第2章 第5節
鏡の中には巨大な演劇場があり、粒のように席が並んでいる。
演劇は既に終わった後らしく、席から立ち上がった客たちが演劇に対する思い思いの感想を身近な者に伝えながら、出口へ向かって歩いて行く。
その流れの中にリリベルとダリアがいた。
リリベルは、師匠であるダリアに連れられていた。
ダリアの片腕にひしと掴まって、人混みから離れないようにするリリベルがあまりにも可愛らしかった。
『リリベル、今日の劇はどうだったかい?』
『全然分からない。何で侯爵は毒の杯を飲んだの?』
『そこからかい……。彼は、町の娘を愛していた。愛していたがあまりにも異なる身分差故に、この先永遠に結ばれることはないと悟った。だからそれが苦しくて死を選んだ』
2人で同じ劇を見ていたはずであろうに、リリベルとダリアではまるで異なる演目を見てきたかのように反応が分かれていた。
今のリリベルと違って、彼女の顔は邪悪さの欠片もなく、もっと純粋そうに見えた。
『良くわからない。愛している人間と結ばれなかったことが悲劇なの?』
『そうだなあ。例えばリリベル、明日君が私の元から離れなければならない状況になったらどう思う?』
『いーやっ!』
『心はどう感じた?』
『うーん、怖い?』
『それに似ている。侯爵は町の娘とずっと離れ離れになることが怖かった。そして怖さのあまり死を選んだのだよ。その怖さによる死という結果が、悲しみとなって悲劇を表す』
『でも私だったら絶対にダリアのもとに戻ろうって頑張るよ? 離れたくないなら、侯爵は身分なんか気にせず町の娘の所へ行けば良いのに』
『……中々難しいな』
『?』
彼女はきょとんとしていた。
あまりにも他者の気持ちを汲み取る能力が欠落している。彼女があらゆることに無知である子どもだということに前提を置いたとしても、察しが悪かった。
当たり前だが、彼女にも知識がなかった時というものが存在するのだなと思った。
「更にクソガキ」
リリベルの純粋無垢さにカルメが悪態をつく。
この場面で、カルメがどのように関わっているのか未だに想像がつかない。
そう思っていたら、リリベルが誰かとぶつかり床に転んでしまった。
『すまない。怪我はないか?』
周囲の明かりになるものは僅かなため薄暗く見えるが、ぶつかった女の所々に見える灰色と声がカルメであることを表していた。
『……平気』
カルメが差し出した手を取らずに、早々に立ち上がってダリアに抱き着いた。
リリベルは相変わらず黄色のマントを羽織っているため、非常に目立つが、カルメとダリアはそう目立つ出で立ちではなかった。
だから他の客は彼女たちを魔女と認識することはあまりないようだった。
人混みの中の他愛もない不慮の出来事。誰も気にかけはしなかった。
ダリアはカルメにリリベルとぶつかったことを謝り、その場は何ともなく収まった。
ダリアとリリベルの2人が、カルメを越してから中断した会話を続け始めた。
『この劇の物語を作った人は、大したことがないと思う』
『リリベル、理解できなかったことを大したことはないと一括りにせることは、愚者のすることだ。注意しなさい』
『はあい』
未だに納得のいかないリリベルは唇を尖らせて、不服の顔を見せながらもダリアに肯定した。
カルメとリリベルの初めての邂逅がこの場面であったことは分かった。
そして、現実のカルメと鏡の中の過去のカルメの表情が一致していたことから、奴がリリベルのことをクソガキと評し恨み続ける理由がこれに起因していたことを知った。
たったそれだけのことだ。
俺には大したことがない出来事だと思えたが、カルメにとってはそれだけのことで済まされないことのだと想像はついた。
「まさか、この劇を作ったのが……」
「私だよね」
「それだけのことで……それだけのことで世界を巻き込んで復讐を……。馬鹿げている」
「これは毎日何度も上演され、世界で最も上演が行われた劇としても知られてきた演目だよ」
リリベルが観劇の内容を貶したことが、そのまま近くにいたカルメに届いてしまった。
劇に関する情熱を、子どもの頃のリリベルに否定されてしまったら、カルメの矜持はズタボロになってしまっただろう。
ただの子どものいち意見なのだから無視してしまえばいいのに、奴は無視ができなかった。
それが魔女であり、カルメ・イシュタインなのだ。
「クソガキは私の芸術を否定した。だから私の中で最も素晴らしい劇を創り、あのクソガキに私の才能を見せつけてやろうと思った」
本当に、たったそれだけの出来事で、カルメはリリベルに怒りを露わにしたのだと分かってしまった。
次回は11月5日更新予定です。




