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雪原を征く  作者: ヒナイ
2/2


 村長は、村の人達全員が顔を上げたのを確認してから、ゆっくりとした口調で話をはじめる。

「しっかりと祈りは捧げただろうか。感謝の心と言うものは、いつまでも持ち続けなければならんのだ」

 私はコクリと小さく頷いた。雪原の王、彼はほんの先ほどまでは力強く、緑に映える残雪を踏みしめていたのだ。

「さて、それではこの偉大なる王をあの世に還す。さあ、炎を囲むのだ」

 村のみんなはゾロゾロと、立ち上る火柱を中心に円を描く。私はこの後に何が起こるのかを知っている。ドクドクと心臓が普段より速い脈を打つ。赤い炎に包まれた闇が、ゆらゆらと世界を揺らす。一段と赤く照らし出された王の首は、どこか悲しげな陰影を映し出していた。

 ねえ、あなたは、あなたは本当にここで死んでなくなっちゃうの? 死んでしまったら本当に、全て終わりなの? その力強い眼差しはどこに向かおうとしているの?

 彼はその力強く、真っ黒な瞳で私を見つめる。そして、少しだけ首を左右に揺らしたように見えた。

 私と彼の間にある沈黙をかき分けるように、村長の言葉がこだまする。

「神よ。自然よ。我らへの恵みを感謝いたします。王よ、あなたは立派であった。ここに敬意を表します」

 村長が両手でツノを持ち、天に掲げる。村人達は恍惚とした表情でそれを眺めた。そうして、その時はやってくる。

 まず、彼の命である立派なツノをノコギリで切り落とす。そうしないと焼けて無くなってしまうからだ。そして、ツノが切り落とされた頭を抱えた村長は、一歩、また一歩と炎に近づき、そっと炎の中に首を投じた。

 真っ赤な光に飲み込まれて、彼の姿が消える。

「カーチャ。泣いているのね」

 母がそう言って私に目線を合わせて頭を撫でた。私は母を抱きしめた。

「ねえ、カーチャ。古くから、ヘラジカのツノには命が宿るって言われているの。そして、彼らにはツノが二本あるでしょう?」

 私は深く頷いた。母は続ける。

「だから、神様や自然に感謝をして丁寧にお空へ返してあげると、その二本のツノが姿を変えて、二つの新しい生命へと生まれ変わると言われているのよ」

「新しい生命?」

「そうよ」

 母は私の涙を指で拭う。

「だからね、カーチャ。悲しむことはないの。そして、彼に敬意を払うことが一番のはなむけになるのよ。顔をお上げなさい」

 私は重い顔を上げた。ずっしりとした質量を含んだ炎が私の目から入り込み、私の心を酷く焼いた。それでも私は、燃え上がる炎をただただ眺め続けた。彼を焼く灯火が消えるまで。

 しばらく経つと炎は消えて、骨だけがポツンと焼け跡に残った。少しだけ白くて、炎に焼かれて砕けた骨には、これまで目にしていた彼の力強さというものは微塵たりとも残ってはいなかった。

 大人達は残った骨を広い、それをツノと一緒に綺麗な木でできた箱に丁寧に詰めて、しっかりと封をし、広場に設けられた祭壇の上へと供えられた。明日の朝には埋葬されるそうだ。

 私は全ての終わりだと思った。彼が長い年月をかけて、積み上げた威厳や、眺めた景色なんていうものも、ぼろぼろと焼き崩れた灰になってしまったのだと思った。闇に包まれた広場には、終焉を教える煙の香りだけが漂っていた。

「終わったね」

私は呟いた。

「終わったよ。帰ろうか」

父はそう言って私の手を取った。





  私は祭りから帰ると、服を着替えることすらせずにベッドに潜り込んだ。本当は今、緑の芽吹く広大な平原のほんの隅の方で心地よく眠っていて、いっときの悪夢を見ただけなのだ。彼の死も、味のないポタージュスープも、私を包み込んだ闇も、全て無に帰す残像であればいい。

 そう念じてから、私は今いる世界の意識に封をした。そうして、更に深い闇へ沈んでゆく。

 




 眠りについてからどれほどの時間が立ったのかわからない。私は深い眠りの底、深い闇に包まれた世界の中で意識を取り戻す。

 目は開いているのか閉じているのか、自分でもよくわからない。どちらにしたってきっと深い闇が広がっているのだ。そういう気がした。その深い闇の中で立っているのか座っているのか、或いは横になっているのかすらよくわからない。

 そんな不思議な世界に閉じ込められた私には、どういうわけだ恐怖という感情はなかった。なぜだか、これらの闇にはとても暖かい何かが含まれているように感じる。

 そんな闇に身を委ねていると、どこからか声が聞こえる。

「ねえ、聞こえるかい」

 その声は温かな振動をもって、私の耳を伝ってきた。優しく力強い声である。

「聞こえるよ」

私の喉が震えて、微かに世界が揺れる。

「私はカーチャ。あなたは誰?」

 そう言いながら辺りを見渡したが、私の瞳は、声の根源を捉えることができなかった。

「名前か、そうだな。エルとでも呼んでくれ。どう言うわけかそう呼ばれているんだ」

 その男はエルと名乗った。

「変わった名前ね」

 そう言った後に、失礼だったかもしれないと後悔したけれど彼は、そうだね。と笑いながら言った。

「ねえ、エル。ここはどこなの?」

「ここは、そうだな。君のよく知るところだよ」

 よく知るところ?こんなにも真っ暗なここが?

「そう、こんなにも真っ暗なここがね」

 声を発していないのに、私の心を見透かしたように言った。

「ねえ、カーチャ。目に映る全ての物事は、時としてまったく姿を変えてしまうんだ。昨日まではまったく違ったものでも、時にはこうして深い闇へと姿を変えてしまうことがある」

 彼の言ったことは私には難しかった。そのうちわかるさ。彼は少し笑った気がした。

「ねえ、エル。エルは私のことを知っているの?」

「もちろん知っているさ」

「じゃあ私はエルの事を知っている?」

「もちろん」

 私のことだと言うのに、彼は自信げに言い切った。

「ごめんなさい。思い出せない」

 大丈夫だよ。彼はそう言った。彼は続ける

「重要なのは事の本質を見極める事だよ。君からすると、姿を思い出せない僕も、或いは、時として姿を変えてしまう世界も、それが一番大切なんだ」

 エルと呼ばれる彼と、この真っ暗な世界。事の本質って何だろう。やっぱり私にはわからない。

「ねえ、カーチャ。そろそろこの世界はまた姿を変えてしまう。僕らはまたお別れの時間だ」

 彼はそう言った。

「エルは何でも知っているのね」

「カーチャの知りたい事はね」

「じゃあ、私たちまた会えるかしら」

「そうだな。うん、また会えるよ、それもすぐにね」

「わかった。今度はあなたの事、覚えておくわ」

「ありがとう。それじゃあ、またね」

 そう言って彼はパチンと指を鳴らした。

 ふと気がつくと、いつもの天井がペッタリと空に貼り付いている。窓からの明かりはまったくない。まだ日が昇るまでにしばらく時間がありそうだ。

 寝覚めはかなり良かった。体が新雪のように軽く感じた。もしかしたら全てが夢で、私はただいつもより長く眠ってしまっただけなのかもしれない。そう思った。そうであってほしいと願った。全ての事を確認するべく、布団から起き上がり、広場へと歩みを進める。






  外は少しの雪が降っていた。寒さには万全の対策を講じて、コソコソと家を出た。

 しばらくして広場に辿り着いたものの、私の期待とは裏腹に、広場の中心には木の焼けた後が残っていて、祭壇には封のされた木箱が置いてある。私は深い白のため息をひとつ吐き出した。それはブロックのように角ばっていて、ドスンという鈍い音を立てて雪の上に落ちて、そのまま埋れて溶けていった。

 本当に夢ではなかったのだろうか。どうしても気になって私は木箱の封を切った。

 恐る恐る中を覗き込んでみると、やはりそこには細かく砕けた骨と、立派なツノと深い悲しみがポツンと存在しているだけだった。

 やっぱりだめか。私は箱の蓋を戻そうとしたとき一つの言葉を思い出した。

「古くから、ヘラジカのツノには命が宿るって言われているの」

 私はツノを一本手に取った。それはずっしりとした、現実的な質量を手に伝えた。本当に命が宿っているのだろうか? 私にはわからなかったけれど、もし仮にそうだとすると、この箱の中で二本一緒なんて窮屈じゃないか。私はツノを一本だけ取り出して、箱の蓋を閉めた。

 ツノは持って歩けば歩くほど、段々と重くなっている気がする。どこか素敵なところに埋めてあげよう。そう思った途端、そのどこかにアテがある訳でもないのに、自然と足が動き始める。

 普段わたしは村から出ることがない。たまに、この村のある山の、麓の辺りにある町まで母と二人で買い物をしにおりる程度である。なので道なんてものはてんでわからないはずなのに、村の門を超え、木々の間を縫うように、雪をかき分けて進んでゆく。

「エルの仕業ね」

 私は声に出して言った。

「よくわかったね」

 彼は戯けてそう言った。

「いつから見てるの?姿を現してよ」

 彼の声は木々の聳える森のずっと奥の方から聞こえてくるような気もすれば、すぐ近くの木陰から聞こえてくるような気もする。

「ずっと見ているよ。そして、すぐそこに居る」

 辺りを見渡してけれど、誰かの姿もなければ、足跡さえもなかった。

「ほんとう?」

「ほんとうだよ。いま君に見えている世界には、僕の姿がないだけだよ。だから君からは僕が見えないのだろうね」

 私にはよくわからない。そして、私がそう言うと、きっと彼はこう言う。そのうちわかるよ。と。

 私は深い雪をかき分けて、飛び出た枝にぶつかりながらどんどんと進む。時には何かに思い付いたかのように右へ、そして左へ曲がる。

「ねえ、エル。私はどこに向かっているんだろう」

「カーチャ。君は今、君の意思で進んでいる。君の行きたいところへとね」

 時間が経つにつれて、風が鋭くなり、私の頬を細かく刻む。落ちてくる雪もだんだんと強くなる。足もとの雪もだんだんと深くなってくる。

 靴や服はずっと前から濡れてしまっている。冷たくなった足や手には、ほとんど感覚がなかった。歯は自分の物ではないのかもしれないと感じるくらいガチガチと音を立てる。

 体力は限界に近かった。抱えたツノの重みを感じた。それでも、進み続けないといけないのだ。そう思った。

「大丈夫。もうすぐで目的地だよ」

 エルはそう言った。

 疲れとは裏腹に、私の足はぐんぐんとスピードを上げる。

「さあ、その木を越えると到着だ」

 エルが言った。そうして私は目に映る木の、最後の一本を追い越した。

 そうして目の前に広がったのは、雪に覆われた平坦が続く、木がポツポツとしか生えていない、広大な平地であった。

「到着だね」

 後ろから声が聞こえた。それはこれまでと違ってはっきりとわかる。私は振り返った。

「やあ、カーチャ」

 そこには私の歳の同じほどの少年が立っていた。

 茶色の綺麗な髪の毛に、真っ黒の瞳をしていた。ニコッと笑った彼の顔は、何故だか懐かしく感じた。

「エル、あなたの姿が見えるわ」

 私は思わず話しかけた。

「そうだね。ひとつまた、現実が形を変えたみたい」

 エルは私を追い抜いて振り返った。

「ねえ、あなたはどこから来たの?」

「そうだな、カーチャの知らないところからかな」

 そう言って彼は私に左手を差し伸べて、私の右手を取った。この寒い丘の上で、彼の手はほんのりと暖かかった。

「カーチャ。君は勇敢だね」

 彼はそう言って右手で私の頭を撫でた。

「そんな事ないわ。今日だってそう。すごく怖くって、それでいてすごく悲しいことがあったの。そうすると何もする気が起きなかった。ううん、何もできなかったの。どうしても、何もかもが恐ろしく感じたの」

 知ってるよ。と彼は笑った。彼の笑みは、春の日差しのように優しかった。

「誰だって恐ろしいことさ。それでも君はしっかりと祈った。そして、敬った。そうだろう?」

 私は小さく頷いた。

 吹雪がどんどん強くなる。世界が白に包まれる。彼と繋いだ右手だけが、この世界と私を繋げる手掛かりのように感じた。

 その通りさ。とエルが言った。

 私はだんだんと瞼が重くなってきた。

「ねえ、死ぬってこう言うことなのかな」

 そうじゃないよ。と彼が言う。

 世界が形を変えようとしているのさ。そして僕もまた、形を失う。でもね、重要なのは事の本質を見極める事さ。僕はずっと君のそばにいる。

 事の本質。つまりどう言う事なんだろう。考えれば考えるほど、私の意識は降り積もる雪のように、どんどんと真っ白に染まっていった。






 私はゆっくりと目を開いた。窓からうっすらと朝日が差し込んでいた。空は雲のない晴天である。上体を起こしてみると、昨日の祭りに着ていた服装のままだった。焼けた木の香りが服にこべりついている。

 夢、だったんだろうか。私は眠い目を擦りながらベッドからするりと抜け出した。

 ゆっくりと身体の隅々まで動かしてみた。体の調子に別段変わりない。足も手もしっかり動くし、寝起きの暖かさを含んでいる。

 ひととおり点検し終わると、ゆっくりと階段を降りて、キッチンのチェアに腰掛ける。机の上にはいつものパンが置いてある。

 そう言えばお腹が空いた。パンをひとつまみちぎって口に放り込む。

「おいしい」

 ほんのりバターの味がする、香ばしいいつものパンだった。

 黙々とパンを食べていると、母が階段を降りてきた。

「あら?今日は早起きなのね」

 母は微笑んだ。

「今日は埋葬の日よ。ゆっくり食事を摂ったら広場に行きましょう。紅茶も飲む?」

「ありがとう。いただくわ」

 しばらくすると父も階段を降りてきた。父は相変わらずバタバタと階段を上っては下りてを繰り返す。まるで餌を運ぶネズミのようだ。

 家の前の道路には、今日もまた腰ほどの雪が積もっていた。

 私は力強く、積もった雪を踏みしめて進む。

 広場には既に大きな人だかりができていた。ザワザワと祭壇を取り囲んでいる。

「どうしたんだろう?」と父は言った。

 私がいくら背伸びをしたって、私達の立つ場所からは、大人たちが取り囲む祭壇を見る事はできなかった。

 静かに! と村長が言った。

「おはよう、みんな。今朝、埋葬の準備をしようと広場を訪れると、どうやら箱の封が切られており、中からツノが一本なくなっておったらしい」

 まさか! 昨日の事は夢じゃなかったの!?

 グルグル回る私の心をよそに、話は続く。

「知っての通り、ツノには命が宿ると言われている。もしかしたらもう次の命へと姿を変えてしまったのかもしれない。これはとてもめでたい事だ。残る一本もしっかりとあの世へとお返ししようではないか」

 その言葉に村の人々は歓声を上げた。

 アレが夢じゃなかったら、私はあの丘にツノを置いてきたかもしれない。

 私は母に、少し体調が悪いと嘘をつき村を飛び出した。

 昨日通ったはずの道にはしっかりと雪が積もっていた。やはり夢かもしれない。そう思ったけれど、どうしても確かめずにはいられなかった。

 道は体が覚えている。きっと、エルの仕業なのだ。しかし「ねえ、エル?」そう呟いたけれど返事は無かった。

 最後の一本の木がどんどんと近づいてくる。

 私の鼓動がどくどくと早まる。そして、目の前に平原が広がる。

 そこは、紛うことなく昨日訪れた丘であった。昨日立っていたはずの辺りには、大きなツノなんて落ちていなかった。ずっと積り続けているような、柔らかな雪には少しの乱れもなかったのだ。

 やはり夢だったのか。そう安堵と悲しみの両方を備えた顔を上げて、辺りを見渡した。今は朝で、天気もいい。遠くの景色まで見渡すことができたのだが、

「ここは......」

 それは驚くべき光景であった。

 雪に覆われた三角の山々、どこまでも広がるように見える地平線。雪さえ深く積もってはいるけれど、ここは以前、夢に見た緑の雪原そのものだった。そして、少し離れたところに、三つの影が揺らめいている。

 一匹のメスのヘラジカと、その後ろを子供のヘラジカが二匹、ゆっくりと歩いていた。それは最初に見た夢の輪郭をなぞるような、そんな気持ちを私に抱かせた。

 そして、一匹の小鹿が私を見た。遠目にもわかるような、力強く、黒い瞳が私の心を貫く。

「カーチャ。目に映る全ての物事は、時としてまったく姿を変えてしまうんだ」

 どこからか声が聞こえた気がした。

 小鹿は私から視線を逸らし、少しのかわいらしい雄叫びを上げて、駆け足で母の背中に追いついた。

 ありがとう。私はそう呟いて、村に向かって山を下った。

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