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探偵マリリン  作者: 霧島勇馬
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第七章 声の正体

第七章 声 の 正 体

 その日は午後になっても、マリリンがスタジオにやって来る気配はなかった。キューカーは頭を抱えた。もう、マリリンが登場しない場面は、ほとんどない。

 アリとクレイグと相談した結果、ついにキューカーは禁断のカードを切った。

「エヴェリン、マリリンの〝背中〟を、代わりにやってくれないか?」

 エヴェリンも、既にある程度の覚悟を決めていた。監督が行け、と言うなら、行くまでだ。

「背中? 背中だけを映すの?」

「そうだ。絶対にカメラに振り向くな。マリリンに成り切って、演じてくれ。あとで編集で、マリリンの声を被せればいい」

 エヴェリンの声は、姿形ほどは、マリリンに似ていない。後で録音したマリリンの声に変更するアフレコ方式なら、なんとかなりそうだった。

「わかったわ。頑張ってみる」

「頼むぞ」

 メーク道具を持って、アンがエヴェリンの側に駆け寄ってきた。ふわふわにカールさせたブロンドの髪を整えてくれた。

 遂にエヴェリンの姿が、フィルムに焼き付けられる。観客がエヴェリンをマリリンとして見つめる。緊張しないわけがない。いや、絶対に、騙し通してみせる。マリリンのためにも!

 リハーサルで、イヴがエヴェリンの体を抱き、口づける。エヴェリンは背を向けたままだ。

「貴方なんて、嫌いよ。もう、知らないんだから!」

 イヴが囁くように、歌う。

「恋をしよう。さあ、恋を、しよう……」

 これまでのハリウッドでのキスシーンは、たいてい二人の横顔を映した。エヴェリンにキスをするイヴの正面からカメラが捉える。なんだかとても、変な気分がした。

 キューカーに呼ばれ、イヴと共にラッシュを見る。悪くない。新鮮なキスシーンになっている。しかし声は酷い。まるで、棒読みだ。

 キューカーが、ポンとエヴェリンの肩を叩いた。

「声は、気にするな。背中全体で、マリリンを演じてくれればいい」

 何度かのテイクで、OKが出た。エヴェリンは緊張の思いで、フィルムを(いじく)るクレイグの側に寄った。

似非(えせ)マリリンの背中は、どう?」

 クレイグが真顔で応えた。

「悪くはない。もっとも、僕ぐらい熱烈なファンなら、すぐにわかるけどね」

 この言葉には、落ち込んだ。どうしても、マリリンファンを騙している感が拭えない。ついつい、言い訳がましい言葉が口を付く。

「背中までそっくりさを求められるとは、思わなかったわ」

「大丈夫。マリリンの声が入れば、皆、声に夢中になる」

 エヴェリンは納得した。そのまま、撮影は終了し、マイクロバスで、ホテルに帰る。

 ロビーを抜け、エレベーターに乗り、六階に降りる。マリリンの部屋の前を通った時、声を掛けようか、迷った。

 ――今日は、止めておこうかな……。

 エヴェリンにとっても、疲れる一日だった。満足のできる一日でもなかった。罪悪感と

不安が、胸に(くす)ぶっていた。

 ――マリリンの声が入れば、誰もあたしだってわからないわよ。大丈夫、大丈夫だって……。

 そこで、ハッとした。いや、ずっと悩んでいた問題に、ようやく当て嵌る解を得た。

 あの日に聞いた、エリックの声……。エヴェリンもマリリンも、エリックを見たわけではない。聞こえたのは、声だけ。それで二人とも信じてしまった。エリックが部屋にいるだろう、と。

 でももし、あの声が録音されたものだったら? 何らかの形で、エヴェリンたちがテープレコーダーの声を聞かされていた、と仮定したら……?

 今、このホテルにいる音響機器の専門家といえば、編集担当のクレイグだ。エヴェリンは一度、フロントで部屋を確認し、クレイグが泊まる810号室のドアを叩いた。

 ドアは、すぐ開いた。クレイグの青い目が、驚きに見開かれた。

「君がこの部屋に用事とは、意外だね。何か、あったのかい?」

「専門家として、教えて欲しいの。テープレコーダーって、ある時間が来ると鳴るように設定できない?」

 クレイグが真顔で脇に寄り、「入って」と、エヴェリンに道を作った。エヴェリンは、大人しく、部屋に足を踏み入れた。

 まるで、自分の部屋に入ったかのような錯覚を感じた。天井の高さから窓の位置、家具が置かれている場所、使われているファブリックまで、エヴェリンの部屋と同じだった。

 男一人の部屋に入った意識は、はっきり持っていた。くつろぐつもりも一切ないので、立ったまま、説明する。

「あたしとマリリンが、エリックの声を聞いた、ってあったでしょ? あれが、もし、テープレコーダーから聞こえたものだったら、あの時エリックは、部屋にいなかったかもしれない」

 クレイグが無表情で見つめている。なんだか怒っているように見えたので、しばらく口を閉じることにした。

 クレイグの顔から強張(こわば)りが消え、いつもの飄々とした表情になった。

「面白い説を考えたもんだな。テープレコーダーか」

「うん! あたしたちが聞いた声が、嘘ならさ、その後にマリリンが、戯れにエリックがいると思い込んで追いかけさせられた点にも、符合すると思うんだ。エリックはずっと、このホテルにはいなかったのよ!」

「いないで、どこに行くんだよ? 翌日には、死体になって窓の外に落ちていたんだぞ」

 じろりと睨まれた故の不安と、もっともな疑問に、一瞬、うっ、と息を呑んだ。

「それは、わからないけどさ。とりあえず、一つ一つ、解決していかないと」

 クレイグの顔が、ふっと揺るんだ。

「同感だ。一つ一つ解決していかないと、駄目だよな」

 エヴェリンは、ほっと安心し、質問を続けた。

「で、どうなの? 時間になったら、スイッチが入るテープレコーダーって、ない? なくてもいいや、作れない?」

「市販の製品で、そういうものは、まだ見ないなあ。でも、時間を設定して、スイッチを入れるやり方なら、いくつか方法を思いつくよ」

「ほんと? やった、大前進だ!」

 クレイグが慌てた様子で、両手を上げた。

「ちょっと待った。君たちがエリックの部屋を訪れたのは、何時何分だ?」

「七時半頃よ」

「頃って、曖昧過ぎるよ。君たちが何時何分何秒に部屋の前に到着するか、事前にわかっていないと、タイマーを付けたって、意味がないだろう」

「何分何秒って……いつ到着するか、わかるわけないでしょ。それに、あの日、リムジンのガソリンが抜かれていたハプニングもあった。時間なんて、いつになるかわからないって」

 自分で説明しつつ、思い描いたトリックが、音を立てて崩れていく様を感じていた。エヴェリンが、がっかりした顔をしたのだろう。クレイグが気の毒そうに微笑んだ。

「君たちがいつ、ドアの前に来るか、完璧に予想しなければ、テープレコーダーにタイマーを付けても、無意味だ」

「ドアの前に誰かが立つと、作動するタイマーとか、ない?」

 エヴェリンも苦し紛れだったが、これにはクレイグが笑った。

「そんな装置が発明されていたら、とっくに誰かが、特許を出願してるよ。僕だって欲しいもの。犯人のように、殺人に使う真似はしないけどね」

 エヴェリンは地団太を踏んだ。

「あたしたちが到着する時間がはっきりわからないと、テープレコーダーで声を聞かせるなんてできないの? 何とかならない?」

 クレイグが静かに首を横に振った。

「ならないね、残念だけど。当日の君たちの行動を完璧に読んで、タイマーを設置するなんて、無理だろう。考えられる有効な手段は、無線による遠隔操作だ。その場合、ホテルに待ち構えていて、君たちの帰宅を待って、テープレコーダーを操作できる」

 だんだん訳が分からなくなってきた。タイマーまでは理解できるのだが、無線操作なんて、エヴェリンの脳味噌のキャパシティを超えている。

「ちょ、ちょっと待ってよ。政府の要人を暗殺するんじゃないんだよ? そんな大がかりな機械を使う?」

 クレイグが涼しい顔で応えた。

「ホテルの部屋の前に、タイマーを作動させる装置を設置するほうが、よっぽど大がかりだろうに」

「そうだけど……そうだけどさ! わかった、そうかもしれない」

 エヴェリンは反撃を返そうとして、はたと我に返った。

 ――クレイグったら、案外こう見えて、頭がいいんだぁ。このまま推理してもらえば、犯人に辿り着くかもしれない。

「何だよ、自棄に素直じゃないか。無線って説が気に入ったのか?」

「うん、ま、そんなところかな。でさ、そうだとして、犯人は、どうやって、部屋の中にあったテープレコーダーを回収できたの? 鍵は部屋の中に残っていたのよね?」

 クレイグが、やれやれと額を叩いた。

「そんなこと、知るかよ。それを言うなら、君の案も同じだ。無線装置が付いたものも、付かないものも、脚を持っているわけじゃない。とことこ歩き出して、窓から飛び降りて、道の側溝にでも落ちてくれれば、上手いもんなんだけどな」

「それじゃ、窓の鍵を閉めた存在は何よ?」

「だーかーら、密室トリックは解かれていないんだって。でも、もう一つだけ、可能性が残されている。その場合、テープレコーダーの回収は不要だ」

 エヴェリンは興奮に、上体を前方に突き出した。

「なになになに?」

「君かマリリンのどちらかが、犯人だった場合だ。もう一人に知られることなく、テープレコーダーのスイッチを入れればいい。ただ、外に立つ君たちが、部屋の中にあるテープレコーダーを操作したとは考えにくい。耳元で鳴らして、部屋の中から聞こえたように誤解させられるか……。でも、ある程度の大きさもある。手に持っていたら、すぐにばれるな」

「もう、何なのよ! 全然、駄目だわ!」

「僕に文句を言われても困るよ。そもそも、テープレコーダーを使用するトリックは、君が考えたものなんだろうが」

「それは……そうだけど」

 クレイグが、ふぅっと息を吐き、目を閉じて首を横に振った。

「エヴェリン、もう忘れろよ。奴が生き返るわけじゃなし。そもそも、エリックはハリウッドの人間ですらなかったんだぜ? 何故、そこまで犯人検挙になんて、協力しようとするんだ?」

 ハリウッドの人間ではない。特別親しかった友人でもない。ただ、マリリンが真剣に愛した男だった。そんな理由だけで、犯人捜しをするなんて、馬鹿げているだろうか?

「あたし……馬鹿なこと、してるかな?」

 クレイグは胸の前で腕を組み、大きく頷いた。

「ああ、大馬鹿だ。女一人でちょろちょろして、犯人の怒りを買ったら、どうするつもりだ? 百歩譲って、君一人の行動だとしよう。でもマリリンが巻き込まれたら、どうしてくれるんだ? この世の至宝を君は危険に晒しているんだぞ」

 エヴェリンは、しゅんと項垂れた。

 そうか……誰も、もうエリックが何故、死んだかなど、理由を知りたがってはいないのか。エリックがいた事実を、誰もが忘れたいのか。

 エヴェリン自身も、どこからこんな激しい欲求が出てくるのか、わからないでいた。真実を追求したい? マリリンの心を救いたい? どれも少し、違う気がしていた。

 ――もしかしたら……あたしも恋をしていたのかもしれない。

「わかった、ごめん。ちょっと考え直してみる。今やっている捜査が、あたしやマリリンにとって、真実必要なことなのか」

「そうしてくれ。よく考えたら、わかるはずだ。エリックは僕らの同朋なんかじゃなかったんだからね」

 エヴェリンはそのまま、静かに部屋を出た。このまま全ての記憶を捨て、部屋に戻ればいい。シャワーを浴びて、すっきりしたら、明日からマリリンがどうしたらスタジオに来てくれるか、考えを巡らせればいい――。

 いや、駄目だ! エリックの問題が片付かなければ、マリリンは立ち直れない。そもそも、マリリンに真っ直ぐ前を向いて、また歩いていって欲しいから、始めた捜査ではないか!

 エヴェリンは、ぽかぽかと自分の頭を叩いた。

「部外者に相談した点が悪かったんだ。そう簡単に諦めて堪るもんですか!」

 今は、早朝なのだろうか、夕方なのだろうか? ベッドの中で、マリリンはぼんやりと考えた。できることなら、時間の概念のない世界へ行きたい。

 その時、ドアを激しく叩く音がした。

「マリリン、マリリン、起きて! 大変な問題がわかったの!」

 エヴェリンの声だった。なんだか、とても興奮している。

 カールの取れた髪を掻き上げ、ローブを羽織って、ドアを開けた。

「お帰りなさい。それとも、行ってらっしゃい、かしら?」

「何を寝ぼけた話してんのよ! これからすぐ、エリックの部屋に行くよ!」

 いったい何を言いたいのか? エリックは……もういない。

「人の死んだ部屋の中で、何するっていうの?」

 エヴェリンが真顔で、短く告げた。

「現場検証」

 右手にはもう、鍵が握られていた。712号室のプレートが下がっている。

 マリリンは思わず、諦めの息を吐いた。

 エヴェリンが親身になって、あれこれ考えてくれている点は、とても嬉しい。当初は、マリリンも積極的だった。

 でも、調べたところで、エリックは帰らない。いっこうに解けない密室の謎に、マリリンは疲れ果てていた。できるなら、エリックがいる世界へ旅立ちたい。

「もう、やめましょうよ、こんなこと」

 エヴェリンの眉が怒りで吊り上がった。

「犯人が見つからなくて、いいの? エリックは死に損でしょうが!」

「警察が調べて、犯人を挙げてくれるわよ」

 エヴェリンが、腰に手を当て、呆れた顔でマリリンを見つめていた。

「警察に任せて、安心なの? 自分から謎を解く決意をしないで、何が、「愛している人でした」なーんて、お涙ちょうだいができるのよ! エリックが、どれだけ苦しい思いで死んだのか、何かあんたに伝えたい言葉があったか、知りたくもないの?」

 言わせておけば、好き勝手に非難して! マリリンも思わぬ大声が出た。

「知りたい! 知りたいわよ! でも、私たちなんかで――」

 エヴェリンが「しぃー」とマリリンの唇に人差し指を当てた。

「あの二人の刑事さん、夜勤はしないみたいでしょ? だから夜は、あたしたちが行動しなきゃならないの。とりあえず、エリックの部屋に、これから入ってみない?」

 マリリンは、黙って頷くしかなかった。

 エヴェリンはマリリンを横から抱える形で、ぴったりと体を寄せて歩いた。

「いったい何日、食べてなかったの!」

「……いいのよ。少し太めだから、食欲がないと、ちょうどいいわ」

 すっぴん顔のマリリンだったが、幸い廊下でもエレベーターでも他の客に見つからなかった。エレベーター・ボーイは、夜勤の黒人になっていた。ふわふわした頭の双子にでも見えたろう。

 エレベーターを降りると毎回訪れる、既視感。七階も同じだった。

 六階でいうとちょうどマリリンの部屋の真上、エヴェリンは振り返り、マリリンに確認すると、鍵を穴に差した。

 カチリと音がし、ドアを開けると、真っ暗だった。

「いやだ、真っ暗だわ」

 マリリンのずれた感想に、エヴェリンは心の中で失笑した。

「部屋の主はいないんだから、灯りを点けてる意味がない。エリックの幽霊が現れたら、あたしは敵意がないって、忠告してよ」

 ようやくマリリンに、今日、初めての笑顔が出た。「わかったわ」

 まず部屋の灯りを点ける。マリリンが、「ひっ」とエヴェリンに抱き着いた。

 やれやれ、たかが電気を点けたぐらいで。男から見ると、放っておけない思いにさせるだろうが。

 当然ながら、もう黄色いテープで、通せんぼはされていなかった。ベッドの上のシーツの乱れが生々しい。ガラス製のローテーブルに、すでに鍵はない。

「まず、鍵がテーブルにあって、窓辺に行っても鍵が掛かったまま」

 エヴェリンは窓を開け、下を覗き込んだ。

「見て見て、こんな高いところから落ちるんだよ」

 マリリンがようやく少しだけ、現実を取り戻してきた。

「止めてよ、見たくないわ!」

「大丈夫だって、暗くて何も見えないから」

「それより、何だってこんな夜に、エリックの部屋に来る気になったの?」

 エヴェリンは、言い難い思いに足を交差させ、重心を移動させた。

「クレイグに相談したのよ。最初にあたしが、テープレコーダーを使って、エリックの声を流し、あの時さも部屋にいたように装った、と推理を展開したの。でも、部屋の中にテープレコーダーを設置したとして、どこにも存在しない」

 ぶつぶつ文句を言いながら、ベッドのファブリックを捲り上げた。

 マリリンが平然と、問い掛けた。

「それで、クレイグって何者なの?」

 エヴェリンは思わず「えっ?」と尖った声を出してしまった。マリリンが、「何か悪い話題だった?」と不安げな声を出す。

エヴェリンはベッドの下から顔だけ上げた。

「あんた、クレイグを知らないの? 編集担当のクレイグ・モスだよ。いつも最後まであんたの映像を見て、不味いところがないか確認してくれている人だってば」

「そんな男がいるの。正直なところ、私は一緒に働く人間たちのファースト・ネームも、ろくに覚えていないわ」

 エヴェリンはクレイグに同情した。

「可哀想なクレイグ! あんなにもあんたが好きなのにさ。大ファンなんだよ」

「……そうだったの。知らなかったわ」

「今度、顔を合わせた時に、声を掛けてやって。きっと大喜びするだろうから」

 マリリンが口の端を上げて、笑顔を作った。

「そうするわ。それより、何か見つかった?」

 そんな甘い考えは持たない。何か証拠があったのなら、警察が全部、回収しているだろう。この部屋の構造が、他の部屋と少し違って、密室になり易いとか。とにかくヒントが欲しかった。エヴェリンはグラスが割れたとされる場所に立ってみた。

「……確かに、こんなところに投げ捨てるなんて、異常よね」

 その時、マリリンが不安げな顔で、天井を見上げた。

「何か、物音がしない?」

「物音? 上の階の人が騒いでいるんじゃない?」

 瞬間、電気が消えた。マリリンが「きゃああ!」と悲鳴を上げ、エヴェリンにしがみ付いた。

 電気はすぐに復活した。何だったのだろう。マリリンが言葉に確信を込める。

「エリックの幽霊よ! エリックが、私たちに何か伝えようとしているんだわ!」

 あいにく、エヴェリンは超常現象の類は信じない。天井をじっと注意深く見つめる。視覚の点では何も変化はないが、音がする。誰かが、四つん這いになって這っているような音? 天井に誰かいる!

 音は部屋の中央から、どんどん部屋の外、廊下側に進んでいく。このまま逃げる気か?

「マリリン、外に出よう。誰かが天井にいて、逃げようとしている」

 マリリンが動く様子がないので、エヴェリンは一人、廊下に出た。ドアの横の壁の上方に、人一人が入れるぐらいの四角い穴が空いていた。つなぎを着た男が、梯子を使って、降りてくる。エヴェリンは、つかつかと男に歩み寄った。

「貴方、あたしたちの上で何してたの? そもそも、この穴は何なの?」

 赤ら顔の男が、ぽかんとした顔で、エヴェリンを見下ろす。

点検(てんけん)(こう)だよ。おいおい、この部屋は無人じゃなかったのかい?」

 穴から出てきた男は、このホテルの検査技師の一人だった。

「俺は、この部屋が今は使われていないと聞いて、今のうちに照明や空調を点検しておこうと思っただけだ」

「照明……空調……?」

 エヴェリンの鸚鵡返しの言葉に、男は眉根を寄せた。

「そもそも、あんたら、何でこの部屋にいるんだ?」

「えっと……この部屋にいたエリックという男性が、何者かに殺されたの。でも、殺された方法が、さっぱりわからなくて、現場検証していたのよ」

 男は一瞬、目を開いたが、次の瞬間、大笑いした。

「現場検証? あんたみたいな若い娘が、こんな時間にやることじゃないだろう」

 そこへ、マリリンが、にゅっとドアから顔を出した。

「ねえ、何の話をしているの? こんな部屋に私を一人にしないでよ」

「エリックの幽霊と一緒なら、寂しくないでしょ? もっとも、さっき灯りが消えた理由は、この人が照明の点検をしていたからだけど」

 マリリンがぽかんとした顔を、男に向けた。男はノーメイクのマリリンに気付きこそしなかったが、たいそうな別嬪が現れたので、顔を赤くしていた。

「この部屋に泊まっていた男は、殺されたのか! じゃあ、しばらくは、使用されないだろうな。噂にもなってるだろうし、俺だって、ご免だ。あ、別に、幽霊を信じているわけじゃねえぞ」

 マリリンが俯き、ぽつりと呟いた。

「幽霊にでもなってくれて、私たちに何らかのヒントを与えてくれれば、嬉しいのに。さっき灯りが消えて点いた時は、エリックの仕業だと確信したのに、残念だわ」

 男はマリリンに見とれて、デレデレになり、頭を掻いた。

「なんか、悪いことしたなあ。でも、そんだけ愛されていたんなら、いい人なんだろう。天国へ行けたさ」

「それよりさ、あんたは、部屋にいた私たちの、すぐ間近にいたのよね? ホテルの部屋の天井裏って、簡単に入れるの?」

「天井裏にある空間は、排気口や、今まで入っていた点検口だな。点検口は、電話や電気の配線、天井を吊るす吊り金物なんかがあって、俺たちが時々点検しているんだ。普段、客が入室している場合は、あんなやり方で不作法に入ったりしないから、安心してくれ」

「そうじゃなくてさ、逆に、誰でも入れるの? その、この部屋が使用されてた時も、入ろうと思えば、入れたの?」

 今度は男が、ぽかんとした。

「別に、鍵が掛かってるわけじゃないしなあ。高い位置にあるんで、梯子を持っていなきゃ、無理だがな」

「ねね、あたしも入ってみていい?」

 マリリンが仰天した。

「エヴェリン、気は確か? 専門家が出入りする口なのよ!」

「でもさ、この穴から入って、部屋の中央位置まで行くとするよね。もし、あたしたちがこの部屋に向かうとわかっている人間がいたとして、先回りして、この穴から侵入していたと仮定したら、どう? テープレコーダー説も、まんざら馬鹿げた話ではなくなってくるかもよ?」

「私たちは、待ち伏せされた恐れがあるのね?」

「そうそう! リムジンのガソリンが抜かれていた事実を考えても、やっぱり撮影関係者に近い位置に、犯人はいるんだよ! あたしたちがこの部屋の前に立った時、天井裏で、テープレコーダーのスイッチを入れた」

「ガラスが割れる音もしたわ」

 エヴェリンは、ぽんと頭を叩いた。

「そっか。部屋の中に実際に入らないと、ガラスは割れないよね」

 エヴェリンは男に簡単に、ガラスが割れる音がして、実際にガラスの破片が部屋の中から見つかった事実を話した。

「場所にもよるけど、可能といえば、可能だ」

「ほんと?」

「ああ、点検口から部屋に通じる穴があるんだよ。人一人が辛うじて通れる小さな穴だけどね。テープレコーダーも、その穴から、部屋の空間に下ろしたほうが、部屋の内部から聞こえてきた、って感じになると思う」

 エヴェリンは、どんどん自分が興奮してくる状況がわかった。これは確かめずにいられない。

「お願い! 中に入らせて! 規則で無理なら、黙っててくれるだけでいいから!」

 男は困った顔で、頬に手を当て、エヴェリンを頭から爪先まで、じぃっと見た。

「その恰好じゃ、無理だな。あちこちに釘が出ているし、蜘蛛の巣だって張ってるんだ。スカートで膝を出した状態で入ったら、とんでもない顛末になるぞ!」

 それでも男の話を聞いたら、是非とも、点検口の中を見たかった。エヴェリンは男から、作業用のつなぎを借りた。

 汗臭いし、汚いが、仕方がない。むざむざ怪我をするわけにいかないし、着ていたワンピースがもう二度と着られなくなるほど、汚れても困る。

 エヴェリンは調子に乗って、くるりと一回転した。

「どう、似合う?」

 マリリンが無言、男がシニカルな笑顔を作った。

「ああ、似合う、似合う。さっさと済ませちまおうぜ」

男に梯子を立て掛けてもらい、上っていく。中に入る前に、マリリンに指示する。

「ガラス片が落ちてた位置に、立っていてよ。点検口からその位置に、グラスを投げつけられるか、知りたいから」

 マリリンが真顔で頷いた。

「わかったわ。エヴェリン、気を付けて」

「わかってる」

 できれば、男に先導してもらいたかった。だが、二人の人間が入るほどのスペースは、ないらしかった。

 代わりに男が、部屋の中から、天井に棒を当て、音と振動で先導する展開になった。男がエヴェリンに懐中電灯を差し出した。

「なるべく足元を照らせ。足を傷つける事態が一番、不味い」

 エヴェリンは軽く敬礼し、点検口に頭を突っ込んだ。

 むんと空気が籠り、何とも不快な空間だった。四つん這いになれば、頭が天井にぶつかる心配はない。作業員が体格の良い男性だと設定されているからだろう。

 完全に体が入ったところで、下を叩く。

「聞こえる? 入ったわよ!」

 コツコツと下を叩く音と、振動がした。男の声も充分に聞こえる。

「入口付近には電話線がある。引っ掛からないように注意してくれ!」

「了解―!」

 足元を照らすと、太めのケーブルが伸びていた。慎重に手と膝を前に出す。手はすぐに、埃にまみれた。たぶん、真っ黒だろう。

「あいた!」

 不意に頭が、太い金属の棒にぶつかった。これが、男の言った吊り金物か。慌てて顔を背けると、べちゃっとねっとりしたものが貼り着いた。蜘蛛の巣だ。

「ひゃーー!」

 マリリンの「大丈夫―?」という声が聞こえる。不安にさせちゃいけない。エヴェリンは空元気を出して、声を上げた。

「蜘蛛の巣―! 腹立つわー!」

 点検口なんかに入ろうとした勇気が呪わしい。手足は真っ黒、髪はべとべと、口の中には蜘蛛の糸が入った。

 ――これは、一回シャワーを浴びても、汚れは取れないわね。

 今すぐ外に出たかったが、早い話が後悔していたのだが、マリリンを前にして、がっかりはさせられない。

 それに、犯人がここを通って、部屋の中に体や手を出せるのなら、事態は大きく進展する。エヴェリンはありったけの声で、叫んだ。

「マリリンは、ガラスが割れた位置にいて! 技師さんは部屋に通じる出口とやらに、あたしを誘導してちょうだい!」

「わかったわ!」

「了解だ!」

 四つん這いのまま、男が示してくれる振動と音で、部屋中央に進む。男の声がした。

「もう少しだ! あとちょい、右」

 男が何度か、特定の位置をとんとんと叩く。

「ここだ、ここに出口がある」

 到達するまでには、大きな吊り金物をぐるりと一周する必要があった。その間、蜘蛛の巣が口の中に入った。

「げぼ! さ、最悪!」

 ペッと吐き出すと、粘着物と一緒に、大きな蜘蛛が口から出た。

これは墓場まで持っていく秘密としよう!

「どうしたのー?」

マリリンの気楽な声に、「何でもない!」とだけ応じ、男が指示している板の前まで、辿り着いた。

「着いたわよー! どうすればいい?」

「取っ手があるんだ。見えないかぁ?」

 懐中電灯の灯りを、重点的に照らす。板の上に、大きなフック状の金具が付いていた。

「これ、どっち向きに開けるのぉ?」

「手前だ!」

「了解!」

 両手を金具に掛け、思い切り引っ張る。……びくともしない。

「駄目! 開かないよ! なんかコツはないの?」

「頑張れ!」

「頑張って! エヴェリン!」

 ……頑張るしかないのか……。

 腰の位置を下げ、立膝で重心を利用し、懸命に金具を上げる。

「ひぃいいぇええええええいいいい!」

 我ながら情けない掛け声だったが、力は入った。がたんと音がし、下の光が僅かに見えた。

「やった! 開いた!」

 光が漏れる四角い穴のすぐ下に、マリリンが立っていた。

「マリリン、ガラスが割れた場所に立って!」

「だから、ここよ。ここにガラスが割れていたの!」

 これで、一つの大きな謎が解けた。やはり、エヴェリンたちは待ち伏せされていた。犯人は点検口から入り込み、この部屋に通じる空間を開いた。もう一度梯子を使って部屋に降りる面倒は起こさず、この穴からテープレコーダーを下ろし、エヴェリンたちにエリックの声を聞かせた。直後、この穴から床めがけて、グラスを叩きつけた。

「やった、テープレコーダーの謎を解いたわ!」

 男が腰に手を当て、呆れ顔でエヴェリンを見上げた。

「もういいだろう、早くつなぎを返してくれよ。ここの点検が今日の最後の仕事だったんだから」

 エヴェリンは、ぺろりと舌を出し、男に向かって手を振った。

「わかったって。ありがとうね!」

 元来た道を忠実に戻れば、もう蜘蛛の巣に捕まることもないだろう。

 点検口から生還したエヴェリンに、マリリンは駆け寄った。汚れるなんて関係なかった。

「エヴェリン、やったわ! これで一つの謎が解決ね!」

 抱き締めようとすると、エヴェリンが抵抗し、真っ黒になった掌をマリリンに見せた。

「わかったから、今、抱き締める真似は止めておいて。シャワー浴びて、ゆっくりね」

 とりあえず部屋のバスルームでつなぎを脱ぎ、男に返した。男は安堵の顔で、受け取った。

「良かったよ、怪我がなくて。でもこの件はホテル側には秘密だぞ。客を危険な目に遭わせたなんて知られたら、解雇されちまう」

 マリリンは意外な思いに、目を開いた。

「何を言うの? 事件解決に一歩前進させてくれたんじゃない。私たちから感謝状を贈りたい気分だわ」

 男が陽気に笑った。

「ははは、気持ちだけ、受け取っておくよ。じゃあな」

 男はそそくさと、廊下を歩いて去って行った。マリリンはエヴェリンと、男の背中を追った。

「……この部屋に、エリックはいなかったのね」

「そうみたいだね。でも、どこに行ったんだろう?」

 マリリンは重たい思いに、俯いた。

「ずっと、私の部屋にいたのかしら……それで、夜中の二時半に飛び降りた……」

「でも落下音は二時にしてるんだよ」

 もう一回したのに、誰も気付かなかったのか? とりあえず、密室の謎は大方解けた。712号室には、室内には誰もいなかった。犯人はマリリンたちを待ち伏せて、エリックの声を聞かせた。エリックがこの部屋に閉じこもっていると思い込ませて。

 更にはその後に、マリリンにエリックとの戯れを誤解させた。これらが意味するものは何だろう?

「エリックは……ずっと私の部屋にいたのかしら」

「それで、二時半に、音も立てずに落下し、死亡した?」

 そんな真似ができるのだろうか? この謎はなかなか解けそうにない。今はこの謎は置いておいて、果たして、誰が犯人なのだろうか?

「エヴェリンは、誰が犯人だと思う?」

 エヴェリンが、顎を引き、強い調子で告げた。

「一番怪しい人間は、やっぱりアーサーだよ。最初からアリバイがなかった。ずっと執筆活動をしていたんなら、時間はいくらでもあった」

「それなら共犯者がいるわね。私たちがどのぐらいでホテルに到着するか、撮影現場から電話で知らせないとならない」

「イヴだったら、一人でできるね。スタジオでも一緒だし、先に帰って、あたしたちを待ち伏せすればいいんだから」

 イヴと不倫関係に陥っていたマリリンには、できればイヴが犯人であって欲しくなかった。

「スタジオにいた人間全てが怪しいわ。午前二時のアリバイは、意味をなくしているでしょ?」

「……そうだね。あたしも二時にはアリバイがあった。でも、二時半となると、眠っていたとしか言えないから、アリバイはない」

 マリリンは静かに頷いた。

「それを言うなら、私も一緒よ。ずっと眠っていたんだもの。私の部屋から飛び降りた線が有力なままなのは、確かだし」

 エヴェリンが、ポンと肩を叩いた。

「とにかくさ、あたしとあんたの可能性は外して、アーサーとイヴの動向を少し探ってみない? 今までろくに捜査されていないんだから。あたしたち相手なら、あちらさんたちも油断するだろうし」

 そこでエヴェリンが、「あっ」と声を上げた。

「どうしたの?」

「クレイグから言われてたんだよねえ。マリリンを巻き込むなって。万が一危険な目に遭ったらどうするんだってね」

 マリリンは、ぎゅっと拳を握り締めた。

「今の私は、エリックの死の真相を知る以外、生きている意味がないのよ」

 目の前に突き付けられた撮影もある。イヴと体を温め合う真似もする。でもどれも、料理のスパイス程度のものであって、マリリンを生かしている活力は、エリックの恨みを晴らすという強い強い熱意だけだった。


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