エピローグ 遠い記憶
『あぁもうコラ、暴れちゃだめだってば』
笑い声交じりに叱る女性の声が聞こえた。
肩までかかるくらいの黒い髪の女性、綱源光凛は、ベッドの上で抱いている赤ん坊が暴れるのを何とかとめようとしている。
『まったくこの暴れん坊は……。雷牙! じっとしてなさいって』
少しだけ強めに言うと、赤ん坊――雷牙は大人しくなり、彼女に身を任せるように抱きかかえられた。
『やれやれ。私の息子だからこうなるかもしれないと思ってはいたけど、予想以上だよ』
『ふふ、大変そうですね。光凛さん』
小さく笑ったのは、ホロディスプレイに投影されたブロンドの髪が美しい女性、ヴィクトリアだ。
『本当に大変だよー。まぁかわいいからなんでも許しちゃいそうになるけど……』
『あまり甘やかしすぎるのもダメですよ?』
『わかってるってー。というかヴィクターもそろそろじゃないっけ?』
ホロディスプレイを見ると、ヴィクトリアが小さく頷いてから自身のお腹を軽く摩る。
少しだけ膨らんだそのお腹は、子供を宿していることが見て取れた。
『この子も順調です』
『それはよかった。それでさ、前に言った許婚の話あるじゃん? あれさ、やっぱり……』
『なしにしようってことですね? 全然構いませんよ。というか、光凛さんも冗談半分だったじゃないですか』
『あ、アハハー。バレてたか……』
思考を先に読まれた光凛はバツが悪そうに頬をかく。
光凛が英国で戦技教導をしていた際、彼女はヴィクトリアととある約束をしていた。
それは、生まれた子供同士を将来的に結婚させてみるのはどうかというもの。
まぁちょっとした冗談でもあったし、ヴィクトリアもそこまで本気にしている節もなかった。
『冗談半分だったのは置いておくとして、どうして急にそんなことを?』
『ん? アレだよ。雷牙が生まれたとき、なんていうか、この子には自由に生きてもらいたいって思っちゃったんだよね。もちろん、悪い道に進むのはだめだけど、やりたいことをやらせればいいかなって。だから生き方を勝手に決めちゃうのはやっぱりね……。だからごめんね、変なこと約束させちゃって』
『気にしないでいいですよ。というか、そんなしんみりいう話でもないですから。光凛さんらしくもない』
『いやー、この子産んでから心配性になっちゃってさ。うぉっと……!』
光凛は再び暴れ始めた雷牙を落としそうになるが、それを何とか堪える。
あうあうと言いながら暴れる息子に手を焼いていると、再びヴィクトリアが笑みを零した。
『こういったらアレですけど、ちょっと似合わないですねぇ。光凛さんと赤ちゃんって』
『なにおう!? 旦那からは結構似合ってるねって言われてるんだぞ!!』
『だって普段の光凛さんってこうガサツなイメージが強いというか……』
『それは……当たらずとも遠からずというか……』
ヴィクトリアの言葉は外れてはいなかったようで、光凛はなにやら複雑な表情を浮かべる。
すると、腕の中で雷牙が再び暴れ始める。
しかし今回はなにかに手を伸ばしているようだ。
『おぉっとと、雷牙もう少し静かにって……随分熱心にヴィクターを見るね君。まさかその歳で人妻好き!?』
『違いますよ。多分私のお腹を見てるんじゃないですかね? 赤ちゃんなりになんとなくわかるんですよきっと』
確かに、改めて雷牙の視線をよく見てみると、彼はヴィクトリアの顔と言うより、膨らんだお腹を見ているような気がする。
ヴィクトリアの言ったとおり乳幼児ながらなにか近しいものを感じているのだろうか。
『この子が生まれたら、仲良くしてね。雷牙くん』
その声が通じたのかわからないが、雷牙は『あーうー』と返事のような声を発した。
しかし、ヴィクトリアを見ていた雷牙がふと体を震わせたかと思うと、次の瞬間には何かをやりきった男の表情を浮かべる。
同時に室内に洩れる異臭。
瞬間、光凛は雷牙のお尻の辺りに鼻を近づけ表情を歪ませる。
『あーっとこれは……』
『やっちゃいましたか……?』
『だねぇ。しかもこの感じからすると大きいほうかなー。まったくしょうがないなぁ』
ブツブツと言いながらも、光凛は笑顔であり、どこか嬉しそうでもあった。
その笑顔はまだ言葉もしゃべれぬ雷牙の瞳にも写っており、彼もどこか嬉しげに笑っていた。
「……ん……」
覚醒の兆しに抗うことなく、雷牙はゆっくりと目を覚ます。
ゆっくりと上体を起こし、壁にもたれかかるように座ると、天井を仰ぐ。
ひどく懐かしい夢を見ていたような、そうでないような。
わかることは、かなり深い眠りについていたということ。
頬を撫でてみると、カーペットの形に跡がついている。
どれくらい眠ったのかと、端末を見てみると、時刻は午後九時。
「どおりで暗いわけだ……」
室内はベッドサイドにあるライトが点いているだけで、かなり暗い。
カーテンの外の空はもう真っ暗だ。
「九時間って、さすがに寝すぎだな」
未だに頭がぼんやりするので、洗面台で軽く顔を洗い、口をゆすぐ。
幾分かすっきりした雷牙は、眠りに入った時のことを思いだす。
あの時、急激な眠気によって強制的に睡眠に誘われた雷牙は、そのまま眠りについた。
改めて体を触ってみても特に違和感もないし、痛みもない。
やはりあの眠気は自身の体を脅かすものではなかったようだ。けれど、十五年生きてきてあんなことは初めてである。
宗厳の修業がきつくて倒れたことは何度かあるが、眠気で倒れたことはない。
「精密検査だとなんもなかったけどなぁ。まぁでもいっか。体の疲れもなんとなく取れたし」
グッと伸びをしてみると、驚くほど体が軽い。
なにか不要なものを脱ぎ捨てたような感じだ。
しかし、同時に体に足りていないものがあるらしく。
ごるるるるるるがるるるるるるぎゅごるるるるるるるる――。
盛大に腹の獣が鳴いた。
どうやら空腹までは改善していないようである。
「そういや、メシ行こうとしてたんだっけな……」
思い出した雷牙は、溜息を着いてから部屋から出て行った。
寮の廊下は比較的静かだった。まぁ時間的にも夕飯を取るような時間ではないので、皆部屋に戻っているのだろう。
一応瑞季や玲汰達にも連絡してみたが、もう食べたとのことなので、今日は一人で夕食である。
「さすがに寂しい気もするが……」
「だったらご一緒しましょうか?」
ふと聞き覚えのある声が背後からかけられた。
振り返ると、ヴィクトリアに付き添うために病院へ行ったレオノアがいた。
「レオノア、お前帰ってきて大丈夫なのか?」
「はい。母ももう安全ですし。それに母に言われました。明日試合なら早く戻りなさいって」
「それも、そうだな。けどよかったな、試合が明日になってよ」
最初は、いきなりトーナメントが延期となったことに驚いたが、今となっては本当にありがたいと思う。
やり方は多少強引だったかもしれないが、龍子には感謝が必要だろう。
「けれど、会長さんはどうして延期にしたんでしょうか。理由などは仰っていませんでしたか?」
「んー? 確か、ベスト八が揃ってないとつまらないとかなんとか言ってたな。一応、五神戦刀祭に一番近い人だし、気になることでもあるんじゃねぇか」
「なるほど。……あ、そうだ。雷牙さん、トーナメントが終わって戦闘祭の選抜メンバーが決まってからでいいので、一度家に来てもらえませんか?」
「お前の家に? なんで?」
「お母様が今回のことで雷牙さんにお礼をしたいそうなので」
「いや、礼なんて別にいいって……」
雷牙は軽く頭をかきながらやんわりと断ろうとする。
別にお礼をしてもらいたくて助けに行ったわけではない。
刀狩者、いやレオノアの友人として彼女を失いたくはなかったし、彼女の悲しむ顔は見たくなかった。
だから別にお礼などしてもらわなくともいいのだが、レオノアは決して譲らなかった。
「いいえ、何が何でも来てもらいなさいとのことです。それに私としても、改めてお母様に雷牙さんを紹介したいですし……」
「なぜに頬を赤らめる。許婚云々は解消してんだからな。忘れんなよ?」
「わかってます。だから、愛人として紹介を……」
「もっと悪いわ!」
思わずツッコミを入れると、彼女は楽しそうに笑った。
ややジト目だった雷牙も、彼女の楽しげな様子を見ていると、肩の力が抜け、小さな溜息を漏らす。
同時に、雷牙の胸の中に嬉しさがこみ上げてくる。それは、彼女の笑顔を失わなくてよかったという安堵が入り混じった感情だったのかもしれない。
「んじゃ、メシ行くか」
「はい。しっかり食べて、明日のトーナメントに備えましょう!」
雷牙とレオノアは、互いにトーナメントの健闘を祈ると、明日への英気を養うため、食堂へと歩いていった。
雷牙とレオノアが食堂へ向かったちょうどその頃、玖浄院、第十アリーナには生徒会長、武蔵龍子の姿があった。
彼女の前には訓練用に配置されたターゲットがいくつか並んでいる。
月明かりに照らされた彼女は、長い白髪も相まって非常に幻想的な雰囲気を漂わせていた。
手に持っているのは日本刀型の鬼哭刀。
しかし、ただの鬼哭刀ではない。
通常、日本刀の長さというのは、柄も合わせて凡そ一メートル前後だが、彼女の持っている鬼哭刀は違った。
刃の長さだけでも彼女の身長を超えていた。
今までのトーナメントで彼女はあえて平均的な長さの鬼哭刀を扱ってきた。
しかし、明日のトーナメントからは、これを持ち出す。
「さて、明日の相手は勇護くんか。気は抜けないなぁ……」
ゆっくりとした口調で呟いた彼女は、ふと柄に手をかける。
刹那、彼女の姿が消えたかと思うと、前方に配置されていたターゲットの背後に回っている。
鬼哭刀は鞘に納まっていて、一見するとなにもしていないようにも見えるが、次の瞬間それは怒った。
ターゲットが全てバラバラに斬り散らされたのだ。
「んー、やっぱりちょっとスピード落ちたかな……。まぁいいや、戦ってれば勘ももどるでしょ」
やや不満げな彼女は、長刀を首にあてがうと肩を竦ませてから訓練場を去る。
歩いていく彼女の背後に散ったターゲットの断片には、なにか煌めくものが付着していたが、やがてそれは露と消えた。
玖浄院、生徒会長。三年D組、武蔵龍子。
またの名を『氷魔の女帝』。




