正すべき襟3
可哀想な人間。
そのまま血を失っていけば、彼は意識を失って死に至るだろう。
まあ彼は多くの経験を経て本を出す程になった騎士だから、足が取れても一先ずの処置は勝手にするだろう。
さっきも言ったけれど、命を賭けてまで彼を助けてあげる義理はない。
もしもの時はごめんと謝ろう。
「呪われし女よ。地獄の安寧を乱す者よ。何をしに来た」
うわ、獣が喋った。
「地獄の王に売られた喧嘩を買いに来たのだよ。この涙を見たら心当たりがあるでしょう?」
自分から地獄の安寧とか言っちゃう奴なんだから、知らない別の地獄の王かその関係者なのだと思って、その体で話した。
「他の王との事情など知らぬ。帰れ」
すごく落ち着いていてゆっくりとした喋り方は、まるで孫に昔話を話すお爺ちゃんのようだった。私にお爺ちゃんなんていないけれどね。
そして「他の王は」って言ったということは、獣も地獄の王だということなのだろうね。
話が分かりやすくて良いね!
「ジュジジという王に会わせて欲しいな。用が済んだらすぐに帰るし、他に何もするつもりはないから」
「帰れと言っているのだ」
頑固なところは良くないね!
折衷案ぐらい設けて欲しいものだ。
とは言え、魔法が効かないのではどうしょうもない。尖っていた頃の私だったら、構わずに魔法を放って奥へ進むのだけれど、ヒューゴ君のためにもここは自重するしかない。
「分かったよ、帰るよ。ただ、そこの人間を助けてあげるための前進ぐらいは許して欲しいかな」
「……」
「君も地獄の王なのでしょう? それぐらいの度量はあると思っていたのだけれど、もしかして買いかぶりだったかな?」
「癇に障る女よ。良かろう」
獣はゆっくりと転回して、お尻を私に見せながらトコトコと元来た道を帰って行った。
念のため獣の姿が見えなくなるまで待って、それからクレオツァラを助けに行った。
幸いにも取れた足はしっかり残っていたので、彼の身体が欠けることはなく、無事に元の身体に戻すことはできた。
「不覚であった。まさか与えた攻撃をそっくりそのまま返されるとは……」
治癒魔法で傷口を塞いだ後、クレオツァラはそう嘆いていた。
獣の攻撃を予見できなかったことや、自分自身が放った攻撃を躱すことができなかったことに余程の衝撃を受けたみたいだね。
うんうん、少しだけ気持ちは分かるよ。
「アレがノイ・ツ・タットに巣食っていた者と同じだというのか」
「そうだよ、アレも地獄の王。名前は聞いていないから分からないけれど」
「黄衣の魔女殿の目的の達成を阻害できる者がいるのか」
その言い方は少しだけカチンとくるよ。
良かったね、今の私が気の長い魔女で。そうでなかったら、今頃君は出血多量で瓦礫の一部になるところだったのだからね。
クレオツァラの身体を元に戻したはしたけれど、失われた血までは元に戻すことはしていない。
だから、今の彼はふらふらとおぼつかない足取りで何とか進んでいる。
エリスロースがいたら彼の失血に関する問題は即座に解決できたのかもしれないけれど、生憎彼女は私の夫と行動を共にしている。
彼には我慢してもらうしかないね。
「それで、魔女殿。本当にこのまま何もせず戻るつもりですかな」
「まさか、毛頭ないさ。でも、君が死にかけだから迷っているかな」
「私のことは気にかけなくとも仔細ありません」
全く。
この人間も自分の状況が分かっていないのだね。
確かに私はヒューゴ君以外の生物に大した興味を持っていない。持っていないけれど、だからといって1つしかないものを無駄に消費していく様を、黙って見届ける程心が狭い訳でもない。
だって、可哀想だし、意味がないじゃない?
彼がトモダチの妻である私の力になろうと、合理的でないことを敢えて取り組もうとするその力の使い方が理解できない。
せっかく助かった命をなぜドブに捨てるような真似をするのかな。
理解できない考え方を必死に理解しようとすることは、今はできない。
どこに敵が潜んでいるかも分からないこの状況のおかげだね。
だから、彼の意志を無視してこの場から少しでも早く遠ざけたかった。
多分、呼べば彼女が来てくれるだろうね。
「ラルルカ、彼は君の仇ではないから安心して」
「だったら最初から連れてこなければ良いのよ!」
ほら来た。
私とヒューゴ君が酷い目に遭うことを期待して、静かに影から見守り続けていたことは分かり切っていたさ。
そして、彼女はクレオツァラを助けてくれることも分かり切っていた。
彼女が影から見守るという行為を続けているせいで、彼女は人助けを拒むことはできない。
もし助けられる命を救う機会を無視すれば、悪道に堕ちるからだね。
それは私とヒューゴ君と同じ階層に堕ちることを意味していて、彼女はそれを最も忌避したがっている。
私たちを悪だと信じ続けるためには、彼女は私たちよりも善であることを証明し続けなければないのだもの。そうでもしないと彼女の復讐心は行き場を失ってしまう。
ラルルカの舌打ちと一緒に、瓦礫の中から影が伸びてクレオツァラの影に纏わりつく。
そしてその影から手が伸びると、彼の身体をあっという間に影のしまおうとした。
「魔女殿! 私はまだ戦える」
彼の意味のない説得は早々に無視されて、すぐに彼は影の中に埋もれていってしまった。




