10.永遠の決別
◎
――って、寝れる訳ないだろうがーっ!
という深夜が過ぎ、そして気がついたら翌朝になっていた。
き、きき、キスなんてされたら。
あー、落ち着け俺。心の中で噛んでどうする。
年上のお姉さんにキスなんてされて、はいおやすみなさい、とぐっすり寝られる訳がなかった。
「いや、そうなのか…………桔梗さんがっ…………」
変な妄想ばかりしてしまうじゃないか。
現在、自室のベッドの上で悶えているところだがリビングに行くのがとても気まずい。ベッドにいてもそれと匹敵するくらいの恥ずかしさだけどもさ。
それに――あそこまでされたんだ、答えを出さないといけないだろう。
「幸せホルモンがっ、溢れ出すっ! オキシトシンオキシトシン!」
妙なテンションから切り上げつつ、重い足取りでリビングに出向く。桔梗さんは真っ黒なエプロンを着けてキッチンに立っていた。オレンジを切っている。
「…………おはようございます」
意外と普通にしてるので平静を装って挨拶してみた。
包丁の動きが止まり、顔がこちらを向く。逸らしたくなる衝動を抑え正面から受け止めるぞ。
「おはよう、海斗君」
――ふ、普通だ。
桔梗さんはまさかの夢落ちまであり得る普通さを見せた。
まあ、酔っていたところもあるだろうし。
本意ではないのかもしれない。
すぐにオレンジのカットを再開し、お皿に綺麗に並べていく。
「ん、んー…………」
どうしたものか。
いつもならこのまま何事もなく過ごしていたところだが、今だけはその選択肢を取ってはならないと思った。俺の嫌な予感はいつも当たる。
小さな深呼吸をした後、後ろ姿に喋りかけた。
「桔梗さん、あなたのことが好きです」
「……………………」
流石に聞き流すことはできなかったようで手の動きが止まった。
聞こえなかった――、なんて鈍感力を発揮することはなさそうだ。
「もしかして気、遣ってる?」
声音から彼女の心情を探ることはできないが、至って冷静な様子。
酔っ払ってたとはいえ、俺も酒にあてられて俺も若干クラクラしていたとはいえ。あまり人に言えるようなことではない。
今はそんな世間体は気にせず、思ったままを答えた。
「気は遣ってません。本当の気持ちです、桔梗さんのことが好きなんです。俺は多分可愛い人、綺麗な人なら誰でも好きになることができます…………でも、本当に好きだと思えたのはあなただけです。あなたになら――、脳漿ぶちまけて殺されてもいいと思う」
小学生から人妻まで、綺麗で可愛いければ好きになれるだろう。ドMでもドSでもどちらも嫌いじゃないのだろう。
だけど、今だけはあなたじゃないと嫌だと心から思うのだ。
俺の一世一代の告白を聞いた桔梗さんはその場で微動だにしない。
それから無言で二分、包丁の動きが再開される。
普通だ。何事もなかったかのようにオレンジが切り裂かれる。
「あれ? あ、あの…………桔梗さん、俺あなたのことが好きなんですよ」
「聞いてたわよ」
「あ、そうですか…………」
一瞬、マジでガン無視されたかと思ったわ。
無反応は無視よりも太刀が悪いと思うのは俺だけだよな、うん。調理中に告白するってのもタイミング悪過ぎって話だよな。
よしっ、と自信を取り戻したところでソファーに腰掛けた。
エプロンを脱いだ桔梗さんはテーブルにお皿を並べられる。フォークが手渡され、手に挟みながら頂きます、と挨拶した。
甘いもの、酸っぱいものもある。
あまり味を楽しむという気分ではない。返事待ち状態なのだ。
「ねえ、海斗君」
「は、はい」
掴んでいたフォークをお皿に立て掛け、目の前に座る桔梗さんは俺のことを見詰める。俺も空のグラスに差し入れて背筋を伸ばす。
「私もあなたことが好きになったわ」
「にゃっ、今にゃんと――」
「とりあえず返事はしないとと思って」
「あっさりしてますね…………まあ、そんなものかもしれませんね」
好きとは言っても、付き合いたいとかじゃないからな。
同棲している訳だし。まあ、居候の方が非堅実だが。恋人になったら少しはまともな関係性にはなるのか。
つまり、相思相愛ってことなんだよな――。
「二日後くらいに死んじゃうんじゃないのか俺…………」
「交通事故には気をつけなさいよね」
「事故起こされたらどうしようもないですけど。赤信号でも突っ込んでくることはありますし」
「それは仕方ないわね」
「やり残すことはないですから、いつ死んでもいいんですがね」
「そんなこと言っていると本当に轢かれるわよ」
死亡フラグってやつか。
残念ながら、俺と桔梗さんの間に甘々な会話というものは存在し得ないようだ。
食器を片付けてソファーに戻ると。
「うっ」と膝から力が抜けて柔らかなクッションに頭から突っ込んでしまった。
「…………あれ…………?」
「一回やってみたかったのよね」
虚ろな瞳で捉えたのは小瓶を振る桔梗さんの姿。瓶には"睡眠薬"というシールが張られていた。
一服盛らせてもらったぜ、というやつだろう。
――だが、どうして?
強引に思考が途切れさせる寸前、躑躅坂桔梗は言った。
「――楽しかったわ」
もっと何かを言っていたはずだが、聞き取ることはできず、間もなく無意識の世界に没落する。
◎
午後八時半――。
夕闇色の空を見詰めながらうろん気味な頭を鮮明にさせる。太陽が煌々としている中で爆睡するとは、それも一二時間も。
そういえば昨日はよく眠れなかったんだ。
起き上がるとテーブルの上に見覚えのない真っ白な便箋を見つけた。首を傾げつつ、意識せずに手紙を取り出す。
手書きの文字でこう記されていた。
『結城海斗様へ
大変長らくお世話になりましたが、ここでお別れとさせて頂きますわ。あなたからしたら急な話でしょうが、こちらとしては急な話でもありません。約束を違えただけですから。
二ヶ月ほど居候として暮らしは目まぐるしく、とても楽しい時間でした。どこかに置いてきたはずの思いやりを久しく感じることができ、感謝してもしきれません。
本当はあなたの告白の返事をしないでいなくなるつもりでしたが、少しでも両想いだった時間が欲しいと思ってしまったんです。きっとあなたは傷つくでしょうけど、少しくらい我が儘許してくれますよね。
最後に。海斗君、あなたには無理なお願いでしょうけど、私のことは忘れてちょうだい。私みたいな卑しい女ではなく、もっと相応しい相手を見つけてくださいまし。
それでは、お邪魔しました。さようなら。
躑躅坂桔梗こと、瀧沢嶺華より』
最後の部分に染みができている。まるで液体が垂れたような。
蜩の鳴き声だけが耳に届く。
オレンジ色の射光が右半身を照らす。
濁ったような熱気が全身を包む。
「…………どうして…………」
顔全体が赤熱した途端、視界がぼやけた。
反射的に目元を擦ろうとしたところで気づく。熱さは目頭からで、ぼやけているのは"涙"が流れているからだと。
いくら拭っても瞳から流れる液体は止まらなかった。
「はっ…………ははっ…………」
嗚咽混じりの笑いが漏れる。これが笑わずにいられるか。
キスされて嬉しかった。
好きだと言ってもらえて嬉しくて躍りだしそうだった。
ずっと一緒にいたいとまで思っていた。
相応しい相手って何だよ。
俺にとっての相手はあなただったというのに。
卑しい女って? そんなの関係なく愛したのに。
忘れてくれって? 冗談じゃない。むしろ冗談だろ。
「まったくもって最悪だ…………幼馴染が死んでも流れなかったのに…………好きな人がいなくなったら泣くのかよ…………」
――ああ、どんだけ好きだったんだよ、俺。どれだけ愛してしまったんだよ。
生まれて初めての失恋。
枯れたと思っていた涙が流れた。
それはもう、子供みたいに泣きじゃくって手紙は涙で濡れて滲む。だけど止まることはなかった。
愛した分、悲しんで。悲しんだ分、泣く。そして、泣いた分、また焦がれるのだ。
◎
「海斗さん…………」
「…………そんな顔するなよ水連ちゃん。そこまで落ち込んでいる訳じゃない」
たっぷり二時間は涙腺が崩壊していたが、出尽くしたのか落ち着いたところで裏世界に赴いた。
夜も深まった頃合いだが水連ちゃんは起きてソファーの上で正座している。
口振りからすると桔梗さんがいなくなることは知っていたみたいだ。
どちらかと言うと俺に隠してたって感じか。
「擦り過ぎて目が痛いけど、衝動的発作が出なければ大丈夫だよ」
「そうですか…………ごめんなさい、隠してて」
「ううん、気にしないでいいよ。こういう終わらせ方しかなかったと思うし」
前持って知っていて、止めたとしても辛いのは桔梗さんの方だろうから。
手紙には約束があった、と書いてあった。大体の予測はつく。
「水連ちゃんが言ってたのはこういうことだったんだな。全然考えてなかったよ…………俺ってもしかして鈍感なのかな」
「気がついてなかったんですか」
「いやいや…………本当、気づくのが遅過ぎるんだよ俺はさ、いつも」
「そんなものですよ。ほとんどの人が考えるのは自分の都合ばかりですから」
「そうかもね……」
裏切られたと思っているのは俺の都合で、桔梗さんは俺なら大丈夫だと思っているのだろう。
上辺だけの関係だったのかな。そんな風に感じてしまう。
裏世界で生きてきた彼女と現実世界で生きてきた俺には、絶対に壊れない壁があるのかもしれない。いや、そんな綺麗な話ではないか。
「私、桔梗さんとは結構ガチな話してたんですよ。この先どう生きていくかとか」
「そうなの?」
「はい。いつかお別れが来るかと思ってはいましたけど……きっかけは先日のことですか。詳しいことは希さんしか知らない感じですね。住む世界が違うなんて言ったら怒りますか?」
「それが一番の障害だったんだろうなとは思うけどさ……あ、ヤバい――」
熱い雫に覆われ視界がぼやけた。
水分補給したからかまた涙が補充されている。
心臓が痛いくらいだ。カチッカチッ――と確かに鳴っていた。
水連ちゃんは袖をそっと引き寄せて、俺の頭を抱く。桔梗さんと比べたら凹も凸もないけれど、やっぱり女の子の身体は柔らかく暖かかった。
「服、濡らしちゃうけどいいよね」
「いいですよ、乾かせばいいだけですから」
涙が止まるまで水連ちゃんの心臓の音に耳を傾ける。初めは早鐘のようだったが次第に落ち着き、眠りに誘う安らがな鼓動になった。
今度は月影に照らされている。
「俺はこれからどうすればいいのかな……」
弱気な気分に油を差すような問い掛けをすると、水連ちゃんは俺の頭を撫でながら答えた。
「いつも通りにすればいいじゃないでしょうか」
「いつも何してたっけ」
「さあ、皆に呆れられることではありますよね」
愛のためにできることはない。
桔梗さんのためにできることはない。
じゃあ、俺は――自意識に沈殿しようとした時にふと、思い出す。
「"私みたいな可愛い女の子を助けてあげてね"」
俺がやるべきことはそれだ。
だけど、誰が俺にそんなことを言ったのんだ?
知らない、知らないけど知っている。記憶の中の誰かの顔は見えない、声も聞こえない、しかし、笑いながら言っている。




