止めるべき涙9
ジュジジは絶叫を止めていた。
白い布で覆われた頭は、俺ではなくリリベルに向けられていた。
「エリスロースに頼んで、以前みたいにヒューゴ君の血を経由して記憶を覗かせてもらったよ。おかげで私は、君の痛みを知ることができた」
「……それはすごく痛くて悲しいことだよ」
「そうだね、すごく痛いよ。ヒューゴ君の苦痛を知った私は、ヒューゴ君と同じ苦痛を受けているからね」
リリベルの頬に伝って溜まっていた涙が、止めどなく地面にこぼれ落ちていく。
「愚か者たちには当然の末路であろう」
「そうだね。おかげで私は、ヒューゴ君と私自身の2つの痛みを受ける羽目になっているからね」
獣がゆっくりとリリベルに歩を進めていた。
頭を下げて牙を地面になぞらせて力を溜めている。
「質問しても良いかい? ジュジジ、君が私の騎士に与えた痛みはそれが全力なのかな?」
「彼は僕の1番悲しいを共感してくれた。一緒に叫んでくれた。それはとても辛くて痛くて悔しくて悲しい」
「そっ」
小さな小さな黒い点がリリベルの掌から現れた。
ジュジジがまた叫び始めた。
「五月蝿いよ」
リリベルの声が少し低くなった。
「私の今の悲しみに比べたら、君の悲しみは遠く及ばないよ」
「私の騎士が感じた苦しみと、彼の苦しみを知った私自身の悲しさがここにあるからね」
リリベルがもう片方の手を胸に当てた。
「君は、私が彼の痛みを知ったと言った時、返事が遅れたよね」
リリベルが口だけで笑みを作った。
「知らないのでしょう? ここで感じている2人分の痛みがどのようなものなのか、想像できていないのでしょう?」
「無意味な問答だ。言葉を吐き垂らすだけで、我々を害する手段は何1つ見出せていない」
獣とリリベルが間近まで迫っている。
「おい、下がれって言っているのに! 腹が立つなあ!」
リリフラメルが歯を剥き出しにしながら、懸命にリリベルを後ろに引きずっている。
「今、私はすごく苦しくて心が痛くて、胸が張り裂けそうなんだ。いや、張り裂けているね、これは。きっと、そうだよ」
「だから、君に八つ当たりをするね」
ジュジジに向かっていた突き出していたリリベルの掌が、獣に向けられた。
「愚かな。無意味だと知っているだろ――」
「君だけを殺すつもりで攻撃するからね。私の魔法が効かないことも癪だし、近くに私の騎士もいることだし」
「けれど、そこで泣いている王様は今は殺すつもりはないからね」
獣の目が大きく見開いた。
ジュジジが泣くことを止めた。
『雷歌』
綺麗な黒点が巨大な円となった。
透き通るような歌声が一瞬だけ聞こえて、何も聞こえなくなった。
赤い地面も血も白い布も全部黒くなった。
腹にあった雷の剣は消えていた。
先ほどまでの心の痛みが嘘のようにピタリと止み、身体の自由が効くようになった。
身体が黒点に引き込まれるのを感じながらも、それに逆らいリリベルとリリフラメルを行き越して、全力で地面を蹴る。
途中、身体が浮き上がって黒い円に引っ張られてしまいそうになるが、指を無理矢理地面に突き立てて、また地面を蹴り構わずに先へ進む。
そうして辿り着いた先にいた獣を掴んで、力の限りに投げ飛ばした。
本来の俺の筋肉で持ち上げることができないものを持ち上げたことにより、投げ飛ばした後に両腕が使い物にならなくなる。
間髪入れずに頭上に具現化した物体に自ら押し潰されて、即死に至って身体をやり直す。
それと同時に、無音だった世界に音が戻った。
後ろを振り返ると禍々しい黒い円は、消失していた。リリベルの魔法が終わったことを示していた。
鬱陶しい涙も、気付けば止まっていた。
リリベルは身体をぐらつかせてリリフラメルに介抱されている。
彼女の身体はまだ傷付いていない。
しかし、目の前の地獄の王は、傷付いている。
顔半分が綺麗に抉り取られていて、口中にあった目玉も削り取られて中身を溢していた。
もし、リリベルから聞いた話通りのことが起きれば、リリベルに致命傷が与えられてしまうことになる。
リリベルがどうなるかは言わずもがなだ。
死んでも彼女を傷付けさせてはならない。
獣を息絶えさせてはならない。
だから俺は、瀕死の獣を癒やさなければならない。
しかし、俺が知っている治癒魔法はあくまで傷を封じる魔法であり、失ったものを取り戻す魔法ではない。
だから、俺にできないことは想像して補完をしようと思った。
魔力石を1つ具現化する。
その魔力石には1つの魔法陣とリリベルの魔力が込められている。
魔法陣は完全に俺の妄想によって作られたものだ。魔法陣を作るにあたっての原理や作法などを全て無視して作り上げた魔法陣は、現実には正しく発動しないだろう。
だが、これはあくまで俺の想像上の創造物なのだ。魔力石の体裁を無視しながらも、その中に含まれた魔法そのものの原理を無視して、効力を発揮するのだ。
これは、失ったものを含めて治すことができる魔法を込めた魔力石だ。
現実に存在する魔力石の概念とは異なる、どこか別の世界に存在する魔力石。
その想像の産物を使って、獣を癒やした。




