プロローグ
ふと気付くと、そこは不思議な空間だった。広い円筒形の部屋のようで、天井はとても高く、床は複雑な模様のタイルが同心円状に配列されていた。その床にはホコリ一つなく、緑色の光がタイルの隙間をいくつも周期的に走り抜けている。床の光はこの部屋の中央から壁に向かっていて、壁は水色の透明な氷で出来ているようだった。
そしてその壁の中には氷漬けになった人間の死体が何十人も埋まっていて、かなり猟奇的な光景だった。
「いえ、氷というほど低温では有りません。特殊な防腐剤と栄養剤を使った氷晶という素材の壁です。その中に氷晶保存されているだけで、中の人間は死んでいません」
いつの間にか部屋の中央に立っていた、長い銀髪と赤い目をした美しい女神が僕に語ってきた。
「いえ、私は女神では有りません。このポータルの従業員です。ですが容姿を褒めていただき、ありがとうございます。あと私がずっと前からここに立ってたの、ご存知でしたよね」
ポータルが何をするところなのか、そもそも人間がなぜ壁に保管されているのか、一切わからない。
「いえ、だから先ほどから説明している通りです。お願いですから、きちんと聞いて理解して下さい」
歳は20代半ばだろうか、背が高く透けるような肌をした美しくも妖しい女神は、これまた光が揺蕩う不思議な机の前に立っていた。
「揺蕩うって、ロマンチックな表現をなさいますね。それよりもう一度説明しますが、よろしいですか?」
僕の名はサノ、23歳になったばかりの独身男だ。国立研究所に勤めて5年目、まだ給料も安いので免許はあるが自分の車は持っていない。確か寮から自転車で研究所に向かっている時、トラックに跳ねられて……
「自己紹介ありがとうございます。ほんと人の話を聞かないですね貴方。トラック事故ではなく位相転換で貴方はここに来たのです」
トラック事故じゃなかったらしい。まぁ僕の使っている通勤路は車両進入禁止だしな。
きっと実験中の事故とか流れ星が頭に落ちたとか死神を召喚したとか何かで僕は死んで、女神が僕の魂を拾って、実は転生で……
「だから違いますって。私が貴方を選んでここに連れてきたのです。あと貴方は死んでいません」
なんだ、せっかく流行りの転生モノかと思って恐怖に打ち震えてたのに。まぁいいや、お姉さんきれいだし。ところで何歳かな?僕より年上っぽいけど。
「流行りとか何を言っているかよくわかりませんが、私の年齢は秘密です。それより、私の説明を始めてもよろしいですか?え?」
なんだかお姉さんがだいぶ怒っていらっしゃる。くそ、これ以上は誤魔化しきれないか……
ただ研究所から僕をここに連れてきた謎の機械や、この部屋の設備を見るに、僕のいた世界より遙かに科学や技術が進んでいる。やっぱり地球ではなさそうだ。
はじめは夢かドッキリか映画の撮影かと思ったけど、壁に氷漬けになっている人間はどこから見ても本物っぽいし、お姉さんは顔はキレイだけど着ているのはステンレス製の高級ドレスとしか言いようがない近未来的なものだし、そもそも目が赤いし、やってる事は拉致誘拐だし、正直危険な臭いがプンプンする。どう見てもカタギではないよな。
それにさっきから僕の心の声まで読まれているのも怖い。あれか?宇宙人による誘拐……アブダクションだっけ?……なんだかそれが一番それっぽいな。
「ああ、貴方の言う、その『アブダクション』?まさにそれです。私は宇宙人というより異次元人なのですが、その理解で概ね合っています」
はぁ、異次元人。すごい。何次元だろ?それとも位相転移って言ってたからルベーグ被覆次元かアフィン次元か?しかし喋らなくても話ができるって怖いけど便利でもあるな。
「貴方、本当は状況をわかっていて茶化してますね。貴方がその気なら、私にも考えがあります。そろそろ堪忍袋の緒が切れそうですので」
そう言って女神……じゃないポータル説明員とやらは、机の上で何か操作し始める。何か良くない予感がひしひしとする。逃げた方が良いだろうか。
「逃げようとしても無駄ですよ……って本当に逃げるんですね。逃しませんが」
そう言った瞬間、逃げ出した僕の体に、見えないロープのようなものが巻き付けられた。さらにチクッとした痛みが手足の皮膚に走る。途端にその部位の感覚がまったく無くなってしまった。よく効く局所麻酔なんだろうか。怖い。
手足が痺れて床に倒れ込んだ僕は、女神が呼んだらしい変な人型ロボット4体に取り囲まれ、裸にひん剥かれてしまった。なんでロボットのくせに服を脱がせるのがうまいんだ?ズボンのベルトまで器用に外してたぞ、このロボット。謎だ。あと脱いだ服や持ち物はちゃんと保管しておいてくれ。
あっという間に氷壁の前まで連れてこられた。冷たそうだ。ここに閉じ込められるのか、やだなぁ。
よく見ると壁の一箇所に人間一人が入りそうな空間がある。多分、僕はそこに押し込まれるのかな。押し込まれた。うわ、全身に泡がかけられ始めた。ちくしょう、展開が早すぎる。日帰りの世界一周旅行かよ、このせっかちめ。
泡同士がどんどん結合して氷のようになっていくようだ。感覚がさっきから麻痺しているせいで冷たいのか温かいのか分からないが、だんだん気持ちよくなってきて、それもまた悔しい。寝ちゃいそう。
……しまった。隣に埋まってた人を確認しておけばよかった。きれいな女性だったらいいなぁ。
◇
「全身消毒完了。防腐処理完了。生命維持装置の取り付け完了。保存プログラム実行中。魂の抽出開始……」
頭の後ろあたりから、女神とは異なる女性の声が聞こえる。感覚がぼやけていき、自分の目が開いているかどうかも分からなくなってきた。
そもそもなんだ、魂の抽出って。今までの人生で聞いたことがない言葉だ。大丈夫かおい。
あー、ダメだ。どんどん意識が遠くなっていく。あれ?もしかして今の一連の出来事が全て夢だったのかな。そうだったらいいのにな……