1.少女アイ
その城郭都市は紅砂城と呼ばれていた。
紅砂漠と呼ばれる赤い砂から成る広大な砂漠のほぼ中央にあり、街をすっぽりと包み込む高い城壁を持ったその城郭都市は、さながら紅い海原に浮かぶ孤島のようだった。
『城』とは言うものの王族が治めていたのは数世紀も前のことで、王国の滅亡後は商業ギルドが街を取り仕切るようになっていた。
街の中央にそびえる灰色の高楼はかつての王の居城で、げんざいは『商館』と呼ばれ、街のいっさいを取り仕切る有力な商人の住居兼仕事場となっていた。
砂漠の中継地、貿易の拠点であるこの砂漠の城は、独立都市としてささやかな、しかし確固とした地位を得ていたのだ。
(わたしはこの城から出て行くことが出来るのだろうか)
夜明け前、商館の屋上から日の出を待ちながらアイは思った。
黒い髪と黒い瞳、そして浅黒い肌を持つこの少女にとって、下働きの共同寝室からこっそりと抜け出して、高楼の屋上で刻々と明るくなっていく赤い砂丘の連なりを見るのがささやかな楽しみだった。
吹きさらしの屋上には大きな金属製のお椀の様な構造物が、やはり金属製の台座に据えられて立っていた。台座には金属の歯車やてこのような部品があり、金属のお椀の角度を調整できるようになっていた。
けれどアイが憶えている限りそのお椀が動いているところを見たことがなかった。お椀はいつも中天を向いて立っていたのだ。アイはその台座に身を寄せるようにして一人たたずんでいた。
日の出とともに起きて仕事をはじめなければならないから、同僚の少女たちは皆ぎりぎりまで寝台にかじりついていた。けれど、アイはどんなに眠くてもこの習慣をやめようとは思わなかった。
お日様が顔を出すまでの黎明のわずかな時間だけが彼女にとって唯一の、誰にも邪魔されることのない自分だけの時間だったからだ。
ひんやりした朝の風が短めの黒髪を揺らす。アイは自分の細い肩を抱いて身震いした。最近、急に身長が伸びてきて、体の他の部分の成長が追い付いていない。
栄養も十分とはいえず、ひどく痩せていた。皮下脂肪の少ない肢体には砂漠の朝の冷気はことのほか堪えた。身に纏っている粗末な服は防寒よりも防暑に向いた風通しのよいもので、本来なら昼間出歩く際に着るものだった。
砂漠に特有の気候で、夜は寒くとも日が昇ればすぐに焼け付くような暑さになることはわかっていた。うんざりするような一日がもうすぐ始まる。アイはそう思って嘆息した。
(こんな朝を何度繰り返さないといけないのかな)
(死ぬまでなのかな)
(みんな言ってる。紅砂城で生まれたものは紅砂城で死ぬって)
そう言われて十二歳の今日まで育ったアイだったが、最近はその言葉に疑問を持つようになっていた。
(だってこの街にはたくさんの人がやって来て、そしてまた出ていく。昨日だって大きな隊商が出発したばかりだし)
どうにかして隊商に加えてもらえば、外の世界に行くことができる。それがアイの胸に生まれた小さな希望だった。もちろん、孤児だった自分を雇ってくれているラミュー館主や、まかない頭のバルボラ母さん、かわいがってくれるネーナ姉さんには感謝していた。
(ああ、日が昇ってしまう)
赤い砂丘に太陽が顔を出しつつあった。
そろそろ戻らないと叱られる。けれど、もう少しだけ。もう少しだけ見ていたい。
そんなことを思いながら街を見ていたアイは、北の城門で何かが動いていることに気付いた。
(なんだろう。ひと? また隊商かな)
北の門が開いていた。大勢の人影が見える。ラクダの姿も見えた。続けざまに隊商がくることは珍しくないことだった。しかし。
(隊商じゃない。あれは、あれは)
白みつつある空の下で、その集団の姿が浮かびあがって見えた。剣や槍で武装した兵士たち。弓を持っている者もいた。全員が砂漠用の布鎧と呼ばれるケブラー織の戦装束を纏い、セラミックの兜を被っていた。人数は五百人といったところだろうか。
(どこかの国が攻めて来た?)
そうではないようだった。統制のとれた軍団の先頭には、羽飾りのついた兜を被った武将らしい人影があり、誰かと話しているようだった。
(あれは・・・お館様?)
武将と話しているのはラミュー館主だった。後姿だったが、太った体と禿げ上がった後頭部には見覚えがあった。
やがて話がついたらしい。武将が合図すると兵士たちの間から、やはり羽飾りのついた兜の人物が現れた。他の兵士たちよりもだいぶ背が低い。もしかすると子どもなのかも知れない、とアイは思った。
ラミュー館主とその人物が一言二言、なにか言葉を交わしているように見えた。館主は手を広げて、大げさな身振りをしていた。客人を迎え入れる時にいつもする仕草だ、とアイは気付いた。
兵士たちは静かに移動をはじめた。商館の倉庫に向かっているらしい。朝まだきの街の中には人影はなく、兵士たちに気づくものはいないようだった。
なにかいつもと違うことが起きようとしている。アイはそう思いなぜだか胸が高鳴るのを感じていた。
2.に続く