気おされながらも、用意されていた手持ちの燈明を手に二人の先に立って薄暗い廊下へと足を進めた。
客人のための部屋は高楼の中程に用意されていた。
「こちらです」
アイはエルに先んじて伽の間に入ると、手持ちの燈明の火を手早く部屋に作り付けの燈明に移す。
室内は賓客をもてなすにはいささか狭い。寝台は壁をうがった作り付けで、足元には衣装箱が用意されていた。床の絨毯とクッションが豪華なくらいだった。
エルが部屋に入ると、護衛の兵士は部屋には入らず、扉を背にいかめしく仁王立ちになっていた。
扉が閉じると、エルはアイに背を向けたまま腰の剣を鞘ごと外して壁に立てかけた。
「娘、鎧を脱ぐのを手伝ってくれぬか」
初めて聞いたエルの声は、兜のためかくぐもってきこえた。
「はい、ただいま。それと、わたしのことはアイとお呼びくださ・・・えっ?」
エルが兜を脱ぐと、長い金色の髪がさらりと背に流れた。露わになった色白の顔を見たアイは、あんぐりと口を開けてその顔に釘付けになった。
エルはそれにかまわず兜を差しだした。アイはあわてて受け取った。エルは委細かまず、厚ぼったいケブラー織りの布鎧を次々脱ぎ捨てて行った。アイは床に落ちたそれらを拾っては、きちんと畳んで衣装箱の上に置いた。
一糸纏わぬ全裸になったエルは、体を隠そうともせずに、
「どうしたアイ。女の裸がそんなに珍しいか」
碧い瞳にいたずらっぽい笑みを浮かべたその顔は、まだ少女の面影を残した若い女のものだった。
「わたしもおまえも上背はそう変わらないと思うがな」
アイはふるふると頭をふって、
「あの、わたしの胸はそれほど立派ではありませんので」
エルは、はははっ、と男のような笑い声をたてた。
「さて、アイよ、わかっていると思うがこのことは誰にも言ってはならぬ」
「はい」
「むろん、我が兵団が出立するまでのことだ。約束できるか」
そう言いながら、先ほど壁に立てかけた剣を手に取りすらりと抜いた。刀身が火影を映し夜目にも煌めく。
約束を違えたら斬る、という意味だとはアイにもわかった。けれど不思議と怖くはない。豊かな金髪の乙女が裸で剣を持つ姿は、まるで神話の絵物語のように美しかったからだ。
「はい。約束申し上げます」
その答えにエルは剣を納めた。
「よい答えだ。すまぬが世話になるぞ」
「はい」
「さて、さっそくだが体を清めたい。何か拭くものはないか」
「あの、それでしたら行水をされては」
「なに、砂漠でか。水は貴重品ではないのか」
アイは誇らしげに、
「他の砂漠の都市ではどうか知りませんけど、ここ紅砂城では水はふんだんにあります」
「ほんとうか。無理をしているのではないか。おぬしたちに過大な負担はかけとうないぞ」
「まさか。泉水広場に行けばわかりますけど、水だけは豊富なんです。商館の地下から汲み上げて広場まで水を送っているくらいですから」
「汲み上げる、とは地下水をか。館の上には妙な金物があるばかりで風車もないようだったが、いったいどうやって」
「商館の地下には、いにしえのからくりがあるんです。『もーたー・ぽんぷ』という」
「もーたー? 水車か何かか」
「いえ、館の上のあの鉄のお椀、『れくてな』から動力を得ているんです」
「ほう? おもしろいな」
「あの、すぐに用意いたしますので」
アイは作り付けの棚からたらいを出して行水の用意を始めた。
水は? と問うエルに、アイはいたずらっぼく微笑んで寝台の脇にたらいを置き、作りつけられているちいさなコックを捻った。そばの管からはちょろちょろと水が流れ出てたらいを満たしていく。
「高楼に水を上げているのか。手の込んだ仕掛けだな」
「言いましたでしょう。水は豊富なんです」
六分目まで水が溜まると、エルをたらいの中に座わらせ、肩から水をかける。
これまでにもネーナたち年上のお姉さんの行水を手伝ったことは何度もあったし、そもそも同性の裸など見慣れているはずだった。なのに、優美な曲線を描くエルの裸からは目が離せないでいた。
行水を終えると、アイは部屋の隅の床の蓋を開け、作り付けの御不浄用の桝に水を流した。
「ほう、水洗式なのか。まるで帝国の王城だな」
「ここも元は王族のお城だったそうです。何百年も前の話ですけど」
などと話しながら、アイはエルの女体を丹念に拭き清め、衣装箱に用意してあった男女兼用の夜着をかいがいしく着せつける。エルは長い髪を疎ましげに掻き揚げた。
「アイ、髪は結えるか」
「はい」
「なら頼む。邪魔で仕方がないのでな」
「いっそお切りになっては」
「いや、願をかけておってな。大願成就のその時まで切れぬのだ」
アイは後ろ髪を編んで尾のようにすると、それを後頭部でまとめて、昼間サーラムからもらって懐に入れっぱなしにしていた髪飾りでとめた。こうしておけば寝る時も、兜を被るときにも便利だと思ったのだ。
「いかがでしょうか」
「うむ」
これも衣装箱に用意してあった手鏡で確認して、満足そうにつぶやく。
「うまいものだな。母上の仕込みかな」
「いえ」
アイは静かに微笑んで、
「わたしは母を知りません」
「おお、それは・・・」
「けど、ここのバルボラ母さんやネーナ姉さまにいろいろ教わりましたから」
「・・・すまぬな」
目を伏せるエルに、
「謝らないでください」
アイは明るく言った。
「この紅砂城がわたしの家なんです。そしてみんな家族なんです」
エルは編んでもらった自らの後ろ髪に触れた。その編み目のひと房ひと房を指でたどる。
「家、か」
ぽつりとつぶやく。が、頭を一つ振って、
「大儀であったなアイ。今日はもう良いぞ。下がって休むといい」
だがアイは、
「いいえ、おそばに居させてください」
「ん?」
「お館様に言われています。一夜を共にせよと。今戻ったら叱られます」
エルは苦笑して、
「男の振りをしているとこれだから困る。どこでも美姫を差し出せばよいと思っているようだ」
「あの、わたしは部屋の隅の床の上で寝ますから。どうかお気になさらずに」
「ばかを申せ。年下の乙女を床に寝かせてはわたしが安眠できぬ」
エルは寝台の横に立つと、
「来るがいい。アイよ」
「あの?」
「一夜を共にするのであろ?」
そう言うとアイの手を引いて、そのまま寝台に倒れこんだ。
「きゃっ」
「さあつかまえた」
エルはそう言ってアイの体を抱きしめた。
きゃあきゃあと声を上げるアイの耳に息を吹きかけながら、エルは低い声でささやいた。
「静かにするんだ。わたしがアイをいじめているようではないか」
「く、くすぐったいです」
声をひそめながらも、エルの腕から逃れようともがく。けれど、細い割に力のある腕は容易に振りほどけない。
「ははは。よいではないか。温めてくれるのであろ」
アイとて本気で拒んでいるわけではなかった。きゃっきゃっと笑いながら、二人はまるで幼い子どものようにひとしきり寝台の上ではしゃぐ。
やがて、騒ぎ疲れた二人は寝台の上で身を寄せ合っていた。
「もうお休みくださいませ。長旅で疲れておいででしょう」
エルの耳元でそうささやくと、アイはするりと夜具から抜け出し、燈明を吹き消すと再び寝台に戻る。エルは夜具を開いてアイを迎え入れた。
エルに優しく抱きしめられ、アイは我知らず闇の中で赤面した。なぜだか胸が高鳴り、眠れそうもなかった。
「アイ。起きているか」
ややしてエルが問う。
「はい」
「眠れぬか」
「はい」
「そうか。ならひとつ寝物語につまらぬ話をしてやろう」
「はい?」
「ミューゼス、という国を知っておるか」
「いえ・・・」
「知らぬか。辺境の小国だからな」
「エルさまのお国なのですか」
「そうだ。美の神々の住まう美しの国、と呼ばれている。豊かな水と緑に恵まれた、まさに楽園のような国だ」
それがある日、西方の覇権国家の侵略を受けたのだという。
「ユーリアン、という帝国の名を耳にしたことがあろう」
もちろん聞いたことがあった。それどころではない。この紅砂城が独立都市国家として成り立っているのも、ユーリアン帝国からこの地域での通商特権を許されていたからだ。
むろん、かなりの額の税を納めなければならなかったが、帝国の後ろ盾があるからこそ、治安維持程度の武力しか持たぬ紅砂城の現在の繁栄があるのもまた事実だった。
「奴らのやり口は決まっている。貢税か剣か、と言って、隷属かいくさを強要するのだ」
静かな口調の中にも怒りをこめてエルは言った。
「むろん、父上はそんな理不尽な申し出など蹴った。そのとたん、国境に伏せられていた帝国軍が奇襲をかけてきたのだ。父上は玉座を守って討ち死にされた。わたしは精鋭のはやぶさ兵団を率いるファーコン将軍と落ち延びたのだ。以来、帝国の追っ手をかわしつつ、祖国奪還の戦いを続けている」
アイは注意深く話を聞いていた。そしてぽつりと、
「それではエル様は王女様なのですね」
「そうだ。エル、というのは幼きころのよび名でな。本当は国の名と同じミューゼス、という」
「ミューゼス。ミューゼス姫さま」
「エルでいい。もはやその名で呼ばれることに慣れてしまった」
そう言うとミューゼス姫・・・エルは寝台の上で大きく延びをした。
「久々に昔話をした。なにやら楽になった心地がする。礼を言うぞ、アイ」
「わたしは何も」
「おぬしの肌の温もりは心地よいな。なるほど、してみると乙女の肌にて慰められるのは野卑な男どもだけではないということだ」
そう言うとエルはアイの頬に頬を合わせた。
「アイよ。おぬしはわたしの妹だ」
「え」
「今わたしが決めた。不服か」
「そんな。もったいないことでございます」
エルは沈んだ声音で、つぶやくようにアイの耳元でささやいた。
「あのいくさで家族と呼べるものはすべて失った。だがここでおまえを見いだせたのは望外の喜びだ。アイよ約束しよう。すべてことが成ったら、その暁にはかならずお前を国に呼び寄せよう。まことの妹として我が傍らにはべれ。さすればどのような願いも思いのままだ」
アイはエルの豊かな胸に顔を埋めた。
「うれしゅうございます。その時が来ましたら、ぜひ」
「うむ」
そう言って満足げな吐息を漏らすエル。だが、アイは夜の闇の中で憂いに顔を曇らせた。
ユーリアンは強大な帝国だった。その帝国を相手にいかに精鋭とは言え、五百人ばかりの軍勢で何ができるだろう。
祖国奪還の憂国の士と言えば聞こえは良いが、実際には追いつめられた敗残兵以外の何者でもない。ラミュー館主が何を考えてかくまっているかはわからなかったが、とうてい勝ち目のある戦いとは思えなかった。
だがアイは、「ミューゼスのお国に行くのが楽しみです」などと無邪気にはしゃいで見せた。それでエルが慰められるのなら、いくらでも愚かな娘を演じよう。そう思ったのだ。
5.に続く