好きのキス
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不思議な光景だった。
大鏡には彼女が映っていた。目の前の鏡が後ろの鏡の風景を反射して、それがまた同じ風景を反射する。
鏡なのに鏡の奥の世界があるように、奥行きが生まれている。
そして、鏡の中に無限の彼女がいる。
だが鏡に映っている彼女は、この部屋の中にはいない。
まるで鏡の中に別の世界があって、その世界にだけ彼女が存在しているようだ。
鏡の中の彼女は俺と抱き合っていた。
まるで過去にあった出来事を見ているようだと思ったが、生憎その覚えは無い。
では鏡に映っている俺は一体誰なのか。
肝心の俺の姿が鏡には映ってなくて、代わりに彼女と抱き合っている俺がいるのだ。鏡の中の俺が俺だとはどうしても考え辛かった。
だが、それに対してリリベルは本物のリリベルなのだと思えた。
無意識に彼女を呼び掛けた時に、振り返った彼女が一瞬だけ顔を綻ばせたのを見てそう思った。
確たる証拠も自信も無い。ただの勘だ。
その彼女は俺に何かを訴えかけてきた。
「て出く早らか屋部のこ」
聞いたことのない言語が耳に入る。
ただでさえ回りくどい話し方をする彼女なのに、言葉そのものすら分かり辛くなると、いよいよ大変だ。
もう1度言ってくれと頼むが、不意に足元にいた別の女の子を見てそれどころでは無くなる。
血だらけで倒れているそれの名は覚えている。忘れもしない。
ラルルカ。かつて夜衣の魔女の下にいた奴の弟子の1人。
夜衣の魔女と同じく、影を操る魔法を得意とする魔女だ。
尊大で他者を見下すきらいがあり、頭がきんきんと鳴り響くぐらいの黄色い声を発する。
そして、今最も俺とリリベルのことを恨む者だ。
その彼女がなぜ鏡の中にいるのか。
「すまない、もう1度言ってくれないか。後、彼女はなぜここに?」
だが、俺の問いに対して彼女は首を傾げて何か困っているようだった。
まるで言葉が通じていないのかのような反応だ。
まるで鏡を隔た此方とあちらで壁があるようだ。
いや、実際に鏡という壁はあるのだが。
とにかく、意思の疎通ができそうにない以上、彼女たちを目の前に引き込むしか無い。つまり鏡より内側の此方側の世界だ。
しかし、どうやって鏡の中の風景の者を触れと言うのか。
まさか鏡に手を入れたら彼女に触ることができるわけでもない。
そう思って手を伸ばしてみたら、鏡はまるで水のように鎧を避けて俺の身体ごと向こう側へと誘った。




