小さな幸せの形
「……これで、よし」
わたしは、スマホに打ち込んだ文字を前にして、少しだけ目を瞑る。
しばらくそうして呼吸を整えてから、わたしは震える指先でその文面……。
——ストーカー被害により、引退配信を延期する旨をSNSへと投稿した。
(本当は、配信で説明したいけど)
昨日事件が起きたばかりで、あの家に戻るのはまだ危険過ぎる。
お母さんたちから、湊さんから、事務所から、わたしに関わりのある大人も、皆口々にそう言っていた。
わたしもそれが正解だと思うし、そこについて異論はまったくない。
まったくないけれど、やっぱり、わたしを応援してくれているリスナーの人たちの為に、配信で自分の口から説明することが誠実さだと思うから。
それすら出来ない、させてもらえないこの現状が、悔しくて仕方がない。
(……だからって、このままなにもしないのは違う気がする)
ストーカーのことが解決するまで、なにもせずに待っているのは嫌だ。
だったら、わたしがやらないといけないのは……引退配信が無事に出来るようになった時に向けて、少しでも歌の練習をしておくことなはず。
「……ん。よし」
思い立ったわたしは、再びスマホを操作して、メッセージをグループと湊さんへと送る。
その内容は、引退配信の練習と気分転換も兼ねて、カラオケに行きたいということ。
すぐに、そのグループ内のすべての既読が付いて、皆から返信があった。
皆、わたしのワガママに付き合って一緒にカラオケに行ってくれるらしい。
たったそれだけのことなのに、それだけのことがどうしようもなく嬉しかった。
「……きっと、大丈夫」
ストーカーのことも、引退配信のことも。
込み上げてくる安心感に身を委ねたわたしは、自分に言い聞かせるように、そっと呟いた。
*
「優陽くん、お風呂空いたよ」
お風呂から上がって、リビングでゲームをしていた優陽くんへと声を掛ける。
「あ、うん。分かったよ。このイベントシーン見たら入るね」
ちょうどムービーシーンだったらしく、優陽くんはちらりとこっちを一瞥して、すぐにゲーム画面に視線を戻す。
わたしは髪をバスタオルで拭きながら、優陽くんの隣に腰を下ろして、一緒になってゲーム画面を見る。
(なんか、一緒に住むってなった時はさすがにちょっとは緊張したけど)
こうしていると、意外といつもと変わらない。
だって、優陽くんはわたしの部屋の鍵を持ってるから出入り自由で、毎朝のようにわたしを起こしに来てくれてるし、ご飯だってよく一緒に食べてるし、ゲームはオフラインもオンラインも一緒に遊んでるし、家が近いから休みの前は夜遅くまで一緒にいることもざらだ。
違いと言えば、精々わたしが優陽くんがいる時にお風呂に入ったことないくらいのものかも。
そのくらい些細なものだし、この状況でこんなことを思うのは、絶対におかしいんだけど……。
(お風呂上がった時に、好きな人が部屋でくつろいでるのって……幸せかも)
一緒にくつろいでるのはいつもと変わらないけど、なんというか……お風呂上がりって大体1人であまり他人に見せることがないからか、それを見せる、見てしまうというのは限りなくプライベートが近付いた感じがしてしまう。
そして、本来ならそんなこと起こり得るのは、付き合っているか、一緒に住んでいるか、結婚しているか時くらいのもので。
だから、他人には見せられないプライベートを共有し合える程、心の距離が近い所に、いられるってことにわたしは幸せを感じているのかもしれない。
「……よし。セーブもしたし、俺もちょっと風呂に入ってこようかな」
「ん。行ってらっしゃい」
今のも、いつも言う行ってらっしゃいとは違う、お風呂に送り出す時の特別な行ってらっしゃい。
それを言うのも、言ってもらえるのも、ほんの小さな幸せの形。
(巻き込んでいるから、浮つくのなんて絶対ダメなのに)
どうしたって、ほんの少しでも幸せだって思う自分を否定しきれない。
そんな自分を見つけてしまって、自己嫌悪と罪悪感を覚えてしまっていると、
「と、ところで乃愛さん」
優陽くんがどこか落ち着きがなく声を掛けてきた。
「ん。なに?」
「その……頼んだことはちゃんとしてくれた……?」
「ん。大丈夫、ちゃんとやっておいた」
お風呂に入る前に優陽くんから必死に頼まれていたこと……それは、お風呂のお湯を入れ替えておくこと、出る時に窓を開けて換気しておくこと。
伝え終えると、優陽くんはホッと胸を撫で下ろした。
「ごめんね、ありがとう。本当はお湯を張り替えるとかもったいないからやりたくないんだけど……さすがに乃愛が入ったあとのお風呂に浸かるのはあれだからさ……」
優陽くんは言葉尻にいくにつれて、ごにょごにょと声のボリュームを落としていく。
気持ちは分かるけど、普段は凄く男らしいのにこういう部分ではやっぱり日和ってしまうらしい。
(昨日、あれだけカッコいいこと言ってたのに)
そのギャップがおかしくて、無意識にちょっと口角を上げてしまう。
そんなわたしを見て、優陽くんがちょっと拗ねたように唇を尖らせた。
「わ、笑ってる暇があるなら髪を乾かしなよ。風邪でも引いたらどうするのさ」
「ん。今から乾かす。と言っても、ずっと拭いてたからもう結構乾いてるけど」
「ダメだよ。ちゃんとする。ほら、ドライヤー持ってきて。ついでに髪梳かしてあげるから」
「ん」
わたしは言われるがままにドライヤーを持ってきて、優陽くんの前に腰を落ち着けた。
すると、優陽くんはいつも寝癖とかを直してくれているからか、手慣れた手付きでわたしの髪を乾かしながら髪を櫛で梳かしてくれ始める。
「どう?」
「ん。いい感じ。文句なし。気持ちいい」
「そりゃよかった」
「でも、優陽くん」
「ん?」
「女の子が入ったあとのお風呂には入るの日和るのに、女の子の髪乾かしたり梳かしたりは平然と出来るのっておかしいと思う」
指摘すると、優陽くんが髪を梳かす手を止めて黙り込んでしまう。
「あと、これって多分換気の為の時間稼ぎってことで合ってる?」
「分かってるなら黙ってくれるのも優しさだと思うんだけど!?」
図星だったらしい。
わたしはくすくすと肩を揺らして、まるで宝物のように優しく髪を触ってくれる優陽くんの温かさと、髪を梳かしてもらう気持ち良さに目を細めて、しばらくその感覚に身を委ね続けるのだった。




