認識すべき魔女
獣は苦しみ、のたうち回り始めた。
獣にできた傷はみるみる内に盛り上がっていき、なくなったはずの顔面や目玉が時を巻き戻したかのように復元されていく。
本来なら傷が治って苦痛から逃れられるはずなのに、余計に苦しんでいる。
残っている牙で治癒を振り払い、俺から遠ざかろうとする獣の姿を見て、その特性を理解した。
この地獄の王は、傷を負わせた者に対して受けた傷をそっくりそのまま返す力を持っている。
では傷を癒やした場合も同様なのかと考えたが、恐らく違う。
罪を犯した者に自らの過ちを自覚させるために存在する力にとって、命を繋ぎ止めようとする治癒という行為は、その力を真っ向から否定することに等しい。
地獄の王の存在意義を失わせる程に強力な善性は、ある意味で受けてはならない毒なのだと思う。
拷問目的の治癒は果たしてどう考えられるのか気になったが、今までに取り込んできた知識から考えると、関係はないのだろう。
地獄の存在意義からして罪に値する行為は、その者の意識や認識を加味しない。
脅されて殺した者も、興味と至福をもって殺した者も、等しく罪であるというのが地獄の考え方だ。
だから、暴力や殺生とは真逆の治癒は、どのような意図が介在していたとしても善と認識されるのだと思う。
治癒は、獣の地獄の王の存在を根幹から否定する行為だ。
「本来なら、この世界の誰もアンタを倒すことなどできないのだろう。好き好んで敵の傷を治す奴なんていないからな」
「そして、その見た目にも意味はあったのだな。どの種族にも一致しない異様な特徴は、全てから拒絶されることを前提にできる。誰もアンタを益をもたらす者とは見做さないで、最初から敵意をぶつけようとする」
「アンタはぶつけられた悪意を罪として相手に認識させることができる」
獣は肯定も否定もしなかった。
自らの弱点を晒すことなどできない彼にとって、無言は答えたも同然の行為だった。
俺は獣に近付き、傷を癒やし続けた。
獣の牙で吹き飛ばされようと、足で踏みつけられようと傷を癒やし続けた。
そもそも奴の攻撃は何1つとして俺に傷を与えなかった。当然だ。かすり傷1つでも与えてしまえば、地獄の王は罪を犯してしまうからだ。
相手を害する行為を与えた者を罰しようとする王は、それ以外の行為にはあっけない程無力であった。
そして、地獄の王は息絶えた。
傷1つなくなった五体満足の獣は、その場に崩れ落ち穏やかに眠るように動きを止める。
魂を複数持つ地獄の王にとって、今のこの状態が完全な死を意味するかは分からないが、少なくとも目の前の獣に関しては死んだと認識してよいだろう。
リリベルの脅威が1つ去ったことを認識して、彼女のもとへ戻ろうとしたが、振り返ると同時に目の前に認識できない存在が立ちはだかっていた。
無衣の魔女だった。
「ありがとう。■■■■のために戦ってくれて」
「お前のために戦った訳じゃない」
「ここにある魔力は全て■■■■の物になったわ」
「最初からそのつもりだったのだな……」
明らかな敵対宣言を告げられている。
口振りからして無衣の魔女が魔力を求めていることは分かっていた。
この世界に顕現した地獄という膨大な魔力を欲しているということは、リリベルも狙われる対象に成り得る。
俺に攻撃を行わず、地獄の王との戦いを黙って見守っていたのは、俺たちが戦って疲弊した所を確実に仕留めるためだったのだ。
迂闊ではあったが、どうしようもなかった。
倒さなければならない状況だった。
「元黄衣の魔女は、急激な魔力の消耗で疲れているし、他の魔女は有象無象。残すは精神を摩耗してはいるけれど、地獄を管理する化け物を倒せる力を持つ男が1人」
「貴方を殺すことができなくても、貴方が何も知らない、誰からも知られない存在になれば、それは倒したも同然よね」
黒鎧と黒剣を具現化して、とりあえずの戦闘態勢の形はとってみたが果たして意味はあるのだろうか。
認識を歪ませる無衣の魔女の魔法は、想像力で戦う俺には最高に相性が悪い。
それに、泣き言を言わせてもらうなら今すぐ眠りたかった。
ジュジジによって受けた心の傷は、その攻撃が止まった今でも身体に異変を起こしている。
身体の震えが止まらず、常に周囲の状況が怖く感じて仕方がない。
その異変から逃れるために、本能が摩耗した精神を休めるように言っているのだ。
その本能による叫びを無視して、ここまで何とか発狂せずに行動できたのはリリベルがいるからだ。
指の1本でも触れられれば心が死ぬような危険な状況であることは、未だに変わりはないのだ。
己の身体に鞭を打って戦えば、仮に無衣の魔女を倒すことができたとしても、常人でいられるかは分からない。
「俺も他の魔女たちも、お前のことを無衣の魔女という名をつけて認識できている。認識できているということは、認識の領域に例外があるということだろう。そこにお前を倒す情報が隠されているのかもしれないな」
「■■■■は無衣の魔女ではないわ。だって■■■■ではなくても無衣の魔女になることはできるもの」
根拠のない脅しをかけてみたが無意味であり、戦わざるを得ないことを知った。
「戦いましょう? 知り続けていたいのなら」
無衣の魔女の戦い方を認識することができるのか。
得体の知れない恐怖と戦うことの重圧を受け続けたら、どこで心は折れてしまうのか。
「森羅万象の認識を汚して、誰も何も知らない世界になれば、きっと■■■■を見て聞いて知ってくれるわ」
リリベルという大切な魔女の認識だけが、辛うじて地面の上を立たせていることに繋がっている。
心も身体も生きていないと。
リリベルのために。唯一、彼女のために。
「貴方の知っていることを全て教えて? そして、その全てを認識しないで、■■■■のことだけを知っていて?」




