恋しリリベルよ、清く良き寄る辺、凛々しい子
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「この部屋から早く出て」
「にここぜなは女彼、後。かいなれくてっ言度1うも、いなます」
ああ。鏡の外と内側では、言葉の聞こえ方が違うのだね。
ヒューゴ君がここに来てしまったことは不運な話かもしれないけれど、彼が鎧を着込んでいてくれたのは幸運な話だった。
彼と彼は目が合わせられない。
私に執拗に口づけを迫っていた彼は、ちらちらと鏡の向こうにいる彼を見ているけれど、でもほとんどは私に釘づけ。
けれど、肝心の彼は私とラルルカとの視線に行ったり来たりで、2人が目を合わせることは無い。
彼は両方とも、自分自身に余り興味が無いみたい。それが幸運だと思った。
「リリベル!」
彼に身体を揺らされて、奥歯がかちかちと鳴らされる。
鏡の中のヒューゴ君は確かに私を見ているけれど、その瞳の奥の感情は、きっと私に対する思いでは無い。すぐにでも鏡の外の彼と入れ替わりたくてうずうずしているのだと思う。
きっと鏡の中に住まう者の心が紛れているはず。
でも彼の本心とは別に、彼が真似してしまったヒューゴ君の心が彼と目を合わせることを困難にさせている。
彼に焦りがあると気付いたその瞬間から、どうにも呆れて仕方が無かった。
だって姿形も性格も声も完璧に真似ていると思っていたのに、実際は酷く質の悪い贋作なのだもの。
ヒューゴ君を真似した彼だからこそ、私の表情から私が何を考えているかを読み取ることができたのかもしれない。
今、彼の心には2つの感情が絶えず交錯している。
私が彼のことを馬鹿にしていると勘付いた彼は、私と口づけしたいヒューゴ君の動作と私を殺したい彼の動作が交錯し始めた。
つまり、彼は私の首を絞めたり緩めたりしながら、私に口づけをしようとしたりしなかったりしているのだ。
壊れかけた玩具みたいに変な動作を始めた彼が余計滑稽に見える。
そんな私と彼との分かり辛い攻防を見たラルルカが、影を伸ばして彼の身体に巻き付く。
ひび割れるヒューゴ君に対して私が思いついた感情を、彼が察してまた新たな攻防が始まる。
業を煮やした彼が黒いもやを吹き出し始めた。その身に黒鎧を纏ったり、長い黒剣を作り出そうとしているみたい。
でも、彼はあくまでヒューゴ君の真似をしているだけで、私の魔力を使える訳では無い。
彼が生み出した鎧も剣も、酷く歪で醜くて、汚らしくて無様だった。例え私の魔力を使えなくたって、ヒューゴ君の想像力を借りれば、それなりの物を作ることができると思っていたけれど、彼にはその程度の想像力すら無いみたい。
本当に無様だね。
するとまた、彼の殺意が加速した。
ろくに具現化できていない、歪なままの黒い剣のような魔力が振り上げられてから、かくかくと微妙な勢いで私目掛けて振り下ろされる。
彼の攻撃が私の身体を傷付けることは無いという絶対の自信があったから、それを避ける気は無かった。
でも、その剣みたいな物が私に触れる前に、私の後ろから伸びてきた黒い剣が先にぶつかった。
剣みたいな物と黒い剣が綺麗に交差する。偽物と本物が交差する。
鏡の外にいたヒューゴ君が遂にこの世界に入ってきてしまった。
そう!
そうだよ!
これこそが私の騎士だよ!
私の騎士は、例え私が傷付かないと思っていても、私が攻撃されていると分かれば、私を守るために飛んで来るのだよ!
これこそがヒューゴ君なのだ!
「リリベルに触るな」
「違う。俺のリリベルだ」
わあ、何という状況だろう。前後をヒューゴ君で挟まれている。
しかも、2人のヒューゴ君が私を求めて争っている。とてもとてもとっても興味深い。
おっといけない。
喜んでいる場合では無いね。
でも、私の出る幕は既に無いみたい。
ヒューゴ君は彼をそのまま押し出して、鏡に叩きつけてしまった。
衝撃で大鏡にとても大きな亀裂が入ると、彼は更に焦りを見せ始めた。
「リリベル! 助けてくれ!」
「気安く彼女の名前を呼ぶな」
ヒューゴ君は怒声を上げて、剣を彼の中心に突き刺す。
大鏡の向こうまで貫通した剣は、大鏡の亀裂を更に広げた。
すると、彼は突然痛がり始めたのだ。必死に大鏡に両手を付けて踏ん張っているみたいで、一体何をしているのかと思って様子を見ていたら、徐々に鏡の向こうに身体が映り始めていることが分かった。
無限に広がっている鏡合わせの世界の中のただ1つだけに、彼の身体が吸い込まれている姿が映っている。
腰がくの字に曲がって、曲がった先がばりばりと音を立てて、聞いたことも無い絶叫を上げている。相当痛いみたい。
ほんの一瞬だけ、私も焦った。
もしかしたら彼が鏡の外に出てしまっているのではないかって思ったよ。本物のヒューゴ君との入れ替わりが完遂されると思ってしまったんだ。
でも、彼は鏡の向こう側に行くことを拒んでいる。
手足を踏ん張って嫌々と泣き叫ぶみたいに必死に抗っている。
だから、彼が吸い込まれていく先の世界は、彼が行きたい世界なのでは無いと察せられた。
「リリベル! 助け……てくれ!!」
「助けて欲しいのかい? それなら教えてくれないかい? 君が吸い込まれている先は一体どこなのかな?」
「分からない! だが、嫌な予感がする! それに何より痛い!! だから頼む!!」
ヒューゴ君が「嫌な予感がする」と言ったのなら、その予感は本当に当たる。正しく悪い予感なのだ。
だから鏡の向こうに吸い込まれていることは、ヒューゴ君を真似している彼にとって、本当に嫌なことなのだろうね。
正直、にやけが止まらない。
ヒューゴ君のことを1番知っている私にとって、これ程簡単な推察は無い。
彼にとって行きたくない場所へ行かされていると知ったなら、彼に少し意地悪したくなるのは当たり前のことだよね。
だって彼の顔はヒューゴ君そのものなのだもの。
「何だか寒気がするのだが」
本物のヒューゴ君が身震いして、私のことを一瞥した。
失礼だね。私は本物のヒューゴ君にはこんなに酷い意地悪はしないよ。
多分。
ヒューゴ君が身に纏っているしっかりした作りの鎧にノックをすると、彼は鏡に吸い込まれ掛けているもう1人の自分の腹に向かって思い切り蹴ってくれた。




