月と大地
「2度と使わない方がいいとは、どういう意味なんだ?」
《意識のある生物を生み出す魔法は、超高等魔法だ。お前1人の魔力ではとても賄い切れない。おそらく黄衣の魔女の魔力を間借りしているのだろうが――》
「『リリベル』で良いよ。君はもう冠付きの魔女ではないのだから」
リリベルがエリスロースの言葉を遮って自分の呼び方を改めるようにした。重要そうな会話をわざと遮ったように感じられた。
《リリベル、キミはこいつに何の魔法を教えた。もしかして魔女狩りの対象になるかもしれないのだぞ》
いきなりとんでもない言葉が紡ぎ出された。魔女狩りの対象になるとは一体どういうことだろうか。リリベルに似せた存在を具現化する魔法を詠唱したが、もしかして魔法界では禁忌とされている魔法なのか。
「ヒューゴ君、今の魔法はとてもすごかったよ。君の想像力次第でもっとすごいことができると思うよ」
エリスロースの忠告を無視して、リリベルはひどく興奮して鼻を鳴らしていた。俺のしたことをリリベルは褒めたが、エリスロースは拒絶した。
《ああ。そういうことか》
エリスロースは突然何かを納得したような言葉を吐き、リリベルに続けて声をかけた。おそらくだが、リリベルからの説明が無かったので、たまたま自分の血に混ざった彼女の血の記憶を覗き込んだのだろう。
《リリベル、彼にそこまでしてやって、君が受けた代償は一体何なのだ?》
「ふふん、秘密だよ」
俺が使っている魔法は、リリベルに何らかの悪影響を及ぼしているような言い振りだった。しかも、リリベルは明らかに話を濁していて、核心に迫ることを避けているようにみえる。
彼女に本当のことを聞きたいが、今は抑えることにした。後で必ず聞こうと決心する。
「ヒューゴ君、彼女は2度と使わない方がいいと言ったけれど、気にしないでね」
「あ、ああ、分かった」
目の前の月を改めて見ると、赤く染まった巨大な月はもう異音を立てて迫って来ている。明らかに落ちて来ている。赤い月の光に照らされた周りの雲を目印にすると、はっきりと動いていることが分かる。
月の表面にできた凸凹がはっきりと見える。もう月上は近い。
身体はなぜか自分の意思とは関係なく、ふわふわと動き初めていて落ち着かない。エリスロースも心なしか飛び辛そうに翼を動かしている。
「いよいよだね」
《下がまた光っているな》
「しつこいねぇ」
リリベルがやれやれと言った口調で再び雷魔法を詠唱し始めた。
アギレフコは最早ここからだと砂粒ぐらいにしか見えない。砂粒から、きらきらと光る同じく砂粒のようなものが無数に彼から分かれ始めた。
彼女の雷を掻い潜った砂粒は、徐々に大きさを変えて、粒から小石、小石から小岩へと光を強くしていく。彼女の雷で確実に光の数を減らしていくが、それでも流星群は美しさを保ったまま空に落ちてくる。
俺は、エリスロースの諫言を思い出して一瞬躊躇はしたものの、何人もの偽者のリリベルを再び空に放つ。彼女たちは自分たちの置かれている状況を一瞬で理解し、地上へ落ちながら下から降ってくる流星群を確実に雷魔法で破壊していく。
彼女の膨大な魔力だから成せる技なのだが、それでもこの場を凌ぐには今のところ最善策であると言える。
下からやってくる流れ星が全て撃ち落とされたことを確認して、今まで全く距離感が掴めなかった月に間も無く到達しそうだと思った時だった。
遥か遠く真横から光の帯が一瞬で横を過ぎ去った。
《囮……だったのか》
エリスロースの言葉の歯切れが悪かったので、彼女の方へ視線を下ろすとドラゴンの首部分が無くなっていた。一瞬の光が彼女の首を掻っ攫っていった。
そして、再び真横から強い光で照らされるのを感じ取り、次の攻撃が来ることを悟った。俺は対処する暇もなく咄嗟に横向きに盾を構えることしかできなかった。
盾なんかでは防ぎ切れない圧倒的な魔力量と精度を持った結晶の光線が、俺たちを空へ弾き飛ばす。
エリスロースは粉々に飛散し、俺とリリベルは空に放り出された。俺は足場になるものもなくて、空中で溺れかけたようにじたばたするしかなかった。
後一歩のところで月から落ちると思うと、案外簡単に悔しさが込み上げてきた。
これだけ高い所にいるのだから、地上に再び落ちるまで少しは猶予があるだろう。彼女は決して死ぬことがないが、俺は確実に死ぬ。だから、気持ちの整理でもしようかと思っていたのだが、いきなり背中に衝撃が走り痛みで声を上げる羽目になる。
もう地上に落ちて来たのかと思ったし、なぜ生きているのかと不思議だった。痛みを堪えながら周囲を見渡してみると、明らかに地上の景色とは違う。草1つ生えていない、殺風景な結晶の大地がただ広がっていて全てが赤く染まっていた。地面は砂や岩ではなく、全て光り輝く結晶だった。どこもかしこも結晶しかない。
凹んだ穴の縁からリリベルがひょこっと顔を出すのが見えたので、急いで駆け付けて彼女の無事を確認する。彼女も背中を打ち付けたようで、手で痛みのある場所を押さえている。どうやら大事にはなっていなかったようだ。
「ここが月だろうか」
「ふふん、そうみたいだね」
彼女は人差し指で空を指差すので、上を見上げると赤く照らされた大地が広がっていた。一瞬それが月かと思ったが、先程まで目に入っていた月の形とは明らかに違う。
つまり、今俺たちが立っているこの場所が月なのだ。月に立った感動は特に無かった。ここが月だという実感がいまいち湧いていないからだろうか。
「さあ、早く月の魔力を吸い上げるとしようかな。ヒューゴ君、私を守っておくれ」
月から見た空の景色は、大地しか広がっていない。その大地はまるで天井が剥がれ落ちて来ているかのように、こちらに近付いて来ている。
大地から白い粒の光が幾千も輝きを始めたので、俺は大地に向かって具現化した盾を構える。