3重8
廊下を歩き続けていると、羽ばたく本を見た。本の頁が丁度半分ずつに分かれて開かれた状態で、翼のように動き空中を自由に飛んでいる。
眠らずにここまで来たことで幻覚でも見たのかと思ったが、スーヴェリアがそれを神と呼んだ。
「知る神だな。俺たちが同じ言葉を話せるように、知を与えてくれる神だぜ」
その名は知っている。
文字に生きる神で、知を授けることで信仰を得るために、知識を教えたがる一面を持つ。
当時の仕官試験では知る神がたまたま試験用紙の文字に入り込んでしまって、全員が満点を取ってしまったなんて逸話があったな。
「やらんとは思うが、本の内容を全て読もうとするなよ。全て読むと発狂するぞ」
ヴラスタリが薄目でニヤニヤと言いながら此方を見つめていた。
突然、本が俺の顔に張りついてきた。顔が塞がる不快感で本を掴み、離すと丁度目の前に開かれた本の内容が見えてしまう。
ランタンの光で照らされる文字は、掠れた字などなく、はっきりとした色味の黒字で埋まっていた。
興味本位で一部分を読んでみたが、本の体裁を保っているものにあるまじき酷い内容であった。
文の前後関係などなく、その時思いついたことをそのまま書いたような書き方であった。
知識の分類は順序立てられておらず、植物の文章の次にはいきなり酒の文章がくるといった具合だ。目次を開く気にもならない。
ヴラスタリにとっては伝説上の話で収まっているのだろうが、全てを読んだら本当に発狂してしまうのだろう。
だが、これだけ読み辛いと、実際に本の中身を全て読んだ者はそういない気がする。
俺が本に興味を持たなかったと思ったのか、知る神は俺の手から勝手に離れて羽ばたいて行ってしまった。
他にも神との出会いはあったが、特に出会って嬉しかった神は腐る神だった。
とある部屋の一室を開けると、一気に小麦の匂いが辺りを漂い、スーヴェリアが気付くに至った。その匂いが腐る神の出現を意味するもので、周囲にある全ての物が腐敗するという。
しかし、影響を受けた物が腐っていく時間は非常に遅く、腐る過程で俺たちに馴染み深い物を作り出してくれる。
酒やパンだ。
部屋の一部分には、どこからか流れ込んで来た水らしき液体が溜まっていた。
その匂いは飲む物を酔わせる酒の匂いに間違いなかった。床に溜まったそれを飲む勇気はなかったが、生活に身近な匂いをこのような所で感じられたこと自体はどこか嬉しかった。
しかし、腐る神に出会って嬉しいと思えた瞬間は、その部屋を開けた瞬間ではない。
更に廊下を進んで行くと地下へ続く階段があった。
地下なら風化していない物があるのではないかという想像のもとに、俺たちは下へ進んで行った。
思った以上に階段は深かったが、やがてランタンの光とは別の光が階段下から差し込んで来て、その下の様子を見た時は驚いた。
地下に巨大なドームがあって、そこには植物が生い茂っていたのだ。
光源らしきものが見当たらないのに、十分な明るさが保たれている。ここではランタンの光は必要ないだろう。
全員が階段を降り切って、不思議な植物の庭に降り立つ。
ドームの中央部分には大きな木が生えていて、その木を囲むように様々な彩りある植物が、他の植物に負けないように背を伸ばしていた。
天井や壁から染み出した水が足元を流れていて、植物が育つ一応の環境は整っていた。
だが、普通は育たないだろう。それでも育つのは、この国では神のおかげだ。
「生み増やす神だ……」
「豊穣の神だ……」
渇く神が怒りを買った相手がここにいるのか。
オアシスを守り、生を司る神。
この砂漠の地で生き抜く者たちに、最も心から信仰を受けている神。
光に関しては極光する神の力なのだろうか。こうも不思議な空間が広がっていると、あれもこれも神のおかげだからと推察して勝手に納得してしまう。
腐る神との出会いを喜ばしいと思ったのは、丁度この瞬間だった。
「麦だ! 麦があるぞ!」
「パンが作れますね」
皆、生き生きとし始めた。勿論、俺も内心ではやったと思っている。
本来なら確かな味にするためにもっと他に材料が必要だが、最低限の食料を作ることができるなら、麦と水があるだけで十分だ。
「五月蝿いクズどもだな」
ドームに響いた声は、声の元がどこから来ているのかを判別し辛くさせたが、次の声で居場所が分かった。
「元黄衣の魔女はどうした。魔女の騎士」
大きな木の陰から、この砂漠の砂の色と全く同じのマントを羽織ったエルフが現れた。
20代後半くらいの若さがある大人のエルフ。
エルフにしては珍しく髪色はチョコのような茶色で、以前見た時と同じように髪の後ろを三つ編みで束ねている。
死の属性を持った魔法が得意な魔女であり、時間を操る。
自身に『魔女の呪い』をかけており、対象を問わず奴の近くにあるあらゆる物は時を早めてしまう。
人が奴と寝食を共にした場合、異常な速さで老化するし、奴が歩くと足元にたくさんの草花が咲き、触れたあらゆる物は、すぐに砂のように崩れてしまう。
奴の足元にあった植物は急激に枝葉を伸ばし、花を咲き乱れさせるが、間もなく花や葉がぽろぽろと落ちて、色味を失った。
すぐ横に生えている大きな木も、元気がなくなったかのように萎れ始めていた。
それが砂衣の魔女、オッカー・アウローラの力だ。




