感情の振動
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小太りの商人リッケルが目の前にいる。
彼の屋敷で、彼の使用人は席を外してもらい、2人きりだ。
彼の横幅など全く気にならない程の大きな部屋に、一体何人で座るのかという幅の広いソファに座って、彼と対面している。
リリベル、オルラヤ、クロウモリの活躍によって解決した舌切り騒ぎの恩恵を、自分も受けられることに大いに喜んでいる彼は、酒が進み酔いが回っている。
彼に勧められた酒は飲む気にはならなかった。
内で渦巻く複雑な感情と今も戦い続けている。懐にしまったナイフを取り出すかどうかを、この門をくぐった時から迷っている。
「いやあ、魔女殿にお願いして良かった。子どもたちだけでなく、住民皆を救っていただけるとは」
リリベルたちを呼んだのは、他の誰でもなくリッケルだ。彼はそのことを喜んで吹聴して回るだろう。
そして、この国で彼の地位は確たるものになる。
清々しい程に利己的で、他人を平気で蹴落とす性格は、奴隷であった頃の雇い主を思い出してしまうので、正直に言えば嫌いだ。
生き方として否定するつもりはないが、後悔するならリリベルを関わらせてしまったことが挙げられる。
依頼を受けた後の去り際の言葉は、今でも鮮明に覚えている。リリベルをあくまで自分のための道具として利用していることが、ありありと見て取れた様子は、リリベルの騎士という立場から見たら許せない。
許せはしないが、我慢はできる。
そう、ここまではまだ我慢できる範疇のことだった。
魔女が死んでも舌を集め続ける気の狂った清掃人が、舌を集め終わった後に、一体どこへ行くのか。
もし魔女の家に辿り着けば、溜め込まれた舌を回収して、舌を失った者たちを助けられるのではないか。そう思って尾行した。
その行き着いた先はリッケルの屋敷の裏手にある家であった。
男は屋敷の裏手側に入って、高級感を漂わせる家に入った。人通りはなく、誰の目も気にすることなく彼は素直に入って行った。
道の角で人待ちを装って、男が入った家を見守った。
そして、待つのに飽きて欠伸をする間もないくらいに、安心感を得たような顔で男が家から出てきた。
リッケルの依頼を受けて始まった舌切り騒動の原因が、まさかリッケルの屋敷の裏手にあるとは思いもしなかった。
この時点では、何て酷い偶然なのだと思うだけだった。
その直後に、男が、そのままリッケルの屋敷の裏口の戸から入って行った時は思わず2度見した。
男がリッケルの屋敷に入らなければ、ここまで動揺しなくて済んだ。
リッケルと舌だけを集める清掃員が繋がってしまったことで、考えたくもない良からぬ想像が駆け巡り始めた。
想像は身体を自然と前に進ませ、気付けば俺は男が入った家の戸を開けていた。
不用心にも鍵はかけられておらず、中に人の気配はなかった。
人どころか、生活感の欠片も感じさせないくらいに、中は空白で埋まっていた。
中を進むうちに、血の匂いが鼻につく。
その血の匂いに誘われて辿り着いた部屋は炊事場であり、そこに僅かな掃除道具と大きな鍵付きの箱が1つだけ置いてあった。
頑丈そうな錠前は蓋で留められていて、素手で開けられる代物ではない。
ただ、匂いの源がその箱であることだけは確かだった。
血を拭き取ったとしても、中に残しているもの自身の放つ匂いが、存在感をアピールし続けている。この中に入っているものは、万人が喜ぶ宝物ではないことだけは確かだ。
舌はここにある。
そして、舌を箱に収めてすぐにリッケルの屋敷に向かった清掃員の姿を思い出せば、俺もリッケルの屋敷に行かざるを得なかった。
清掃員とリッケルとに、どのような繋がりがあるのかを確かめずにはいられなかったのだ。