発端2
紫衣の魔女リラが殺して欲しいと言う魔女の名は燐衣の魔女。
燐衣の魔女は、リリベルたちが所属している魔女協会には入っておらず、所謂野良の魔法使いである。
『燐衣』という魔女を識別するための冠は、魔女協会が識別しやすいように名前を付けただけで、本人に対して「燐衣の魔女」と呼んでも当人は困惑するだろう。
もっとも、リラによると燐衣の魔女は初めから正気では無いため、会話するだけ無駄だと言う。
その燐衣の魔女の一体何が問題なのかと言うと、彼女は怒りに身を任せて無差別に生物を殺しているのだ。
殺した者の中には魔女協会に所属する魔女も含まれている。既に32人もの魔女や魔女見習いが彼女に殺害されているようだ。
魔女協会は元々、世界に災厄を振り撒く黒衣の魔女に対抗するべく作られた集まりだ。その協会の人員が失われていくのを、紫衣の魔女は黙って見ていられる訳が無い。人員の脱落は、そのまま協会の戦力の弱体化に繋がる。
「その燐衣の魔女は、何でここ最近になって暴れ回り始めているの……?」
両目を糸で縫い付けて目蓋を閉じている碧衣の魔女セシルが、リラに燐衣の魔女の情報を求め始めた。こんなことは慣れっこなのか、先程まで吐いていた文句を止めて、感情をすぐに切り替えていた。
対してリラは、椅子に深く座ったまま、老人特有の口をもごもご動かす仕草を見せていた。
寝ていないよな?
「エミリーよ、説明してやってくれ」
リラの一声で、エミリーがマントの内側から大きめの羊皮紙を1枚取り出してから、自分の手に当たる部分の枝を1本、何の気なしに折った。
折れた枝の傷口から赤い液体が滴り始めて、それをインク代わりに羊皮紙に塗りたくり始めた。
普段見る木は、風や雨等以外では全く動かないという認識があるせいで、目の前の忙しなく動く木を見ているとやっぱり不気味さを感じる。
エミリーは羊皮紙に書き終わると、紙を手に取って皆に見えるように両枝を上に掲げた。
《国同士の争いで家族が死んでから、争いを起こす奴が憎くて魔女になったみたい》
「え、それだけかい?」
エミリーが頭を一度だけ前後して枝葉をゆすった。多分、肯定している。エミリーのその動きを見て、リリベルは椅子からずるりと溶けたみたいに前に落ちていく。
「全く、たかが家族が死んだくらいで、そんなに怒ることもないのに」
「この中で1番そういうことになったら泣いて怒りそうなのは、君だと思うけれど……」
「何か言ったかい?」
「いえ、何も……」
俺もセシルに賛成する。リリベルが1番怒りそうだと思う。口には出していないはずなのに、なぜかリリベルがすごい剣幕で振り返ってきたので、両手を上げて「俺はそんなこと思っていない」と言った。
「嘘」
最近の彼女は、人の心を読み取る本を読んでいるらしく、時折、話してもいないのに表情だけで俺の心の内を的確に探ってくるのだ。魔法みたいだ。
仕方なく降参すると、彼女は頬を少し膨らませてから再び前へ座り直した。
「それで、何で私とリリベルだけで行かなきゃならないの……?」
セシルはエミリーとアメルダを交互に見て、なぜ2人は手伝ってくれないのかという意を込めてリラを睨む。
リラは一切表情を変えない。老いからくる自然な目蓋の垂れ下がりのせいで、感情の起伏が感じ取り辛い。
「2人が、戦闘に、向かないのは、分かるだろう」
セシルは溜息をついてから再び机に突っ伏してしまった。完全に諦めているようだ。
彼女は目が見えるようになりたくて、自分自身に『魔女の呪い』をかけた。その結果、目は見えるようになったが、代わりに瞬きする毎に近しい人物が死ぬことになる代償を得てしまった。
彼女が目蓋を縫い付けて瞬きできないようにしているのは、きっと彼女は無闇に誰かの命を落とすことを拒んでいるからだろう。無益な殺生を好まない彼女からしてみれば、全く接点の無い燐衣の魔女を殺害することに乗り気でないのは、簡単に推測できる。
「君はどう思うかね、ヒューゴ君?」
黄衣の魔女様が先程までの膨れっ面を止めて、俺に率直な意見を求めてきた。
燐衣の魔女がこれまでに、どれだけの苦痛を味わったのかは、その場に居合わせた訳ではないので分からない。
それでも、彼女の怒りのせいで、理由も分からないまま死んでいく誰かを想うと、やるせなさで一杯になる。
「リリベルの身の安全第一で、救えるなら燐衣の魔女を救いたいと思ったぐらいだ。あくまでそう思っただけだ」
「わお、あれも救ってこれも救ってということかい? 私の騎士は強欲だねえ」
彼女が何度も言ってきた俺の「気持ち悪い程の優しさ」を感じ取ったことで、黄衣の魔女の興味という琴線に触れてしまい、先程と打って変わって上機嫌になり始めた。
「やるよ、リラお婆さん。燐衣の魔女の暴走が止まれば、別に殺さなくても良いのだね?」
リリベルの切り替えの早さに、リラは若干口籠もっていたように見える。それは驚きの感情なのだろうか?
「構わないが、再び暴走したら、どうするつもりだ?」
「それは私の騎士が何とかするよ」
リラは「なるほど」と納得してしまったが、俺は全く納得できなかった。
俺は全ての願いを叶える神様でも無いし、何でもこなす超人でも無いのだ。
他の魔女がいる面々で声を上げて文句を言う訳にもいかないので、彼女の背中に向けて、俺は抵抗の視線を刺し続けるが、結局効かなかった。おそらくわざとであると思うが、こういう時に限って、彼女は察しが悪くなる。
◆◆◆
ノイ・ツ・タットの港から大通りの坂を少し上った所にある酒場に、俺とリリベルは今いる。
外では生捕りにされた侵略者が鋸引きの刑に処されていて、処刑の経緯を見届けるために、俺たち以外の客はほとんど出払っているので静かだ。
悲鳴と歓声が微かに俺たちがいるテーブルにも聞こえてくる。今のリリベルに酒場の外の話は、非常に教育に悪いので見聞きさせる訳にはいかないと、こうして屋内に移動したのだ。
彼女は手をマントで覆いながらホットミルクを持って、息を吹きかけながら非常に慎重に飲んでいる。
正直、この様子を見ているだけで俺の心は癒やされる。外と内では、地獄と天国程の差がある。
天国は言い過ぎたかもしれない。
「お兄様。私、お腹が減りました」
「あ、ああ。何でも食べたい物を食べていいぞ。何が食べたい?」
彼女の食べたい料理の要望を聞こうとしたら、突然隣から何かを吹きかけられた。すぐに、酒の匂いが立ち込め始めたので、酒をかけられたことに気付き、すぐに横を見やると碧衣の魔女セシルがいた。セシルは口や鼻から酒を溢して、苦しそうに咳き込みながら悶えていた。
「き、きみは主人に『お兄様』と呼ばせているの……!? 他人の趣味に突っ込むのは野暮だけれど……一応その魔女、私の友達なんだよね……」
セシルの口調は冷たく、どこか俺を軽蔑しているように感じ取れた。
しかし、全くもって誤解である。
実はこの酒場に入った理由は、リリベルに野蛮な外の景色を見せないための他に、碧衣の魔女とここで落ち合う約束をしていたという理由もある。
ノイ・ツ・タットに入国するには非常に厳しい審査を受けなければならない。
まず、入国の承認をするのはモドレオ公王だ。彼がこの国に入ろうとする全ての者を見極める。
王様が判断すると聞いた時は正直不安を覚えた。あってはならないと思うが、俺が考える王様のイメージとして、王様は気まぐれでその日その日で裁量を変えて物事を決める気がするのだ。
次に、入国には証人が必要となる。具体的にはノイ・ツ・タット国民の誰か1人の招待が必要なのである。
口頭で門番に伝えれば良いという訳ではなく、入国者の名前と国民の直筆の署名が記入された紙が前もって門番に提出されていなければならない。
ただの旅人がふらっとこの国にやって来て、滞在するということはできない。
しかも、元々ノイ・ツ・タットの国民であるとしても、1度国を出てから再び戻るためには、同じ手順を踏まなければならない。
だから再入国を容易にするために、この国の民はお互いの繋がりを強くしている。入国時から民同士の会話が盛んに行われているのは、そのためだと思う。誰とも会話していない人があまり見受けられなかった。
義務感から生まれる上辺だけの協調性になるのではないかと最初こそは思ったが、そうさせないためにもマルム教を強く信仰させているのだろう。信ずるものが同じであれば、仲間意識は生まれやすく民同士の結束はより固いものとなる。この国を作った者は上手いことを考えたものだ。
なぜここまで入国者に厳しいのかというと、ノイ・ツ・タットには大量の財宝があるらしいのだ。
酒場の主人が言うには、島の中央にある聖堂『救われる地』の下には金銀等の鉱物や宝石が埋まっていて、どれだけ掘っても、湯水の如く出てくるらしい。
ただ、この国はそれらの採掘資源を他国へ売って成り立っている訳ではないようだ。
国同士の貿易はもちろん、個人間の商取引も一切行われることは無い。
農耕や畜産をしていないが、それでもここでは肉やパンが食べられる。衣服は揃えられているし、木材も紙もある。
『救われる地』で祈りを捧げれば、望む物が手に入るからだ。
何とも怪しい話ではあるが、実際にこの国の民は外との交流を一切行わずとも生きていけるのだ。
怪しい話とは言うが、それを可能にする物があるということを俺は知っている。
賢者の石だ。
世界に数える程しか存在していない超精巧な魔力石。その魔力石にはあらゆる魔法の仕掛けが施されていて、使う者の望む物を制限なく具現化することができる夢のような代物。
賢者の石があれば、この島だけで生きていくことはできるかもしれない。
しかし、賢者の石は所詮魔力の塊だ。いつか魔力が尽きた時のことを、使用者は、国民は考えているのだろうか。
いや、考えていないだろう。考えないで済むためのマルム教なのだろう。
「それで、入国時にリリベルが魔法をかけられたということは、本当なの……?」
碧衣の魔女セシルは果実酒を嗜みながら、リリベルのことを尋ねてくる。
俺はこれまでの経緯をセシルに細やかに伝える。
リリベルは入国時に門番から魔法をかけられたのだ。
彼女が黄衣の魔女として魔法に関する依頼をこなしていることは、ノイ・ツ・タットにも少なからず知れ渡っているようで、その魔女の力を恐れてか、この国に滞在する間は、彼女のこれまで生きてきた記憶全てを遮断する条件を付けられたのだ。
記憶が封印されていれば、魔法を安易に使うことはできない。俺が知っている黄衣の魔女としての実力は、今のリリベルでは発揮できないのだ。
俺は彼女の身に危険が及ぶ可能性が増すことを考慮して、彼女に入国することを諦めるよう強く薦めた。
だが、彼女は断ってしまった。
俺の提言を滅多に断らないリリベルが敢えて断ったのは、自身が不死であることと騎士として俺がいることも理由に挙げていたが、最たる理由は燐衣の魔女だ。
推測ではあるが、燐衣の魔女は怒りを魔力に変える力があると思っている。
ミレド王からもらった情報の1つから、そう推測するに至った。怒りを魔力に変える方法までは分からないが、今までの経験からしてどうせ『魔女の呪い』絡みだろう。
問題は怒りだ。ミレド王は燐衣の魔女が怒れば怒る程、魔力を増し続けていたと言っていたが、果たして怒りが冷めた時に合わせて魔力も減ってくれるのかという懸念がある。
1度怒って増えた魔力が、その先下がることは無い場合、俺たちにとって非常に不味い状況になる。1度燐衣の魔女と相対して負けているのだから尚更だ。
だから彼女の怒りに手が付けられなくなる前に、彼女を倒さなければならない。状況は結構危うい。
「話は大体分かったけれど……。リリベルがこんな状態でどうやって燐衣の魔女と戦うのよ……」
「実はこの酒場で落ち合う者は他にもいる」
話している内に酒場の扉が開けられ、丁度良く助っ人が現れた。
「やっと辿り着けた……。なんて入国し辛い国なんだ。疲れる、ああ疲れるさ」
「仕方あるまい。この国はその用心深さで成り立っているのだ」
1人は赤いマントを羽織った若い男で、着慣れてよれたシャツに特徴の無い長いズボンを履いている。男だが赤いマントで判別できるその人はエリスロースだろう。
もう1人は、商業国家フィズレにある黄衣の魔女の棲家から、1番近い町にある酒場で知り合った騎士だ。彼とは飲み仲間で、酒場で会った時にはいつも騎士談議に花を咲かせている。
名前をクレオツァラ・サザールと言う。
俺とリリベルが日課の剣術訓練をしている時に、参考にしている本があって、その本は『クレオツァラ流剣術伝書』と表紙に書かれている。
そう、彼がその作者だ。いつもお世話になっています。
俺は手を振って2人を迎え入れる。




