2人だけの国6
黄色のマントは丈が長いおかげで、マントごと彼女を抱きかかえるのは容易だった。今は抱きかかえている俺の片手に、彼女の手が包まれている。
リリベルの許可を得ずにいきなり抱え上げたからなのか、彼女は奇声を上げた。更に自分の出した奇声が変だと思ったのか恥ずかしそうに顔を俺の胸に埋めた。
彼女に一言でも前置きしておけば良かったと思う。
「ヒューゴ君は幽霊って見たことある?」
リリベルが、か細い声で俺に問いかける。想像もしていない突然の言葉に、ほんの少しだけ走る足がもつれる。
幽霊、あるいはゴーストとも言う。
モンスターとも魔物とも分類できない、実体を持たないとされているアレのことか。見える人と見えない人がいるようだが、一説によると幽霊の可視は魔力量と関係しているらしい。
俺は話に聞いたことがあるぐらいで、実際にこの目で見たことはない。お目にかかることができるなら、是非とも見たいものだとは常日頃思っている。
いや、常日頃は言い過ぎである。
彼女に幽霊は未だ見たことがない旨を伝えると、彼女はにやりと笑った。少しだけ彼女がいつもの調子に戻ってきたような気がする。
「君は私の魔力を得ているのだから、見えるはずだよ」
見えるはずと言われても、近場に幽霊でもいなければ見えるものも見えないだろう。
中央の広場に出たところで、彼女がぼそっと言う。
「王様と王女は幽霊だ」
彼女のその一言が余りにも衝撃的過ぎて俺は、走る足を思わず止めてしまう。同時に今までこの目で見てきた2人の姿が、俺の想像していた幽霊像とはかけ離れていていたので、そのことに対しても衝撃を受ける。いくら信頼できるリリベルの言葉とは言え、すぐに信じるのは難しい。
俺は「え、いや、え」なんてどもって答えてしまう。
「私は幽霊を何度も見てきたから分かるのだよ。彼らは、この世を生きる者と違って魔力の流れは一切ない。魔力を多く扱う私たちだからこそ、その異質な存在に気付くことは容易になっていく。だから分かる。あれは幽霊だよ」
不思議な話だ。彼らが実体を持たないなら、それは幻影と同じと言っても良い。幻影を見せるのにだって魔法を、魔力を使うというのに、それを必要とせず目に見える形になる存在は不思議だ。
衝撃音は今も連続して聞こえていて、獣の咆哮も屋敷内に木霊している。改めて音に気付いて、歩みを再び始めるが彼女との会話は続ける。
「幽霊ってあんなにはっきり見えるものなのか?」
「その者の想いが強ければ強い程、よりはっきりと見えるし、普通に会話もできるね」
「『想い』というのは、この世に残した未練のことか?」
「そうだね。それが怒りなのか、絶望なのか、悲しみなのかはそれぞれに依るだろうけれど」
つまり、ミレド王もフェルメア王妃もこの世への強い未練を残して、今ここに存在するということなのか。
そして、魔力の扱いに長けている魔女2人と、黄衣の魔女の魔力を間借りしている俺たちだから、齟齬なく会話できたということか。
幽霊という存在を聞いて俺は1つの疑問を彼女に追加で聞き込む。
「燃える死者は幽霊じゃないのか?」
「あれは、死体という実体に怒りの感情と魔力を宿らせた存在だから、幽霊ではなく魔物の一種かな」
彼女は大人しく抱えられながら、はっきりとそう説明した。知らないことだらけで恐縮するが、ただ、十分に納得はできた。
フェルメア王妃のこの世への未練の対象は、ミレド王に関係することだろうが、それがどういう感情なのかはまだ分からない。
主観になるが、ミレド王の浮気が真実とは考えにくい。故に怒りでこの世に残っているのではないと思う。
この世に未練を残しているなら、リリベルと王妃との2人だけで行った会話の中で、もしかしたらその感情を強く示している内容があるかもしれない。
俺は彼女に王妃とどのような内容の会話をしたのか聞いてみると、彼女は時折顔を上げて、話を思い出そうとする仕草をしながら答えた。
「ほとんど国王のことだったよ。彼のどういう仕草に惹かれるとか、彼の好きな所はどこかとか」
「ノロケ話かい」
「私には興味深い話だったよ。特に、彼女は国王のことを考えていると胸が痛くなることが多々あるという話には、私も全く同じことが起きるから対処法を相談して……」
俺は正面広場の2階の廊下を通って、ミレド王の住まう側の廊下へ入ったところで足を止める。
そして、リリベルと顔を見合わせて2人同時に「あ」と声を上げた。このタイミングで同時に声を上げたのだから、多分考えていることは一致していると思うけれど、念のため確認してみる。
「フェルメア王妃はミレド王を愛しているのか」
「それも死ぬ程ね。いや、今のは誤解を生む言い方だったね。死んでも愛している、だね」
「猛烈な愛情を持っているのに喧嘩をする理由は、国王と自分を繋ぎ止めるためか?」
「愛し合っていると分かったなら、そのことをお互いが気付いたなら、それに満足して幽霊なんかやっていられないだろうからね。だからありもしない浮気相手を作って、嘘の怒りで喧嘩をしている」
「そして、ミレド王はそのことに気付いていて――」
「気付いているのに、わざと王女の喧嘩に乗っかっている。2人は紛い物の怒りで恨み合いながら愛し合っているのだね」
なるほど、これまでのことに合点がいった。今の俺たちの頭の中から出た考えは、すんなりと受け入れられた。病で斃れた2人は、愛し合うことに未練を持っている。
甘ったるい程のノロケ話に、俺は身体から力が少し抜けてしまう。
2人の考えの擦り合わせが終わったところで、これまでの話から、俺の中にまだ残っていた疑問が解消できそうな気がしたので、ついでに彼女に答え合わせをお願いする。
「リリベルがさっきまで怯えていたり、俺と離れるのを嫌がっていたのは、幽霊が怖いから?」
「今そのことは言及しなくていい!」
彼女に思い切り頬をつねられた。どうやら答えはイエスのようだ。
今まで大人しく抱きかかえられていたリリベルだったが、俺に図星をさされたのが癪に触ったのか急に下ろすよう言い出した。元気になったらそれで良い。
ゆっくりと彼女を床に立たせてやってから、先へ急ごうとすると右手だけ後ろに引かれて驚く。心臓が止まるかと思った。
「まあ、その、手は離さないで欲しいな」
顔はそっぽを向けたまま、素直でない言葉を吐く彼女に、少しだけ身体に痺れたような感覚を覚える。彼女が魔女であることを考えなければ、根の性格はただの女の子なのだと改めて思う。
彼女の手を握り安心を買ってから、再び走り始める。長い廊下を突き当たりまで走って、左に曲がって再び真っ直ぐ走れば館の端、ミレド王が住む塔の部屋に辿り着ける。
しかし、突き当たりに辿り着いたところで、左側の廊下から飾ってあったであろう甲冑が、バラバラになって吹き飛でんきたのが見えた。
「幽霊の攻撃って俺たちに当たるのか……?」
「それは分からないよ。今まで攻撃されたことは無いから」
万が一のことを考えて黒鎧の魔法を唱えてから黒盾を顕現する。魔力を持たない者の攻撃となれば、黄衣の魔女の魔力でできたこの鎧で防御できるのか不安だ。下手したら魔力防御という壁を越えて、貫通してくるかもしれない。
ゆっくりと廊下の角から顔を出して、曲がった先の通路の様子を確認する。
そこには2人の凄まじい攻防が繰り広げられてるのが見えた。
フェルメア王妃は咆哮を上げながら、豪奢で重そうなドレスの裾をこれでもかと振り回して踊っている。その踊りに起因するものかは分からないが、近くにある物が風で飛ばされたかのように吹き飛んでいた。
ミレド王は王妃の見えない攻撃を避けようとしているのか、文字通り縦横無尽に飛び回っていた。壁に立ったり、天井に立ったりとおおよそ人間のできる所業ではない。
ミレド王は王妃に対して、一切躊躇することなく手に持った剣を彼女の腹や胸に突き立てているが、王妃はそれを気にする様子なく、攻撃を続けている。血が噴き出しているようにも見えず、刺さっているというよりかは素通りしているようにしか見えないのだ。
2人の喧嘩の余波で再び甲冑がこちらに吹き飛んできたので、慌てて顔を引っ込める。壁に当たった甲冑は甲高い音を金属音を鳴らしてから、床に崩れ落ちて見るも無惨な姿に変わる。
「様子はどうかな?」
質問をするのは良いが、両手で耳を塞いでいたら聞こえないのでは無いかと思う。
彼女の質問に応えるために、再び通路の様子を見る。
「人間の動きではないな……。けれど、幽霊同士で戦ってもお互いダメージを受けているようには見えないな」
「ふむ。それなら放っておこう」
リリベルのまさかの提案に肩が力無く下がる。
「君は亡き司教の最後のお願いを達成するためにここに来た。でも2人は幽霊となり仲良く暮らしていて、司教の言っていた気がかりは既に無い。というか、元々無い」
「いやいや、司教は2人をあるべき場所に還したくて俺たちに依頼したのだろう。幽霊を見るためには、魔力を多く持っている者が有利になる。彼女は最初から2人が既に死んでいることを知っていて、俺たちに依頼したということは明確だ」
「そうさ。だからこそさ」
彼女が俺に何かを伝えようとしていることは分かっていた。察することはできていた。
俺はツエグッタ・ストロキオーネ司教の無念を晴らすためにここに来たのだ。今、俺の気持ちを無闇に変えてはいけないのだ。
ここまでは俺自身の気持ちの話だ。
だが、最も大事なことは黄衣の魔女のことだ。
全ては黄衣の魔女リリベル・アスコルトの評判を上げるため、そして、魔女への偏見を無くすためだ。
あらゆる種族の魔女に対する無意識の恐怖が無くなれば、リリベルが虐げられることは無くなると思っている。サルザス国で起きた最低のできごとも、きっと無くなると思っている。
そのために俺は黄衣の魔女の騎士として、主人が受けた依頼は達成しなければならないと思うのだ。
亡き半獣人の願いさえも叶えてしまう心優しき黄衣の魔女。良い響きだ。
だからこそ今は、リリベルの言葉をわざと素通りさせる。
素通りさせる筈だった。
「すまない、リリベルが何を言いたいのか分から――」
「私の心優しい騎士は、他人の幸せを引き裂くことに、ひどく心を痛める人なのだよ。私は主人として部下が傷付くのを黙って見ている訳にはいかないのだよ、ヒューゴ君?」
また彼女に、簡単に心を折られた。
その優しく諭すような声色から、彼女は既に俺がどのような心情なのか、俺が彼女のために何をしようとしているのか、全てお見通しなのだと気付いた。普段は他人の心というものをまるで考慮しない言動を取る癖に、俺が感情を揺り動かしている時だけ的確に感じ取ってくる。本当に、リリベルは卑怯な魔女なのである。
「まあ、ヒューゴ君が心を殺して、苦悩に悶えて精神を消耗していく様も、少しは興味深いけれどもね」
本当に興味深いと思っていそうな笑みに、少しだけ恐怖を覚える。勘弁して欲しい。
「もしかして、俺の心を読む魔法でも使っているのか?」
「違うよ。本を読んで、知識を得て、君の心を理解することに努めているのだよ」
殊勝な心掛けだ。できるなら俺以外の者にも心を理解するようにして欲しい。
だが、彼女のその思いは素直に嬉しい。それは、彼女が成長をしているから嬉しいということよりも、俺に対して気を掛けてくれたということに対しての嬉しさだ。俺の個人的な自己中心的な心をくすぐるのだ。彼女の言葉は居心地が良い。
決心の意味を込めて纏ったはずの黒鎧をあっさり解いて、そのまま廊下の角の壁にへたり込むと、リリベルも隣に座り込んだ。
「この国に来てからやってきたことは、全て骨折り損になってしまったな」
「そんなことはないよ。王女と話したことは、私にとって良い知識を得る機会になったからね。これも、君がこの国に行きたいと私に強く言ってくれたおかげだよ」
リリベルの言葉は、俺を気遣ってその場しのぎで話している訳ではなく、本心から言っているのだろう。彼女はほとんど素直だ。彼女は会話の主題に対して興味があるかないかを、はっきりと伝えてくれることを俺は知っている。
だから、彼女が適当に俺の心を慰めてあしらおうとしていないことぐらいは、すぐに分かった。そう思えるぐらいの時を過ごしたのだ。
すっかりやる気をなくしてしまったので、話題を変えて王妃との会話の中で、リリベルは一体どのような知識を得たのか詳しく聞いてみた。
すぐ横の廊下でどんちゃん騒ぎをしている亡霊夫婦を尻目に、膝を両腕で抱えた彼女は俺の方へ顔を傾けて、妖しく、そしてどこか意地悪そうな微笑みを浮かべて答えた。
「ひみつ」
最近、リリベルは卑怯な女だと感じる場面が増えてきた。




