上
【雪原を征く(上)】
雪原の王を仕留めたぞ!
村中に響き渡った大声で、私は目覚めた。身を刺すように冷たい空気を纏った朝のことである。
狩人の放った合図をきっかけに、キッチンでポタージュスープか何かを煮込んでいた母が、その手を止めてバタバタと私の部屋に駆け込んできた。
「カーチャ! 起きなさい! 出かける準備をするのよ!」
母はいつもなら私の部屋をノックして、私に伺いをたててから部屋に入る。相当興奮しているようであった。
「おはようママ。起きているわよ」そう言って布団からゆっくりと起き上がる。
父もまた、自分の部屋から飛び出して、バタバタと階段を行ったり来たりした。よっぽどの事なのだろう。私は眠い目を擦りながら支度を始めるた。
雪原の王。とても長く生きたヘラジカを、多くの敬意と少しの畏怖を含めて、私達はそう呼んだ。雪原の王。彼は私が産まれるよりずっと昔から、この雪原で生きている。彼はしばしば農作物を食い荒らし、時には人を襲う。身体は山のように大きいらしい。襲われたらきっと、ひとたまりも無いだろう。
私達家族三人はものの二、三分程度で支度を済ませ、揃って家から飛び出した。
腰ほど積もった雪を深く踏み抜きながら、村の広場へ行くと、すでに数十人もの人たちが集まっていて、ひとつの大きなソリを囲んでいた。
人々の描く円の中心に、ソリに乗せられた、王と呼ばれる彼の姿があった。
彼の様相はとても素晴らしいものであった。宝石が混ぜ込んであるかのような艶やかな毛並みには、数発の銃弾の跡があり、その傷口から、新鮮な血の跡が、腹部へと鮮やかな赤い模様を描いている。立派なツノは鋭く尖っている。そして何よりしっかりと見開かれた瞳は、死してなお力強い光沢をもっていた。あまねく彼の器官は、今にも動きだしそうなほど、彼の『生』を物語っていた。鮮やかな血の赤と、瞳の黒に私の心が染まる。
「しばらくは、食糧に困らなさそうだな。今日食べきれない分は干し肉にしてしまおう」
どこかでそんな声が聞こえた気がした。
ねえ、君はどうして死んでしまったんだい? 私は彼に問いかけた。もちろん返事はない。
村長と話をしていた父が、戻ってきて私に声をかけた。
「カーチャ、パパ達はお祈りの準備に参加しないといけない。カーチャは家で寝ていても構わないけれど、どうする?」
「私は......家で待っているよ」
「そうか。それなら、ママがポタージュスープを作ってあるから温めてお飲み。いつものパンも、キッチンの机の上に置いてある」
「ありがとう」
そう言って私は、ソリに横たわる彼から目を背けるように振り返り、三つの足跡をひとりで引き返した。
コトコトと鍋の中でポタージュスープが音を立てる。柔らかく真っ白な湯気が立ち込めている。恐らくとても素敵な香りがするのだろう。しかし私は今、嗅覚と言うものが機能していないようだ。
雪原の王。彼のことが頭から離れなかった。私達より体が大きく力強くい。そんな壮大な彼の死を私は目の当たりにしたのだ。なんとも言えない悲しみや、恐怖、そして不安が押し寄せてくる。
今頃、お祈りの準備が進められている。ヘラジカは最初に首から上を切り落とされる。切り離された首から下は、職人により丁寧に解体されて、肉は端から端まで調理され、骨は余す事なく装飾品などへ加工される。
首から上は祭壇へと供られる。祭壇に祀られた首へ、村の全員が祈りを捧げながら真っ赤な炎で焼き、そしていずれ骨だけになる。そうして次の朝を迎える頃に手厚く埋葬される。
人々は、生きた動物を殺めながら、生きることに深く感謝する。死した動物達に祈りを捧げる事で、また新たな命として芽生えると古くから言い伝えられているのだ。
私は彼の首が祭壇に祀られているところを想像ようと試みたけれど、どうしても想像できなかった。
あの瞳から、光が失われる姿なんてこれっぽっちもわからない。
そうして虚構をなぞっているとボコボコと酷く濁った音が聞こえた。それは、沸騰したポタージュスープが、マグマのように鍋から溢れ出している音だ。
しまった! 私は慌てて火を止めた。ポタージュスープの暴走がおさまる。しかし、それでもその酷く濁った音はしばらくの間、私の脳内で反響し続けた。
もちろん食べ物の香りがしないのなら、味なんていうものもするはずがない。
普段は私の好物であるはずのポタージュスープは、食感だけが、蛇のように舌に絡まりついた。
いつも食べているパンは、酷く乾いた雑巾を食べているかのようだった。
そうして、物を食べる事すら億劫に感じた。生きた心地がしないって、この事なんだなあと思った。
その他、結局何をするにも全てに身が入らなかった。私を支配する感情の全てが、「何か」する事を拒んだのだろう。
今の私に出来ることは、この感情達から目を背ける事だけなのだ。
私は冷たい布団に深く潜り込んで、扉を閉めるようにしっかりと瞳を閉じて、意識の蓋に鍵をかけた。
ふと、何かの違和感を感じて目を覚ますと、そこは鮮やかな緑と白に覆われていた。生き生きと聳える新芽と、真っ白な残雪は、不思議なコントラストを映し出している。そして、その素晴らしい空間は、美しい春の香りを含んでいた。
ここはどこだろう?
私の住んでいる地域では、雪が解けて芽が生えるなんて、一年の季節を通して、一番暖かな時期の、ほんのひと時の出来事である。
そう、確かに今朝、腰ほどまでに積もった雪を踏みしめて、ヘラジカの死を目の当たりにしたはずである。
ヘラジカ。雪原の王。
忘れようと務めていた私の心に、またしても酷い悲しみがこみ上げてきた。
私は一度、深いため息をついてから、まるで錆び付いたように重い首を、ゆっくり回した。
どこまでも広く、白地に緑の刺繍が施された絨毯のような景色が敷き詰められていた。遠くには同じく白に覆われた三角の山々がうっすらと見えた。
そんな絶景の最中にひとつ、のそのそと動く影を見つけた。
ねえ、あれって。声に出したか出してないか、いまいち思い出せないけれど、気づいた時にはもう足が動き出していた。
私の足は、舞い上がる残雪のように軽く、ぐんぐんと距離を詰めてゆく。近くになればなるほど、彼の大きな姿が顕になる。
ツヤのある綺麗な毛並み。ずっしりと大きく立派なツノ。そして、大きく、真っ黒な瞳。雪原の王のお出ましである。
「ねえ! ここがあなたの産まれた場所なのね!」
私は彼にそう言った。彼は私をその黒い眼差しで見つめる。彼の瞳からは強い生命の力が放たれていた。あの、村の広場でみた瞳と全く同じ輝きを放っている。
「ねえ、聞いて。あなたは、私達の村では、雪原の王。そう、キングと呼ばれているのよ。」
もちろん彼は何も言わない。言葉も通じているとは思えない。けれど私は彼に話しかけずにはいられなかった。
「ねえ、キング。あなたは死ぬのが怖い?」
私は彼に手を差し伸べた。私が彼の毛に触れる寸前で、空気がビリビリと音を立てるような、けたたましい雄叫びを上げてから、私をもう一瞥して、私の前から走り去っていった。私はその力強いステップに巻き上げられた純白の後塵を、ただただ恍惚と眺めることしかできなかった。
ハッと目を覚ますと見慣れた天井が広がっている。目前に現れた紛うことなき現実に、シクシクと心が痛んだ。
しかし、奇妙な事に、何も感じる事のなかったはずの嗅覚が、春の残り香を脳に伝えた。
そして目を瞑った瞼の裏に、鮮やかな緑が蘇る。雪原の王と共に。
どちらが夢で、どちらが現実なのか、私にはよくわからなかった。彼の偉大なる身体に宿った『生』は、力強い『死』よりも、或いは味のしないポタージュスープや雑巾のようなパンよりも、些か現実的過ぎたのだ。
私はもう一度目蓋を閉じた。そして、夢なら醒めてほしいと願った。しかし無情にも、再び雪解けの草原が齎されることはなく、トクトクと響く世界の脈動が、私の耳にこだまし続けるのみだった。
私が眠るのを諦めて暫くが経った頃、太陽は星々に役目を任せて深い眠りにつく。私がぼんやり、ひとつ、またひとつと、次第に瞬き始めた星達を眺めていると、父と母が帰ってきた。
「カーチャ、おいで。これからお祭りが始まる。雪原の王を祝福して、美味しいお肉を食べよう」
父はいつものように優しく私にハグをした。私はこれまでに、多くのお肉を食べてきたと思う。けれど、今日はお肉を食べる気持ちにはなれなかった。
けれど夕飯は摂らないといけないし、彼に祈りを捧げる事はこの村の住人として必要な事だと思った。
重い腰を上げて、ササっと支度を済ませ、朝に一度辿った道をまた引き返す。朝とは違い、雪は綺麗に路肩に積まれていた。
遠くに見える広場では、暗くなってきた空の下、焚き火の炎が囂々と燃え盛っている。それは、無機質な炎のようであった。私は悲しくなった。偉大な彼の肉が、あのように無機質な炎に焼かれるだなんてまるで想像できなかった。
鉛のように重い足を引き摺りながら広場に到着すると、村の人々は既に酒を飲み、肉を食べ始めていた。広場はなんとも言えない活気に満ちている。
縦に鋭く上がった火柱は、パチパチと音を立てながら暗い夜を私の心ごと暖かく照らす。そして、不規則な光がゆらゆらと私の影を揺らす。それは、私の酷く傷んだ心を映しているかのように見えた。
「おいで」
母はそう言って、私を抱きしめる。
「カーチャ、私達は他の動物たちの命を貰って生きているのよ。だから私達は彼らに敬意を払わないといけないの。食事をとる前にはいただきます。食べ終わったらご馳走様でした。食べるものは少しも無駄にしたらダメ。しっかり神様と自然に感謝するの。それが大切。わかるわね?」
私は黙って頷いた。
「偉いわカーチャ。ほら、あなたの好きなステーキよ。お食べ」
母は私の頭を撫でて、皿に乗ったステーキを手渡した。
さっきも述べた通り、正直私は肉を食べたく無かった。と言うより正確には彼を食べたくなかった。でも、残すのはもっとダメだと思う。だって彼の死の一部を無駄にしてしまうから。
私はナイフとフォークを使って、彼の体を綺麗に切り分け、目を瞑って口の中に放り込んだ。
皮肉にも、彼の肉はとても美味しかった。程よくのった脂、柔らかすぎず硬すぎない上質な歯触り。私は彼のことを思い出した。緑の雪原で私の話を聞いてくれた彼を。そうして私は力強い生命を貪った。それが私にできる唯一の弔いなのかもしれない。そう思った。
そんな思いに耽りながら、優しく肉を切り分けていると、広場の正面にある村長の家の中から、ひとつの神輿が運ばれてきた。神輿の上には雪原の王の首が乗せられていた。いつの間にか、ワイワイと酒を飲んで騒ぐ声がピタッと止んだ。そしてシンとした深い沈黙が広がる。ゆらゆらと揺れる炎の灯だけが、妙な立体感を描く。暫くの静寂の後、灯の陰からするりと這い出てきたような、低く繊細な声で村長が言った。
「やあみんな、今晩はめでたい日だ。みんなも知ってる通り、我々は雪原の王の恵みを頂いた。そう、いつもの通り、我々は豊かな自然に、そして神に感謝せねばならぬ。我らは、彼らの恵みなしでは生きることが出来ぬのだ。しかと肝に銘じよ。そして、感謝を示すのだ」
彼はそう言って目を瞑り頭を深々と下げる。そうすると村のみんなも同じように頭を下げる。私もそれに倣って頭を下げた。瞼の裏には緑の芽生えつつある雪原が広がる。
ねえ、あなたは死ぬのが怖い? 私は神輿の上で毅然に構えている彼に向かって問いかけた。彼はムシャムシャと青葉を屠る。
ねえ、あなたの産まれた場所はここなの?
彼は何も言わなかった。ただ、ゆらゆらと唸る炎を灯した、真っ黒な瞳をこちらに向けるのみであった。
やがて村長の合図でゆっくりと顔を上げる。視線の先には、緑の絨毯に包まれていた彼と、同じ目をした彼がそこに居た。
(下)に続く