三十二話 死神
僕は霊感とは無縁の体質だったけど、突然目の前に現れた黒い子供のような靄を見て、つい自分も幽霊が見えたと喜んでしまいそうになった。あ、でも天井の照明を受けて影ができている。残念、幽霊じゃないらしい。
しかし腰まで届く長くて黒いフードを被り、そこから少しだけ覗く白くてのっぺりとした顔、燃え尽きた炭のような肉体に、黒い雪で飾り付けられたスカートを履いている眼の前のそれは、幽霊じゃなかったら死神なんだろうか。
多分、敵なんだろうなーと思う。ただこんな姿をした敵の情報はポータルになかった。進化するダンジョンが新たに作り出したんだろうか。僕の前にこのフロアに居た探索者は、こいつと戦っていたんだろうか。もしそうだった場合、こいつの攻撃を食らったら、土に埋まって抜け出せなくなるんだろうな。
僕は周りの状況を確認しながら、ゆっくり死神もどきから遠ざかって行く。このフロア、というより付着する土の対策がない状態で、未知の敵らしきものと交戦するのは、あまりに分が悪い。僕が優先することは探索者の救助だ。自分が救助される側になってどうする。
死神もどきは僕が動いても何も反応がなかったが、突然フヨフヨと空中に浮き始めた。何だ?
ちょうど床と天井の中間辺りまで浮くと、フードやスカートが広がっていく。胴体と思っていた部分は中身が何もなく、気持ち悪いくらいに真っ黒な霧状がまとわりつき始める。やばい、嫌な予感がする!
とにかく遠くに離れようと、四足になって地面を疾走する。やばい、絶対にやばい。さっきまで地面に押し潰そうとしてきた謎の圧力は、今は消えている。このフロアに残っていた探索者も開放されてるはずだから、一刻も早く脱出していて欲しい。それを確認したら僕も脱出しないと……
さっきまではとても静かだった周囲が、突風に吹かれたような音を奏でる。風に舞う砂塵のごとく、地面から真っ黒な土が浮き上がって空中に渦を描く。あたり一面の土が、空中に浮いていた死神に向かって、竜巻となって吸い込まれていくのを見た。
僕の体にも黒い土が被さり、死神の方に連れて行こうとする。さっき押し潰そうとしてきた圧力が、今度は死神への引力となって僕に襲いかかってきた。
大地を必死に掴んで四つ足で抵抗するが、大量の黒い土が僕の体を巻き込んで死神に向かっていくため、体が浮きそうになる。少し先に、地面にどっしりと根を張る大木がある。鎖鎌の分銅を木の幹に投げつけ、ワイヤーを掴んでこの場からとにかく遠ざかる。あの死神はさっきから動こうとしないなら、距離さえ離れれば何とかなるはず。
ようやく大木にたどり着く頃には、黒い土の引力はだいぶ弱まっていた。推測どおり、距離が近いほど引力が強いようで、なんとかその影響範囲から逃げられたようだ。
しかし死神が空中に浮いてからどれだけ時間が経っただろうか。いつの間にか、それは始まっていた。
死神の立っていた地面は床が露出し、空中に黒い土……、いや黒い粒子が、雲霞のごとく渦を巻いていた。辛うじて残っている地面は荒れた海のように波打ち、床から天井まで黒い霧が覆っている。見渡せる範囲の地面は、最初にこのフロアに来た時よりも更に酷い事になっており、まるで巨大な掃除機で無理やり周囲を吸い込んだような惨状だった。
死神だったものは、自在に伸縮しながらいろいろな形に姿を変える大きな黒い液体のようになっていた。そして黒い粒子が厚い雲のように渦を巻きながら、中心に近づいては離れていく。
黒い粒子の正体はわからないけど、性質はだんだんわかってきた。このフロア自体が粒子に対するベクトル場になっていて、引力と斥力を入れ替える事で、周囲の物体を巻き込んで押しつぶしたり引き寄せたりしている。死神と床がそれぞれ力場を構成しているんだろう。力場の範囲から脱出できたから良かったものの、逃げ切れなかったら一巻の終わりだったかな。
今の死神は一種のブラックホールだ。液体のように振る舞う粒子。死神に近いほど引力が強くなって粒子が密着し液体のようになる一方で、距離が離れれば力が弱まっている。多分、引力は死神からの距離の二乗に比例する、ってやつだろうな。しかしこの粒子、なんなんだろ?木や建物すら粉々に砕くんだから、相当な密度を持っているはず。




