月と白いドラゴン
太陽が沈み始めて、エリスロースの血がどれだけオークに行き渡ったかリリベルが聞いてみるが、状況は芳しくない。
「オークが2体、血の呪いを享受してくれたが、すぐに発狂して谷の底へ飛び降りて死んだ」
オークは、血に混ざったエリスロースの魂から様々な種族の記憶が流れ込んで、怒り狂って言葉にならない叫びを上げて落ちたようだ。
彼女の血の加護よりも、種族としての怒りが遥か上回って彼らの心を支配している。
「周辺国はなり振り構わないぞ。明日にはここに大軍が押し寄せてくる」
シェンナがダナの影に隠れて涼みながら、そう言ってきた。
ノストーラやその周辺国は軍隊をこの地に集結させているようだ。俺たちはそんな話全く聞いていないので、どうやら情報が錯綜する程、周辺国はあの手この手で月を落とすための手段を講じているようだ。
シェンナはダナを心配している。
この地で戦争が起きた場合、ダナが標的にされる可能性がある。見た目はただのオークだから、俺は味方だと叫んだところで誰1人信じないだろう。
「死ぬのが怖いならここに来なければ良かったのに」
リリベルがダナの様子を窺うことなく、ひどいことを言ってしまう。
「俺の仲間が殺されていくのは見たくないです。他の人たちが殺されるのも嫌です。俺が頑張って争いが起きなくなるなら嬉しいです」
「こいつも結構強情な奴だからさ。心配なんだよ」
シェンナもダナも恐怖は持っているが、逃げるつもりはないようだ。
そして、ダナの言うことには共感できる。争いは起きないのが1番だ。
太陽が完全に地平の向こうに落ちると、青白く光り輝く巨大な月が目立ち始めた。
顔を空へ上げると、もう星々は見えない。眼前に広がるは月だけだ。
綺麗だ。
だが、不気味だ。圧迫感で殺されそうだ。
ここに来るまでに、いくつかの国を通ったが、人民はパニックに陥っていた。
ある者は神に祈り続け、ある者はこの先の未来に絶望して自死を選び、ある者は混乱していることを良いことに略奪を働く。あちらこちらで喧騒の音が響く。
全てはこの月のせいなのだ。
昼間よりも更に巨大になった月は、圧倒的な威圧感と絶望感を漂わせている。
「なんだか風が強いね」
リリベルが言ってから気付いた。
周囲の砂埃が風で宙を舞っているのだが、再び落ちてくることはない。そのまま空へ巻き上がったまま、月へと吸い寄せられている。
「エリスロース、君はここで血を操り続けてくれ。可能な限り、オークたちの行動を阻害して欲しい」
「私がお前たちを襲っても文句は言うなよ?」
「言うよ」
エリスロースだけ岩場に隠れて、オークたちに血を流し続けることになった。谷に混乱を生ませている間に、俺とリリベル、シェンナ、ダナはオークの谷に潜入する。
リリベルの黄色のマントは余りにも目立つので、今回ばかりは無理矢理脱がせて、俺の背負う鞄に入れた。
もちろん、彼女にはかなり恨まれている。彼女の機嫌1つで世界を救えるかもしれないなら、喜んで恨まれてやることにした。
決して彼女の嫌がることをして喜んでいる訳ではない。
4人は腰を低くしながらゆっくりと谷の入口まで歩いて行った。
月明かりが強すぎて、多分俺たちの姿は良く目立っているだろう。
地上に見張りがいなくて本当に良かったと思う。
谷の縁からゆっくりと顔を出して、下の様子を確認すると、あちこちに松明が置かれて谷の底まで続いている。
崖の壁にはいくつもの通路や谷と谷を結ぶ橋が架けられていて、壮観な景色だ。
オークの数は数え切れない。俺が想像するよりも遥かに多い。
酒場か何かだろうか、俺の顔よりも大きなコップを手に持ち、仲間と飲んで楽しんでいるオークもいれば、鎧を身に纏って通路を巡回するオークもいる。
彼らは月を気にしていないのだろうか?
谷の亀裂はずっと先まで続いていて、ここからでは終わりが見えない。
遺跡の入り口は谷の底にある。地図はノストーラの国王からもらったものがあるので、谷底に辿り着きさえすれば後はどうにかなるだろう。
封印されたドラゴンを起こすには、魔力を少し注入するだけでいい。
後は「月が落ちている」と伝えれば、ドラゴンが勝手に月を戻そうとするらしい。
俺のイメージだが、ドラゴンが人間の言うことを聞くとは思えないので不安だ。
谷の縁からどうにか下にある壁から出っ張った通路に、降りることのできる場所を見つけた。
ダナが最初に降りて、シェンナが続けて降りて、次は俺が降りる番だ。
ゆっくりと音を立てないように、後ろ向きで下に足を伸ばして降りようとした時だった。
谷が騒がしくなってきた。オークたちの明らかな怒声だ。
もうバレてしまったのかと、俺は慌てて縁に戻り、オークたちの様子を見る。橋や通路にたくさんのオークが出てきて、皆同じ場所を指している。
俺たちがいる場所だ。
確実に彼らに俺たちの存在がバレた。
ダナとシェンナが下にいるが、すぐに縁まで上がることのできる高さではない。
どうにか手を伸ばして、シェンナだけでも地上に上げようとしたが、2人は呆けて俺の方を見るだけだ。
「早く手を!」
俺が叫んで促すが、2人は反応しない。一体何を考えているのだと怒りが湧く。
「ヒューゴ君!」
俺のすぐ後ろでリリベルが叫んだので、今度はどうしたのかと後ろを振り返ると、リリベルは空を見上げていた。
リリベルまでこんな緊急事態に呑気に空を見上げている場合かと、彼女の叫びを無視しようとしたが、不意に空が眩しく感じた。
月の光が眩しくて目を覆いたく程、月が近付いているのかと思って、上を見上げたら、どうやら月が眩しいからではなかった。
人生で初めて見た。
これがドラゴンか。
月を背に、白く光り輝くドラゴンがいた。
大きさは巨大と言うしかない。それは、ここから離れて空を漂っているが、それでも巨大に感じる。そこら辺の国の城なんか軽く踏み潰せる程の大きさだ。
脚や尾は力無くぶら下げているだけで、腕は片方が途中から無い。顎は左側が欠けており、牙と舌が露出している。
首も体も尾も長くスリムで、翼は穴があちこちに開いている。翼は羽ばたく様子がなく、どうやって飛んでいるのか分からないので不思議だ。
そして、最も目立つのは頭の上に、体よりも大きい白い輪が宙を浮いているのが見える。
巨大な輪の内側にもう1つの白い輪がある。大きな白い輪の半分程の大きさだ。その輪は頭の位置に対して傾いて浮いている。
白い輪を頭に浮かせた真っ白なドラゴンは、突如白く光り輝き始めた。
すると、突如として暴風が吹き荒れ、俺とリリベルはあっという間に宙を舞った。飛んだ先が谷の方向だったのが最悪だ。途中の通路か橋に落ちればまだいいが、谷の底まで落ちれば確実に死ぬだろう。
『おい』
俺は苦し紛れに詠唱して黒鎧に身を包む。
「ヒューゴ君! 私は気にするな! 目的を果たして!」
俺より遠くに飛ばされてしまったリリベルは、飛ぶ勢いが衰えて落下するが、橋の上に落ちてしまった。
俺はリリベルの姿を一瞬だけ視界に入れたが、次の瞬間には橋を通り過ぎて谷底へ落下する。
谷底には松明の明かりが全く無いので、暗くて底が見えない。
『ファイア!』
炎の魔法で底の位置を確認しようとしたが、思ったよりも底が近い。多分「あ」という間もなく俺は底に激突するだろう。
俺は自分の体に手を向けて、炎の魔法を詠唱しようとした。
少しでも落ちる勢いを衰えさせて、死ぬことだけは回避したい。
『ファイ――』
だが、落下する速度が自分の想像よりも速くて、俺は勢いそのままに底に到着した。
到着した瞬間、俺の視界は暗闇に包まれて、音は何も聞こえなくなった。




