地獄より、愛を込めて8
私が怒っているのはアアイアに対してなので、私の行動を止めた目の前の女に八つ当たりはできない。
それでも彼女がアアイアの味方であることは分かったから、油断はできない。
だってあんなムカつく奴に虐めないでと言うのだよ? 信じられないよ。
「怒りを鎮めてはいただけませんか? 貴方の願いは彼に代わり私が叶えます」
ただ1点を除いて宙を浮かぶ女の姿は、とても神秘的だった。
ゆったりした余裕ある話し方に異質な目、中性的な顔立ちで美女にも見えるけれど美男とも取れる。
この世ならざる者、しかも天国にいるような聖を感じさせるような姿だ。
問題の1点は、翼が黒いことだ。
どす黒い。禍々しさを感じるし、大きな翼をずっと見つめていたらなぜか嫌な気分になってしまう。
天国で飛び回っている天使のイメージは羽が白いけれど、こっちは真っ黒だ。天国にいそうな姿なのに、翼だけは天国にいていいような見た目では無い。
「私の願いは、私とこの騎士の2人が地獄から出ることだ。叶えられないなら――」
「叶えて差し上げましょう」
透き通る声は邪悪さの欠片も感じられない。
けれど、彼女からはどうしても嫌な感じがする。
力無く彷徨っていた魂たちがいつの間にか、階段を這い上がって手を必死に伸ばしている。
皆、彼女に向けられた手だ。
ヒューゴ君の方はなぜか震えていて、鎧の繋ぎ目を擦り合わせてきしきしと音を鳴らしている。
「彼は貴方を怖がっているようですよ。彼に虐待でも加えているのですか?」
彼女の言葉を聞いたら、爆発させた私の怒りが簡単に湿気り、彼の兜を剥ぎ取って表情を確認する。
私と目が合うとすぐに目を離してしまった。かなりショックだよ。
「ヤヴネレフ、その2人の魂は吾の物だ。邪魔しないで欲しいなあ」
アアイアの横槍が入ってくる。
横槍というのはものの例えでは無く、本当に槍が飛来してきた。
けれど目の前の女はその槍に見向きもせず、指一本すら触れずに、彼女に当たろうかという寸前で、槍を一瞬で塵にさせた。
「申し遅れました。私は地獄2層の王、ヤヴネレフと申します」
彼女はアアイアを眼中にも耳中にも入れずに、私たちに自己紹介した。
その行動だけでも、この女がアアイアよりも実力がありそうだと判断できる。怯えるヒューゴ君に兜を被せ直したのは、もちろん彼女への警戒からだ。
「名乗ってもらってすまないけれど、私は自分の名前が思い出せないんだよ」
「ええ、理解してい――」
「2人の魂を食わせてくれないかなあ!」
私たちの会話にまたもや横槍が入った。
武器の塊でできた蛇が、階段で手を伸ばしている魂たちを切り刻みながら私たちに向かって来た。
もちろん足でロッキングチェアの残骸を踏みつけて蛇の動きを止めようとした。
けれどその前に、蛇が横から何かに殴りつけられたような挙動をする。胴体は砕け散り、刃が爆発で撒き散らされた破片のように飛んでいく。
そして、胴体から離れた蛇の頭は逆方向から別の物に殴りつけられて、最後には私の視界から蛇がいなくなってしまう。
見回して攻撃元を確認すると、胴体を砕け散らせたのは、金髪の半獣人を抱きかかえた男で、蛇の頭を殴りつけたのは泥の巨人を操る子どもみたいだった。
2人からの視線に私は笑顔で返してあげる。
「アアイア。これだけの魂を解放させて何の手も打たなかったこと、それどころか勝手に魂を清算させたことはヘクタに報告させていただきます」
「な、何の権限でお前が私のことを報告できるのか!」
ヤヴネレフの口から新たに出てきた名前を聞いたアアイアは、突然怯え出した。彼にとってヘクタという者は苦手な相手みたいだね。
壁を敷き詰めていた武器たちが一斉に床にばら撒かれ始めて酷い音を立てる。今のところ床に落ちた武器が再び動く様子は無い。
「私はヘクタから貴方たちを管理するよう命を受けています。そのようなことすらお忘れですか? ゼデ、貴方もです」
「……つまらん」
階段の途中から黒いローブを着込んだ酷く顔色の悪い老人が、いきなり現れた。
私と目が合うなり、ものすごくつまらないものを見るような表情で睨みつけられる。失礼な爺だよ。
「管理外の地獄から勝手に魂を2つ連れて来ましたね。こちらもヘクタに報告させていただきますので、そのつもりでお願いします」
ヤヴネレフの忠告を全く耳に入れている様子も無く、ゼデは私にただ一言「約束は果たせ」と言い放ち、その場から溶けるように消えてしまった。
一瞬で彼は地面に溺れるように潜り込んで姿を消してしまった。
彼の物言いにまた私の魂に火が付きそうだったけれど、我慢する。
だって彼はアアイアの三日月型の刃にやられた振りをして、私たちがアアイアに消されるのを待っていたのだよ。
なのにそれでも彼の魂を見つける約束を守らせようとするなんて、狂人にも程があるよ。
「見苦しいところを見せてしまいました。アアイアを殺さずにいただけたこと、感謝します。魂の清算を行うための聖具を作ることができる者はアアイアだけなので、彼がいなくなっては困るのです」
「貴方たちの失った魂は元に戻して、現世に返して差し上げましょう」
周囲の武器から視線を外せないまま、ヤヴネレフの声を聞き入れる。
「それはありがとう。後、もう1つだけお願いしても良いかな」
「何でしょうか」
「魂の清算をするのは良いのだけれど、少しは娯楽を設けて欲しいよ。ここの魂たちは、あの刃物が痛くて嫌でちっとも清算が進んでいないよ」
「ほう、例えばどのような娯楽が必要だと言うのでしょう」
人差し指で半獣人を抱える男を指差す。
「そうだね。あそこにいる男と女は仲が良いみたいなんだ。同室にしてあげてよ。それと……」
今度は泥の巨人を操る子どもを指差す。
「あの子どもは何か遊べる玩具でも与えてあげてよ」
「分かりました。貴方の2つの願い、ヤヴネレフが聞き入れましょう」
「口だけではないよね? 本当にやってくれるの?」
「貴方の願いを契約として結びましょう。私の魂の1つを貴方に差し上げます。私が契約を反故にすれば魂は消滅しますが、そうでなければ契約は履行されているという証になるでしょう。現世でも貴方が確認できる方法です」
そう言うと、ヤヴネレフが勝手に私の中に魂を潜り込ませてきた。
身体の動作無しに、急に異物感が放り込まれて驚いたよ。
それに、私は「うん」と言っていないのに勝手に契約を結んだことにされてしまった。
「黄衣の魔女殿! 貴方のおかげで私は再び妻に会うことができた。感謝する!」
「師匠! また遊ぼうかな!」
ヤヴネレフを求める魂たちの呻き声に混じって、2人の声が私を指して呼びかけてきた。
私は2人に手を振って返事を返す。
結局、君たちのことは良く思い出せなかったけれど、これが地獄への花向けにでもなっていればいいかな。
「覚悟してください」
私の視界が黒ずんでいく中で、ヤヴネレフの声だけが聞こえるようになる。
「貴方たちは、貴方たちが魔力と呼び誤っている、神の所有物に勝手に手をつけ汚した。更にこの場では、無垢なる魂たちを身勝手に奪い使い、次の生に向かう道のりを絶やした。故に、再び地獄へ来た時は覚悟してください」
「地獄より、貴方たちに峻烈な苦しみが与えられんことを」
ヤヴネレフが私たちに残っている罪を、死ぬ前にあらかじめ伝えてくれた。ありがたいことだよ。
そんな彼女にお礼として、嫌味を言わせてもらおうかな。
「ありがとう。しばらくは死なないと思うから、気長に待っていてね」
そして、視界は一切の暗闇に包まれてしまう。




