3.商人サーラム
アイは商館を出ると、居住地区の石造りの家々の間を抜けて泉水広場へと向かった。
そこは地下からくみ上げた地下水を溜めた人工のオアシスだった。砂漠の都市国家としては異例なことに紅砂城では水に困ることはなかった。
どんなに貧しいものでもオアシスの水を自由に使うことが出来たのだ。だからこそ隊商は必ず立ち寄り、さまざまな取引が活発に行われていた。豊富な水がこの都市を栄えさせていたのだ。
市場は泉水広場にあった。大小さまざまな幕舎が林立しており、その下に並べられた商品を強い日差しから守っていた。中には地べたに直接品物を置いて商いをしている者もいる。
アイは細い体を最大限に利用して人ごみをすり抜けて目的の店へと向かった。店と言っても折りたたみ式の小さな日よけの下に商品を並べているだけのささやかなものだった。
「こんにちはサーラムさん」
「いらっしゃい、アイさん」
褐色の肌の青年がにこやかに応える。サーラムは一月ほど前に紅砂城に来たばかりの商人だった。
装身具や化粧品の行商で、扱う商品の数はそれほど多くなかったけれど最新のものを持ち込んでいたために評判になっていた。
「今日は何がご入用です。化粧品でもさしあげましょうか?」
「うん。でもわたしのじゃなくて、ネーナ姉さまの。今夜必要になったからって」
ああ、という表情でサーラムはうなずいた。
「夜化粧用ですね。このあいだ手に取ってご覧になっておられましたな。すぐご用意しますので少々お待ちを」
手際よく商品をまとめているサーラムを見ながらアイは微かに頬を染めていた。知り合って日は浅かったが、サーラムと一緒にいるのは何故か楽しかったのだ。
「そういえば今朝方、商館の方が騒がしかったですけど、何かありましたか」
サーラムに世間話を振られて、アイうれしそうに。
「うん。なんかね、大所帯だったよ。それが明け方城に入ったの」
「へえ。見たんですか」
「うん。商館の高楼からね」
「この前話してくれたアイさんのお気に入りの場所ですね」
「うん」
「どこの隊商でした?」
「ううん、隊商じゃなくてね」
いいかけて口をつぐむ。商館で見たこと、聞いたことをみだりに話してならない、という言いつけを思い出したのだ。
「隊商じゃなくて?」
無邪気な顔で聞き返すサーラムに、アイは口ごもりながら、
「まだ日が昇りきってなかったから」
だからよく見えなかったのだ、と誤魔化した。
「そんな時間に入城なんて珍しいですね。道に迷った巡礼団かな」
「そうかも」
などと話を合わせる。サーラムはそれ以上追求せずに、化粧品の包みをアイに手渡した。
「御代はいつも通り明日にでも取りに伺います・・・ああそうだ」
並べてある商品の中から、赤い髪飾りをひょいと摘み上げて、
「これをアイさんに」
「くれるの!」
「もちろん。お使いごくろうさまです。わたしからのささやかなお駄賃です」
「ありがとう」
弾んだ声で答える。サーラムは初めて会ったときから何かとアイに親切だった。
「きれいな石ね」
「石ではないですよ。珊瑚です」
「なに、それ」
「昔、海の中で生きていた生き物の殻ですよ」
「へえ。海って、水が地平線まで溜まってる大きな水溜りのことでしょ」
「水平線、と言うのですよ。ええ、よくご存じですね」
「見たことある?」
「ええ。むかしね」
「どんなだった?」
大雑把な質問に、サーラムは微苦笑を浮かべ、
「そうですな。砂漠に似ていますよ」
「どうして。砂と水は違うわ」
「この紅砂漠の砂が全部水になったと思って間違いないですよ。オアシスとオアシスの間をラクダで行き来するように、島と島の間を船で渡るのです」
「へぇ」
そんな他愛のない会話を交わしただけでもアイはうれしかった。もしサーラムがここを出て行ってしまったらさびしくなるだろうな、と思う。いっそ連れて行ってもらうように頼もうか、とも。だがそれが無理だということはアイにもわかっていた。
自分はネーナのように美人でもないし抜きん出た特技もない。サーラムに与えられるものなど何も持ち合わせていなかったからだ。
出来ることといったらせいぜいが料理とか身の回りの世話くらい。男の独り身とはいえ、旅慣れたサーラムはそれらを苦も無くこなしているだろう。
それに旅となればサーラムは歩きだろう。ラクダを持てるほど裕福には見えなかった。旅に不慣れな自分がいては迷惑になる。やはり出て行くときには大人数の隊商に加えてもらう方が現実的だった。
アイは少しだけサーラムの店に長くいると、後はわき目も振らずに商館に戻った。ネーナの部屋に包みを届けに行くと、
「ずいぶんゆっくりだったわね」
と言われた。
「その、市場をちょっと見てまわっていたから。道草してごめんなさい」
「ふうん、道草ね」
ネーナはニヤニヤ笑いながら、
「まじめなアイにしては珍しいね」
「う、うん。きれいな櫛とかあったから、そんなのを見ていて」
だがネーナは、
「あんた嘘が下手ね」
「う、嘘なんて、わたし」
「あー、はいはい。道草したのは本当でしょ。でも、あんたが入り浸っていたのはサーラムのところね」
「え、あの・・・どうして分かりました」
「うふん。分かるわよー。だってあんた、お使いを頼まれた時にすっごくうれしそうにしてたじゃない。まるっきり恋する乙女みたいな風情でさ」
「そ、そうでした?」
恐る恐る訊くと、ネーナは愛おしそうにアイの頭をなでた。
「よしよし、色気づいてきたわね。あんた今までまじめ一方だったんだからさ、いいことだわ」
「そんなんじゃ、」
ムキになって否定するアイを、
「ああ、はいはい。あんたくらいの年頃にはそーゆーこと言うのよね。ま、いいわ。なんかあったらこのお姉さんに相談するのよ。話を聞いたげるから」
「・・・ほんとにそんなんじゃないんです」
「なら、どんなんなのよ?」
うつむいて頬を染める。
「ふふ、まあいいわ。もう行きなさい。母さんにしかられるわよ」
「はい」
アイはうつむいたままネーナの部屋を出た。珊瑚の髪飾りのことを言わなくてよかった、と思いながら。恋愛関係には勘の鋭いネーナのことだ。きっとサーラムからもらった物だと見破られてしまうだろう。
(見破られると困る・・・どうしてかわかんないけど)
そんなことを思いながら、アイは台所にもどっていった。
4.に続く