交渉と戦い
オークたちが騒いでいた主たる要因がこの燃える死者だったのか。
この場にいる皆が対峙したことがあって、そして死にかけたことのある化物の群れを目にして息を呑んだ。
正確にはリリベル以外の皆である。彼女は、「ああアレか」と一言口にしただけで特に気にしている様子はなさそうだ。
「エルフの……えーと――」
「シェンナだ」
「シェンナ、アレの対処は任せたよ。数は多いけれど、アレの動きは鈍いから何とかなるでしょ?」
そう。あいつらは強大な攻撃力と引き換えに動きは遅い。ゆっくりとじわじわと近付いてくるので、これだけ広い大地ならどうとでも……。
嫌、無理だろう。どうともならない。全方位に燃える死者がいて、ここから眺めるだけでも尋常ではない数がいることは分かる。一点集中で攻撃を仕掛ければ、包囲を突破できる訳でもない。攻撃している間に横から熱波に当たれば、瞬時に身体は焼き尽くされるだろう。
だが、シェンナはこの絶望的な状況を前にして、一切弱音を吐くことなく、行動に移した。彼女の心は強いな。
絶望に浸っている暇があるならさっさと行動しろと言わんばかりに、ダナと共に走り始めた。
「アンタたち! さっきから谷から変な音がしているから、気を付けろよ!」
シェンナが別れ際に気になることを言い残して行った。気を付けようにも正体が分からないので、どうすることもできない。今は放っておこう。
それよりも今は、空に浮かぶ巨大な白いドラゴンと地を這うように飛び回っている棘の生えた黄土色のドラゴンに気を向けなければならない。
アギレフコは頭上にある2つの白輪を輝かせて、翼も羽ばたかずに空をゆっくりと漂っている。時折、白輪を激しく輝かせると顔から光線をエザフォスに向けて放っている。
エザフォスは白い光線を避けながら、周囲にある土を大量に浮き上がらせて、それを尖形に固めるとアギレフコへ飛ばす。尖形の土はアギレフコに突き刺さるが、しばらくすると内側から盛り返すように尖形の土が戻って、アギレフコのすぐ下に落下する。アギレフコに刺さっていたであろう箇所は白く輝いてから、元の状態に戻っていた。一種の回復魔法であろうか。
戦いは膠着状態にあると言える。お互いがお互いを倒す決定打になる攻撃を未だ与えられていない。
しかし、アギレフコには月がある。白い竜の後ろにまた白く輝く巨大な月が空を埋め尽くしている。真上に首を上げれば、月しか見えない程に月はこの地に近付いている。
これ程までに月を間近に見たのは初めてだろう。そしてこの先、同じ体験をすることはあるだろうかと聞かれたら、一生ないだろう。というか2度と同じ体験をしたいとは思わない。
この大陸で暮らしている俺たちにとって、少なくとも月が堕ちてくる事態だけは避けたい。そのためにはエザフォスの協力を得たいのだが、どうやって彼と会話する場へ持っていけばいいのかが分からない。
リリベルなら何か妙案があるのだろうか。
「エザフォスとの会話をどうやって取り付けようか?」
「私の魔法でアレを地に落とす」
「は?」
おいおい。攻撃してエザフォスの気を向けるのは良いが、どう考えても敵対行為にしかならないだろう。大人しく話を聞いてくれるようになるとは思えない。
『瞬雷』
俺がリリベルに意図を聞くより早く、彼女は雷をエザフォスに落とした。
エザフォスは不意を打たれた形で避けることができずに、雷に直撃する。一発でこちらを睨み付けてきたので、彼女の思惑通りにはなったが、この先どうするつもりだろうか。
勢い良くこちらに滑空してきた棘のドラゴンは、そのスピードに乗ったまま地面を抉り取りながら着地する。抉り取られた土が弾丸のように俺たちを襲いかかりそうだったので、俺はリリベルを抱え込んで土の嵐から身を守った。
『愚かなドラゴンの僕か? 往ね』
「私はあの白いドラゴンの魔力を吸い取ることができる!」
俺の胸の中に収まっているリリベルが、エザフォスに向けてそう叫ぶと、彼の動きが止まった。一瞬で命の危機に晒された俺は、心臓の鼓動がこれでもかという程に鳴り響いていた。今日だけで一体何度死にかけているのか。
「君の背に乗せて月へ送ってくれないか? あの月を私が破壊してみせよう」
『その小さな体でか? 笑わせるな』
エザフォスが咆哮を上げると、声の振動が俺の身体を突き抜けた。耳がイカれそうだ。
咆哮と同時にエザフォスの目の前にある土が大きく盛り上がり、尖形となって俺たちを貫こうとする。人間と魔女を殺そうとするには余りある大きさだ。
土の槍はそれが形作られたと共に、強烈な速さで俺たちに突撃して来る。
『剣は盾!!』
リリベルを俺の背に置いてから、黒剣を鞘から抜き、そのまま盾に変形させる。
土の槍を正面から盾で受けたが、気付いたらいつの間にか俺は空へ弾き飛ばされていた。手に持っていた黒盾はバラバラに砕け散っていて、俺はゴム毬があらぬ方向へ跳ねた時のように、空を舞っていた。
一瞬のできごとであるはずだが、空を飛んでいる間は、視界に映る景色がとてもゆっくりに感じられた。アギレフコの頭上にある白輪が再び輝きを見せ、口元から光線を放つ準備をしているのが見え、さらに視界が変わると、燃える死者の群れが見えた。月に照らされて赤く光る人の群れは、何重もの列になって大きな谷を囲んでいる。谷の奥まで赤い。
そして、空から見えた様々な景色が終わって、後は高度を落として地面に激突するだけだったが、ぶつかったのは土ではなく水だった。
運よく沼にでも入ったのかと思ったが、水中は異様に鉄臭さを感じさせた。水中の居心地の悪さもひどいが、足が水底に着かないのも最悪だ。黒鎧を解除しようにも、ここは水中で言葉で詠唱できないから身体は沈んでいくばかりである。
そうして少しの間もがき苦しんでいると、なぜか俺は水中から脱することはできた。下に沈んで沈んで、ずっと沈んで行ったと思ったら、水中だったのに再び地面に落下したのだ。
口中に入ってしまった鉄臭い水を、必死に咳き込みながら吐き出す。異物が身体の外に出て、少しは身体がマシになったと思って、すぐに立ち上がって周囲の様子を窺うと、そこは先程足を着けていた大地だった。
一度水中に飛び込んだはずなのに、なぜ再び地面にいるのか不思議でならなかったが、頭上を見上げると原因が分かった。
大きな水が不自然に地面から伸びていたのだ。
嫌、これは水ではない。月に照らされたそれははっきりと赤く反射しているのが分かった。巨大な血の塊が、物理法則を捻じ曲げて俺を受け止めたのだ。
《思ったよりもお前たちは手間がかかるな、ああ手間がかかる》
血の塊は、喋る血ことエリスロースだった。