こいしリリベルよ きよくよき よるべりりしいこ
◆◆◆
まさか鏡の中に手を伸ばしたらその向こう側に行けるだなんて思わないだろう。
しかも、俺と同じ声姿をした者と出会えるだなんて。どこかむず痒い気持ちになる。
だが、俺と同じ姿をしている癖に、リリベルに対する行動は俺が望むものでは無かった。
アレと相対したのはわずかな時間しか無いが、それまでにアレの口から吐かれた言葉を聞いただけでも分かる。
あの俺は、内に秘めた自我をそのまま表に出したような存在だ。
俺は人前で彼女に好意を表すのは好まない。それは単に恥ずかしいという話だ。
だが、アレは彼女に対する好意を晒け出すことを我慢しない。俺みたいに恥ずかしながら彼女への好意を伝えることはせず、素直に彼女を愛そうとする素振りを見せていた。
彼女に大声で助けを求めることも好みでは無い。
心の中にある主人を守る騎士像というものがあって、その理想になるべく寄せて彼女を守りたいのだ。
だから、あからさまに助けを求めることは、理想からかけ離れていく行為に他ならず、自己嫌悪を加速させることに繋がる。
だが、アレは痛い時は痛いと大きな声でリリベルに対して発信する。
痛くて辛いという感情を正直に彼女に打ち明けて、そして助けを求めるのだ。
一方では羨ましいが、一方では嫌だと思わせる。
表出したエゴを見ていると、恥ずかしさで顔が熱くなる。
アレは、俺が最も望む俺の姿で、俺が最もリリベルに見せたくない俺の姿なのだ。
まるでリリベルの前で俺の本心をひけらかしているみたいで、猛烈な嫌悪感を覚えて今すぐにでも俺を排除したいと思った。
だから痛がる俺に対して、蹴りを手加減をすることは無かった。
アレの正体が何なのかは分からないが、アレが俺の姿をしていたからこそ、死んでしまっても良いと思えてしまった。
一刻も早く、アレをリリベルの前から葬りたい。
そうして目の前の俺は、その姿を形作るものを失っていきながら鏡に吸い込まれて、最後には鏡の向こうでバラバラのガラス片の山となった。
だが、これがこの話の終わりでは無いことは知っている。
身体がその場で縫い付けられたみたいに固定されて何事かと思ったが、リリベルの姿を見て分かった。
彼女は俺と同じように身動きできずに固まっているのが見えた。黒い影が彼女の身体に巻き付いていて、彼女の動きを完全に止めている。
おそらく俺の身体も彼女と同じような状況なのだろう。
魔法によって押さえつけられた力は、身体を動かす力を遥か凌駕する。
筋力を強化する魔法でも詠唱してやれば抵抗できるかもしれない。
だが、彼女も俺も口を塞がれていて、それは不可能だ。
鎧の中に身を置いた俺はもとより、彼女の口元も影に包まれていた。
「本当に……ラッキー」
ひび割れていないもう1枚の大鏡の方にいた彼女は、壁際に手をつけながら、俺たちの視界に入るようにわざわざ移動して来た。
真っ黒な髪の隙間から見えた目は、俺たちに対する恨みを訴えている。
ラルルカは、自身が怒っていることを知らしめるためだけに身体に鞭打ってやって来たのだ。
床に広がった赤黒い血溜まりからして、彼女が大量の血を失っていることは確かだった。落ちかけた目蓋は眠気を訴えているのでは無くて、意識を失いかけているのだろう。
最早死人に近い青白い顔色をしている。彼女の復讐心だけが、その身体を突き動かしているのだろう。
「鏡の中の世界で……永遠に……」
ラルルカはその命を賭してでも、この不思議な世界に俺たちを閉じ込めておきたいようだ。
だが、肝心の世界が彼女の願いを叶えてくれそうにない。
大鏡に入ってしまった亀裂は更に広がっていて、間も無く鏡としての機能を完全に失うかといったところだった。
だが、亀裂は更なる広がりを見せた。
その鏡よりも外側へひびが入ったのだ。
自分で具現化した偽物の目玉が不良品でなければ、アレは見間違いではない。
壁にも天井にも床にも亀裂が走り、足元でも嫌な軋み音を立て始めた。
当然、ラルルカもその異変に気付いた。
しかし、彼女は俺たちに纏わりつかせた影の力を緩めることはしなかった。
やがて天井や壁は、鏡が割れるような音を立てながら欠片を落下させ始めた。
欠け落ちた壁のその先に、向こう側の部屋の様子が望めるかと思ったが、予想とは異なっていた。
真っ黒な壁が見えていた。
灯りの無い暗闇の色では無く、全ての光を失ったような純粋な黒色だ。そこには何も無い。
部屋がというよりかは世界全体が崩壊している。
全て崩れ落ちてしまえば、そこには何も残らなくなってしまうのではないかと思わせるような闇が広がり始めたのだ。
同時に幾多もの悲鳴が聞こえ始める。
聞き間違いでなければ、聞き覚えの声もあった。
リリフラメルが怒りで慟哭した時に良く聞く声だ。
何がなんだか全く分からんというのが正直な話だ。
遂に足場が崩れ始めて、足が宙を浮き始める。
ラルルカが纏わりつかせている影が離れれば、すぐに俺は暗闇の中に落ちるだろう。
彼女はそれを楽しんでいる。絶対に喜んでいるはずだ。
今まさに自身の目的が達成されようとしているのだ。憎くて殺したくて堪らない奴が遂に自らの手によって葬ることができるのだ。
だが、ここで死ぬ訳にはいかない。
俺は騎士として彼女を守らなければならないのだ。彼女が魔女として、1人の女の子として不自由なく生きる道を失わせたくない。
リリベルだけでは無い。ラルルカもだ。
彼女がここで目的を達成すれば、生きる希望を失うには十分な理由となる。自らの死すらいとわないであろう彼女に、今の状況はまずいことこの上ない。
この状況で何を行えば正解なのか分からない。
分からないが、やるべきことは決まっている。というよりかは、これしかできることが無い。
言葉を吐き出せなくてもできる行動を彼女に披露する。
俺の力を知らない彼女は、すぐにパニックになった。
そして、崩れゆく世界の中で、影を失った俺とリリベルは暗闇に向かって落ちて行った。




