振動世界3
彼はが私にとって不利益になることをしたと知ったヒューゴ君が、あたふたしている間に、ひとまず私とヒューゴ君の舌を血止めした。
複雑な怪我でなければ高い魔力の制御を必要としないから、手を使わなくても魔法は使える。
私とヒューゴ君の応急処置が終わると、彼は今度はヴォルミルに対しても治療をするように懇願してきた。
自分で頭を殴っておいて治せとは、ヴォルミルの見た目よりもワルだと思う。
彼女を治してすぐに起き上がられでもしたら、先程までの機転が無駄になるとも思ったけれども、ヒューゴ君が望むのなら仕方ないね。
ヴォルミルの目に見える傷だけは治してあげた。
傷口を塞いだ後は、刃を閉じっぱなしの鋏を拾って良く観察してみた。
どうして魔法が発揮されたりされなかったりしたのか、夜明かりのおかげで初めて分かった。
みすぼらしいと思う要因になっていた、鋏に付いた傷や錆は、刃を閉じると1つの模様となっていた。
この傷と錆が、魔法陣としての役割を果たしていたみたい。
やけに刃が閉じにくかったのは、ある種の安全装置だということも今理解できた。うんうん。
鋏が効果を発揮しないように、再び魔法陣を分割させる。
この場に捨てても良かったけれど、ヴォルミルが悪用すると困るから、少し開いた状態で懐にしまった。
そして、嬉しくなった。ヒューゴ君は私が理解するよりも前に察していた。
ふふん、どうだこれがヒューゴ君だ。自慢語りしたい者が周囲にいないことが残念だね。
血止めしても、口中は血が残っていて、慣れた味がし続けている。
裂け目の横壁から水が流れているので、口をゆすぎながら地上に戻る方法を考えていたら、彼が身振り手振りで私にアピールしてきた。
動きが多かったけれど、要するに彼は、私を背負って崖を登りたいみたい。
底に残したヴォルミルが起きる前に、裂け目から脱出したいみたいで彼は、私が彼の意図を何となく理解したと感じたその瞬間に、慣れた手つきで私を背負って本当に崖を登り始めた。
筋力強化もなしに君の人間だけの力で、私を背負って崖を登るなんてとても体力が必要なことだから、彼がどこまで到達できるのか興味があった。
いつ彼が手を滑らせて落ちるのか、胸をときめかせながら彼を見守った。
落ちることを望んでいる訳ではないよ。
彼が地上に到達してしまったら、心臓が破裂するくらい喜ぶと思う。
とてつもなく長い時間をかけて、地上まで半分程まで辿り着いた所で、彼は止まった。
片手を離して手を降って、今度はもう片方の手で同じことをする。そんな動作を何度も行い始めた。
お、いよいよ落ちるのかな?
彼はまた登り始めた。
息も絶え絶えで、今にも崖から手を離してしまいそうなのに、離さない。
彼の表情が気になって、顔を覗き込んでみたら、歯茎を剥き出しにして、耐えるように登っていた。
可愛い。
おっと、いけない。
興奮して身体が暴れないように私は必死で私を抑え込んだ。
そんな状況で結局、彼は裂け目を登り切ってしまった。
とっくに夜が明けて朝になっている。本当に長い時間彼は登り続けたみたい。
衣服の下からでも彼の腕が腫れ上がっていることは分かった。
身体の限界なんて気にせず登り続けたからに決まっているけれど、良く頑張ったと褒めてあげたい。
彼は地上を登り切った時点で、その場に俯向けで倒れてしまった。
もう1歩足りとも動くことはできないという表れを、身体全体で表現する様は見ていて興奮……いや、心配になってしまう。
地上の貧民街は更に貧民街らしく、惨憺たる有り様になっていた。
家の倒壊具合もそうだけれど、地面のあちこちに血が垂れた跡がある
おびただしいという表現はできない程度の血の量で、大体の血の中心点には、舌が落ちていた。
舌が落ち葉みたいにたくさん落ちていた。
木枯らしでも吹けば、汚く集まって舌たちが舞い上がる想像ができてしまうくらい、落ちていた。
私が鋏を使ったことが原因だろうね。
魔力を目一杯に放出したから、ここまでたくさんの貧民街の人間の舌を切ることができたんだ。
舌切り騒ぎの犯人は私と言っても過言ではなくなってしまったね。
彼が再び歩けるようになるまで、彼の頬を突いて遊んでいたら、彼は突然視線を固めた。
彼の見ているものが気になる。
私よりも視線を優先させるものがあるなんて、気になる。
余りにも気になるのですぐに振り返った。
彼の視線の先には、1人の男がいた。
誰もいない街中をあくせく働いている人間だ。
2つの樽桶を持った男だった。
1つは空でもう1つは水が入っている。
男は空の桶と水の入った樽桶を置いて、耳を空の桶に入れていく。
毛ブラシで水に濡らしながら、血を除去していく。
彼は血で汚れた街を一生懸命に綺麗にしようとしている。
掃除することは悪いことではないよ。
でも、ヒューゴ君が視線を固定した。きっと意味がある。
あの男がただの人間ではないと仮定してみたりした。
注意深く男の掃除する様子を眺めて、そして、彼が商人の街にとって悪い人間だと何となく理解した。
だって、彼がもう1つの桶にせっせと入れている物は舌だけなんだもの。




