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探偵マリリン  作者: 霧島勇馬
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第六章 もう一人のエリック

第六章 もう一人のエリック

 エリック・ドノバン変死事件が収束して、三週間が経過した。ロス市警の殺人課は、天手古舞の忙しさだった。ハロルドもアダムも、再び多忙な日々に身を置くようになった。

 ハリウッドのセックス・シンボルと親しく言葉を交わした過去も、じきにいい思い出になるだろう。

 ハロルドは、腰痛を騙し騙し、現場検証に立ち会ったりしたせいか、昨日から歩く動作すらも辛くなっていた。アダムが沈痛な声を上げた。

「早く腰、治してくださいよぉ。マックと組ませられているんですが、全然、話が合わないし、()き使われるし、失踪したくなります」

 話が合わず、扱き使われる点だけがネックなら、ハロルドとのコンビと大差ないだろうに。

 思い切り尻を引っ叩いてやりたかった。だが、反動が腰に来る。軽いタッチ程度に肩を叩いた。

「どこかに玄人女としけ込んで、自慢の腰を思いっ切り振るんだな。俺と同じ、腰痛になったら、二人仲良くデスクワークだ」

「女遊びが過ぎたせいで、痛めたわけじゃないでしょ。大家の小母さんの部屋の模様替えを手伝って、箪笥を動かして腰を捻ったくせに。知ってるんですから」

 今度は容赦なく、腰を浮かして、頭を叩いた。しかし逆にハロルドが悲鳴を上げた。

「痛ててて」

「大丈夫っすか? 無理しちゃ駄目ですよ」

 ――こいつの鈍感ぶりは、一種の才能だな。

 マリリンも、アダムの何百分の一かの鈍感さがあったら、あそこまで苦しんではいないはずだ。

 もう手を引いたといえ、本物のマリリンと会い、言葉を交わした。目の奥に、耳に、マリリンの容貌と愛らしい声が刻み込まれている。簡単に忘れるなんて真似は、できそうにない。

 嫌な視線を感じ、振り返る。ケリー警部が、じぃっとハロルドを睨んでいた。ハロルドは、「よいしょっ」と意味不明な言葉を発しながら、デスクの上に山となった書類の整理を開始――しようとした。

 どこからか、早口の、しかも怒ったようなフランス語が聞こえてきた。

 声に振り返ると、真っ白な頭をした、背の低い老婦人が何やら捲し立てている。相手をしている刑事に、老婦人のフランス語がわかっているとは思えない。

「よいしょっ」と、今度こそ気合いを入れて、立ち上がった。コルセットを押さえながら、被害に遭っている刑事の横に立った。

「何事だ?」

「ハロルド、助けてください。なんか、ご機嫌を損ねたみたいで、英語を話してくれなくなったんですよ」

「最初は英語で話していたのか?」

「ええ、凄い訛りがありますけど。そこを指摘したら、英語を話してくれなくなっちゃって……」

 これがアダムなら、頭をぽかりと叩いてやるところだ。

「訛りなんか指摘して、何を考えてんだ! 異国の地で、わざわざ情報提供に来てくださったんだぞ」

 口にしてみたところで、気づいた。この老婦人が何をしに来たのか、まだわからない。財布を盗まれて、被害届を出しに来たのかもしれない。

「えー、失礼、何しにいらしたんですか?」

 今度は英語で返ってきた。確かに酷い訛りだが、聞き取れないわけではない。

「だから、情報提供よ。イヴ・モンタンの付き人が死んだ事件を担当されている人は、どなたなの?」

 ――オー、マイ・ガッ! なんてことだ!

「こんなに素晴らしい英語をこなせる方じゃないか! 何を怒らせてるんだ!」

 危ない、危ない。この件に関して、新たに情報が提供されるなんて、思ってもみなかった。情報のいかんによっては、捜査もまた動く。

 ――このまま怒って帰っていかれたら、どうなっていたか!

 横の刑事を叱り付け、老婦人には笑顔を見せる。

「担当は私です、ハロルド・テイラーです。ささ、どうぞ、こちらへ」

 老婦人は、英語を褒めたハロルドに好感を持った様子だった。ハロルドに体を寄せて、とことこと従いてくる。

 そのまま、奥に設置されたソファを勧め、ハロルドは向かいに座った。

 刑事として証人と接してきて、基本的に女性は話し好きが多いと感じていた。

 今回、情報提供をしてくれる老婦人も、話し好きの一人だった。ハロルドが質問しなくても、ぺらぺらと喋ってくれた。

 老婦人は、フランソワーズ・ランバール・カーターと名乗った。

 フランスからの団体観光客は、もうとっくに帰国したはずだが。素直な疑問にマダム・カーターが応えた。

「私はパリから、団体さんと一緒に来たんだけど、途中で抜けて、アメリカの親戚の元を転々としていたのよ」

 ハロルドは話し易くなればと、さも納得といった顔を意識して頷いた。

「なるほど、ご親戚のところにいらしたわけですか。ご兄弟がアメリカに渡っていたとか、そんな話でしょうかね」

 人と話していて、気を付けなければならない点は、相手に「どこまでなら聞く耳を持つよ」と知らせることだ。何時間でも、どんな不平不満でも聞いてくれると思われると、とんだ蟻地獄に嵌り込む。

 ハロルドは間違いを犯した。マダム・カーターのスイッチを入れてしまった。

「私は、もともとはフランスのパリ郊外の生まれなんだけど、嫁いだ旦那が、アメリカ人だったのよ。パリのアメリカ人。そんな映画があったわよね? 一九二〇年代には、パリに外国人が多かったの。夫のカーターとは、運命的な出会いをしてね――」

 淀みなく話すものだから、相槌を打つ真似も苦労だった。

「――それで私も、英語を話すようになったんだけど、子供たちの教育はどうしようかって、迷ったわけなのよ。ほら、世界的に活躍するには、まず、英語を話せたほうがいいでしょ。別に特別な存在にならなくていい、世界に向かっていくとき、不安がないようにね――」

 新婚時代の話が終わって、子育ての話。いったい、いつになったら、イヴやエリックは出てくるのだろう?

 ハロルドは、ひたすら喋り続けるマダム・カーターが息を吸った短い瞬間、何とか話に割り込んだ。

「マダム、ご家庭の事情や、ご夫婦の仲睦まじいお話はいいのですが、イヴ・モンタンや死んだエリック・ドノバンと関係のある話から、先に話していただけませんか?」

 マダム・カーターが、皺の寄った唇を、不満げに窄めた。

「私は、ただ、エリックが何故エリックという名前になったのか、教えてさしあげようと――」

「エリック? エリック・ドノバンとフランス時代からお知り合いだったんですか?」

「いいえ、今回の団体旅行でハリウッドに来て、初めて会ったのよ。私が言うエリックは、孫のエリック。私、マリリンが「エリックはどこ?」みたいな声を出したから、つい「エリックなら、あっちへ行ったわよ」と応えちゃったの」

「マリリンは「エリックはどこ?」と、貴女に尋ねたんですか?」

 マダム・カーターが首を横に振る。

「違うわ。あの日、ロビーは混雑していたんだけど、人混みの中にいるエリックに呼びかけている感じだったわ」

 ハロルドは息を呑んだ。マリリンが主張していた通り、エリックとのかくれんぼが始まったわけか。

「マリリンとは前日に、お会いしててね。抱き上げて、あやしてくれたりしたから、つい、孫のエリックに用があるのかと思っちゃったの。でも、マリリンが探していた人物は、イヴの付き人のエリックだったのよね」

 エリックは二人いた……! マリリンがエリックと子供っぽい遊びをしていた時、その場に、もう一人のエリックがいたとは!

「お孫さんのエリックは、歳は、おいくつなんですか?」

 マダム・カーターが、デレデレの笑顔で応える。

「三歳と五カ月。冒険好きでね、気を付けていないと、大人が知らない場所に、あちこち行っちゃうの。何しろ、私に似て、好奇心が旺盛だから――」

 もう、話の腰を折る罪悪感は覚えなくていいだろう。話が先に進まない!

「マリリンは、お孫さんに気付いてらっしゃいましたか?」

「……さあ、どうかしら。孫は相手してもらっていると思い込んでいたけど。かくれんぼみたいにしてね」

「かくれんぼぉお?」

 いや、驚いたの、驚かないの、思わず口をあんぐりと開けた。マダム・カーターが不思議そうに首を捻る。

「そんなに特殊な遊びかしらねえ」

 その時マリリンは、二人の人間とかくれんぼをしていたことになる。……いや、フランスのかくれんぼは、特殊なルールがあるのかもしれない。声が上擦る。

「ど、ど、どんなルールなんですか!」

「一般的には、鬼が一人いて、数を数えるのよね。その間に、参加者は、思い思いの場所に隠れる。鬼に見つかっちゃったら、アウト。でも孫は、まだ三歳だから、大人が全力で遊んであげないと怒るのよ」

「と、いいますと?」

「スカートの裾を引っ張って、気づかれたかと思ったら、走って隠れる。そんな繰り返しよ。でも、あの夜、孫はスカートを引っ張るよりも、マリリンの気を引く物を持っていたの」

「なんですか、それは?」

「子供って、ちっちゃくてキラキラしてるもの、好きでしょ。小さなアクセサリーをいくつか持っていたの。カフスボタンとかネックレスとか、あとは、何があったかしら……。そうそう、指輪もあったわね。それらを一つずつ、マリリンの身近に置くのよ。それで、隠れるの。マリリンはエリックを探して、きょろきょろ辺りを見回すでしょ。近づいてきたら、もう一個、落として、また逃げるの」

「それをマリリンが拾い、また追いかける」

 マダム・カーターが嬉しそうに手を叩いた。

「そうそう! だから私、てっきりマリリンは孫と遊んでいてくれたのだとばかり思ったのよ。そのうち孫も飽きてきて、私の元に戻ってきたけれど、その時には、手の中に何も残っていなかったわ」

「その、カフスボタンとかネックレスは、誰かから貰ったんですかね?」

 マダム・カーターが、「それを言いたかったのよ!」と声の調子を上げた。

「私、見ちゃったのよ! 黒い髪に青い瞳の男が、ハンカチに包んだキラキラを孫に渡しているところを! 男はフランス語で、「これでマリリンと遊んでおいで」と言ったのよ」

「確かですか!」

 ハロルドが上体を前に倒し、顔をマダム・カーターに近づけた。マダム・カーターも、ぐいっと首を伸ばし、ハロルドに顔を寄せた。

「確かよ。私は、フランス語のほうが得意なんですから。ただ、ネイティブの発音じゃなかったわね。イギリス訛りというのかしら、ええ、イギリス人だと思うわよ」

 イギリス人で、黒い髪に青い瞳、フランス語が話せる。おまけに、手渡した品物は、エリックが身に着けていた小物ばかり。

 ――エリック以外に、考えられないな。

 かくれんぼのルールを勝手に変えたのか? 子供を入れて遊んだほうが、楽しいと踏んだのか?

 するとマダム・カーターが、驚くべき意見を述べた。

「エリック・ドノバンじゃなかったわよ。事件の記事が掲載されたタブロイド紙で、写真も見たから。こうやって特徴を話したら、似ているって勘違いするかもしれないけれど、全然、別の人。だってエリック・ドノバンは、イヴの付き人だったんでしょ?」

「そうですが」

「なら、違うわね。イヴの近くにいるとね、洗練されていくの。本物のパリジャンになるものなのよ。そういう影響力の強い人なんだから。それに、スターを目指していたんでしょ? でも、あの男には、そんなオーラはこれっぽっちもなかったわ。どこから見ても、冴えないスコットランド人みたいだった」

「似顔絵描きに協力してくれますか?」

「いえ、無理無理。斜め後ろからちらりと見ただげだもの。私が見たものは、その男のオーラ、オーラが全然なかったことだけ」

 ハロルドは腕を組み、むぅと唸った。マダム・カーターの直観を、そのまま信じていいものか?

 残念ながら、面通しをさせる容疑者すら、上がっていない。

「事故が起きて、あの夜の事態を理解してから、なんか気味が悪くてね。だって、エリック・ドノバンは、あそこには、いなかったんだから。なんだかまるで、孫のエリックに、かくれんぼをさせて、エリック・ドノバンが、あたかもそこに存在するように装ったんじゃないかって」

「エリック・ドノバンは部屋から出ないままだった、と?」

 マダム・カーターが、これ以上には伸ばせないほど、首を伸ばし、口元に手を当て、囁いた。

「私、思うのだけどね、エリック・ドノバンは本当にあの時、存在していたのかしら?」

 自然、ハロルドも声を顰める。

「どういう意味です?」

「もう、死んでたんじゃないの? 孫にくれたアクセサリーは、きっと死体から奪い取ったのよ」

 ハロルドは呆気にとられて、またもや口をあんぐり開けた。

「午前二時に、六階の部屋から飛び降りた、という見解を、警察は持ってますが」

「だったら、死体を午前二時に落としたのよ!」

 凄い女性だ。まるで、ミス・マープルだ! 案外、故国のフランスでも、斬新な発想で人々を驚かせているのかもしれない。

 ――大したお婆ちゃんだ。ロス市警にスカウトしたいぐらいだ。

 しかし、惜しいことに、鑑識が出した死亡推定時刻がある。死亡推定時刻は、午後十一時から午前三時。

 マリリンとエリックが、かくれんぼをしていた時間は、午後七時半。どうしても無理がある。

「マダム、残念ながら、死亡推定時刻は、鑑識が遺体の直腸の温度から逆算しています。いくらなんでも、七時半に死んでいた、という論理は、無理がありますよ」

 否定されても、マダム・カーターの機嫌が損なわれる事態にはならなかった。

「ふーん、残念ね。面白い説だと思ったのだけど」

 ハロルドは素直な感想を述べた。

「いや、実際、面白い説ですよ。貴女のような発想を、警察はもっとしていかなきゃいけない」

「明日、帰国しますの。その前に、警察で全て話して、すっきりしたかっただけだから、別にいいんですのよ。犯人、捕まえてくださいね、絶対に! 何しろ、うちの孫に犯罪の片棒を担がせたかもしれないんだから!」

「大いに参考になりました。必ず、犯人を挙げます。約束します」

 後半の推理は別として、大きな新証言だった。マリリンは、エリックと戯れていたつもりでいたが、同名の子供に振り回されているだけだった。ならば、エリックはその時間、何をしていたか?

 この件をケリーに告げれば、事件は動く。捜査を再開させられるだろう。アダムも、またマリリンに会えると喜ぶだろう――どうでもいい話だが。

 マダム・カーターが、立ち上がりかけ、黒い革のバッグから、ハンカチの包みを取り出した。

「参考になるかわかりませんけど、孫が翌日、母親との早朝散歩の時に、ホテルの前で見つけたんです。キラキラしてるから、興味を持ったんでしょう。その時は車のボンネットに死体が乗ってるなんて知らなかったから、平気で路上をうろうろしていたらしいんですけど。なんか気味が悪いから、刑事さんにお渡ししておくわ。本来なら、警察が発見するはずのものだったでしょうから」

 ハンカチを広げると、金属製の懐炉、同じものが二つあった。

「一月の寒さに、懐炉を使う人がいる点はおかしくはないんだけれど、同じものが二つも落ちていたってところが気になって。こんなもので、捜査が進展するなんて思わないけれど、取っておいてくださいな」

 捜査が進展しない、だって?

 ハロルドは、天啓を受けたように全身が震えた。懐炉が二つだけでなく、もっと大量にあったら? 遺体を大量の懐炉で温めていたら?

 ――直腸の温度に由来する死亡推定時刻に、ずれが生じる!

 ハロルドはマダム・カーターを振り回さんばかりに、手を握った。

「ありがとう、マダム! 貴女は僕の、ミス・マープルだ!」

 上役を立てて、まず、ケリーに報告に行くか。一刻も早く、正確な死亡推定時刻を知るため、検視官室に走るか。

 ハロルドは、検視官の部屋に走るのではなく、ゆっくり向かう道を採った。忌々しい腰痛がこれ以上に悪化したら、捜査再開となっても、メンバーに加えてもらえないかもしれない。それだけは避けたかった。

 検視官室に向かうにつれ、廊下は薄暗くなり、壁の汚れも目立つようになる。ここに血飛沫が現れても、違和感はないだろう。

 薄暗い廊下を抜け、汚いドアを開けるまでが、現実世界から死者の世界へ足を踏み入れる儀式の一つのようだった。ハロルドは、こういった雰囲気が嫌いではない。

 何しろ、ロス市警の司法解剖医は、名物小父さんだった。クラーク・ケントという、嘘のような本名を持つ、白髪の男だった。

 今のところ、一度もスーパーマンに変身する機会もなく、与えられた部屋に閉じこもっている。スーパーマンにも、定年はあるんだろうか?

 ドアを開けて、部屋に入ると、クラークは細長いミミズを縦に割き、内臓を取り出していた。ハロルドが立てた物音に、眼鏡をずり下げ、上目づかいに睨んだ。

「何か用か?」

 ハロルドは精一杯の早足で、クラークの前に立つと、金属製の懐炉二つを、ごろんとデスクに落とした。

「これが大量にあったら、死体の死亡推定時刻を操作できないかな?」

 クラークの濁った灰色の瞳が、怪しく光った。

「イヴ・モンタンの付き人の件だな」

 この事件、見る側の思い入れによって、さまざまな肩書がついていた。アダムなら、「マリリンの事件」、ケリーは単に「ハリウッドの一件」、ハロルドの「エリック・ドノバン落下事件」が一番まともな気がする。

 クラークが、白い手袋を嵌め、懐炉を持ち上げる。

「死体を温めるのか。最初に発表した死亡推定時刻は、どうだったかな?」

「午後十一時から、午前三時。これを大幅にずらす真似は、できんか?」

 クラークが、目を開いた。

「大幅に? 確かに、死体を温めたら、死亡推定時刻は後ろにずれる」

「後ろに? 午後七時半より前には、ならんのか?」

「お前さん、素人か? 人の体は命を失ったと同時に、冷えていく。死体を温めるとは、冷えを抑える、という意味だ。つまり、死亡推定時刻は、午前三時よりも後ろにずれるんだ」

 ハロルドは、思わず額を掌で叩いた。マダム・カーターの言葉に、振り回され過ぎた。

「死亡推定時刻を前に持ってきたかったら、ドライアイスや氷がお勧めだ。溶けてなくなるから、懐炉のような証拠も残らない。肛門に突っ込んでおくと、死体が冷えて、警察を大いに混乱させられる」

「まるで犯人候補生に勧めるような言い方するなよ。間違いは素直に認める」

「懐炉で時刻をずらそうとした理由はわからんが、証拠が残っただけで、よしとしないとな」

 ハロルドは、大きく息を吐いた。前向きに考えよう。前にではなくとも、時刻にずれが生じる可能性は一応あるわけだ。

 懐炉を使った人間が犯人なら、何らかの意図が、必ずある。

「わかった。前にずれようが、後ろにずれようが、いい。発見された時刻が、翌日の午前六時だ。それまでの間、寝袋に死体を入れて、大量の懐炉を入れといたら、結構なずれが生じると思うんだが」

「……ちょっと待ってくれ、計算してみる」

 デスクの横にある黄ばんだノートを引き寄せ、白いページに数式を書きこんでいく。ハロルドは興奮で、じっとしている真似も苦労だった。

 ハロルドは、デスクをバンバンバンと叩いた。

「どうだどうだどうだ? 死亡推定時刻は、どのぐらいずれる?」

「皮膚に(じか)に当てると火傷する代物だ。毛布でくるんだ遺体の上に置いただけでは、局部が熱くなるだけだ。寝袋の中の空気を温めるのが一番、効果的だろう。頭部近くに二か所、腹脇に二か所、足元に四か所。それで密封する。寝袋の中の空気の量と、この手の懐炉で空気がどれだけ温まるか……。実際に実験をしてみないと、正確な数値は出ない」

「正確でなくてもいい。可能性を知りたいだけなんだ!」

「うるっせえなあ……」

 しばらく沈黙の中、クラークが鉛筆を紙に走らせる音だけがしていた。

「うーん、一応、計算できたぞ。結論。三時間半ってとこだ」

 ってことは……三時間ずれるから午前三時が、午前六時になるのか……。

 そこで異常な違和感を覚えた。

「ちょっと待てよ? じゃあ、午後十一時が、午前二時半になるのか? 落下した音と、符合しなくなるだろうが!」

 クラークが、ふむと鼻を擦った。

「落ちて、三十分後に死亡したんだな」

「んな、馬鹿な! 死因は墜落死だろう!」

「俺に文句を言うなよ。俺が殺したわけじゃない」

 ハロルドは考え込んだ。これで事件はより複雑になった。というか、わけがわからん!

 ならば二時に起きた音は、何が原因だったんだ? 二時より後に落下したのなら、何故誰も、音を聞いていない?

 遂にハロルドは頭を抱えた。

「こんなことなら、懐炉を見つけるんじゃなかったよ」

 クラークが、ノートに記した「午前二時半」の字を円で何度も囲った。

「でも、新たな展開になっただろうが。懐炉で死体を温めていた犯人が、存在する。それと、犯人はお前さんが当初、勘違いした、浅はかな目的ではないにしろ、死亡推定時刻にずれを生じさせたかった」

 ハロルドは、ハッとした。

「犯人が、午前二時に、何らかの形で、物音をさせたとするよな。午前二時にアリバイを作っておけば、それ以後にガイシャを殺す機会があったとしても、見過ごされる」

 クラークがニヤリと笑う。

「そういうこと。犯人は警察を嘲笑いたがっているのかもしれん。午前二時に墜落した男が、三十分以上も生きていたんだからな。だから、懐炉と寝袋――部屋に置いたままだったら、布団を被せておいてもいいが――を使って、あり得ない時間を算出させ、かつ、自分のアリバイを確保したんだ。つまり、新しい死亡推定時刻、午前二時半から午前六時に、事を起こした可能性が高い」

 つまり、午前二時にアリバイがあった人間が、むしろ怪しいのか。これは驚くべき新展開だ!

 犯人は、ロス市警に挑戦状を突きつけている。この戦い、逃げるわけにはいかない! ロス市警のプライドに懸けて、犯人を検挙しなければ! 

ケリーも捜査再開を許可してくれるだろう。

 ハロルドの期待通り、捜査は再開された。それも、事故、自殺の可能性を排除し、殺人課が動く展開となった。

 三週間という長い時間が経っていたため、撮影が終了してしまい、容疑者たちが散り散りバラバラになっている可能性があった。

 しかしマリリンの遅刻癖が相変わらずで、撮影は遅々として進んでいなかった。撮影スタッフには嬉しくない状況だろうが、ハロルドたちは助かった。

 アダムなど、マリリンとまた会える喜びと、マリリンが抱えている不安を思い、複雑な心境らしかった。

「普通、スタジオだけで撮る映画は、六週間程度、撮影に掛けるんですよ。でもマリリンが絡む映画は、その三倍、時間が掛かると聞いてます」

 ハロルドも、重い息を吐いた。

「エリックの死で、精神は更に不安定になっているだろうからな。せめて、犯人を挙げて、安心させてやりたいな」

 三週間ぶりにハロルドたちの顔を見たスタッフで、好意的に迎えてくれる人間は少なかった。皆、エリックは自殺したと確信し、気持ちを切り替えていた。今更また、誰かに殺された可能性がある、なんて考えたくもないだろう。

 アリバイのある人間は、平然とした顔をしていたが、今日ここまでだ。今までの調査の結果、アリバイがある人間のほうが、怪しいとわかったのだから。

 スタジオに入ると、レオタード姿のマリリンが駆けて来て、アダムではなく、ハロルドに抱き着いた。

「ありがとう、ありがとう! あの人の死を、自殺なんかに片づけてくれなくて!」

 柔らかで弾力のある、温かい肉体を密着させられたら、男は堪らない。

 ハロルドは、大袈裟に仰け反った。

「抱き合うなら、アダムとやってください。僕は腰に爆弾抱えていて、禁欲中なんですよ」

 マリリンが陽気に笑い、「それじゃ」と、アダムをぎゅっと抱き締めた。アダムの顔は真っ赤で、締まりのない顔が、更にだらけていた。

 マリリンがハロルドたちの手首を掴み、セットの近くに連れて行く。なんとマリリン直々に、パイプ椅子二脚を設置した。

「さあ、座って。ここからだと、撮影がよく見えるわ。どうか、私が失敗しないように、心の中で応援して。静かにしていれば、キューカーは何も言わないから」

 前回、キューカーに怒鳴られた件を思い出し、耳が熱くなった。アダムときたら、すっかりマリリンの精神の支柱になったつもりだった。

「マリリン、大丈夫です。僕がずっと心で念じていますから。不安になったら、僕の目を見てください。僕が魔法を掛けますよ。必ず成功する、って魔法をね」

 アダムの奴、どこでそんな、背中が痒くなる言葉を習ってきたんだか。マリリンが安心するのなら、誰がヒロインを救う正義のヒーローになったって、ハロルドは構わなかったが……。

 エヴェリンも、ハロルドとアダムの復帰を歓迎していた。

 あのまま自殺で片づけられたら、堪らない。マリリンを安心させるべく、犯人を捕まえて、警察に突き出そう、なんて提案をしたが、およそ無理な点は、わかっていた。

 やっぱり、犯人捜しはプロに任せないと。

 エヴェリンは、もう仕事を終えていたので、二人の横に、パイプ椅子を開いて、座った。一応、捜査に問題ない程度に、事態の進展を教えてもらった。

「二時にエリックが生きていたなんて……。じゃあ、あの物音は、何だったの?」

 アダムが慎重な顔で尋ねてくる。

「二時以降に、同じような物音がしなかったかい?」

「ううん、全然。でも、どうかな。二時には、ちゃんと起きていたわ。だけど、その後は……やっぱり睡魔に襲われて、眠ってしまったから」

 今のところ、問題点は二つ。落下音は、二時半以降に、もう一度、起きなければならない。

 もう一つは、マリリンが、かくれんぼした相手は、幼いフランス人の少年だった。少年エリックを利用するべく、犯人は初めて、姿を現した。

 フランス語が話せるイギリス人。黒い髪。しかし、エリックではない。青い瞳の男が、黒い鬘を被っていた、とか?

「関係者全員の写真を撮ってさ、面通しさせたら?」

 アダムが、残念そうに、掌を上にした。

「マダム・カーターも、ちっこいエリックも、もう、とっくにフランスに帰ったよ。早いうちに証言を申し出てくれたら、状況も変わったかもしれないな」

 ともかく、午後七時半には、何らかの理由があって、エリックは部屋の外に出られなかった。

 ハロルドが何度も首を捻る。

「午後七時半にエリックが室内でやらかした行動が、どうもおかしいんだ。酒を飲むわけでもなし、空のグラスを、何のストレス発散にもならない場所に落としている。もしも、あの部屋にいた人間が、エリックでないとしたら、面白い展開になりそうなんだが」

「つまり、部屋に犯人がいた、という意味ね。その時、エリックは眠っていたか何かで、好き勝手な行動ができなかった」

 アダムが結論を述べる。

「君とマリリンが聞いた声が、エリックのものでなく、犯人が代わりに応えたのかもしれない。自棄になっていると思われるように、ガラスが割れる音をさせた。エリックが馘首になった事態にショックを受けていると、見せかけられる」

 エヴェリンは心外な思いに、眉尻を下げた。

「あたしたちの証言が原因で、行き詰っているわけ?」

 ハロルドが素直に認めた。

「そういうことだ。密室の謎は、まだ解けない。しかし、部屋にエリックと犯人がいたと仮定したのなら、何が起きていたのか、仮説を示せる。聞こえた声は、声真似のようではなかったか?」

「声真似ぇ? トリックを崩すために、そこまで考えるんだ。でも、お生憎(あいにく)さま、あたしもマリリンも、エリックの声を確かに聞いた。ぜーったいに間違いないんだから」

 その時、アリ助監督が、エヴェリンたちに、こそっと告げた。

「もうすぐ本番だ。静かに頼む」

 エヴェリンは口の端を上げ、肩を竦めて、頷いた。



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