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探偵マリリン  作者: 霧島勇馬
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第五章 針の筵

第五章 針  の  筵

 撮影の開始は、いつも、午前九時。カメラ・テストが最初に行われるから、エヴェリンは遅刻が許されない。

 許されない? 冗談じゃない、遅刻なんて、スタンドインを始める前のスターレットの頃から、犯した経験がない。さすがに一番乗りでは、他のスタッフを焦らせるし、引け目を感じさせる。

 そこは、あえて余裕を持って行動する。周りに気配りをし、お互いに気持ち良く仕事がしたい。だから、エヴェリンには敵がほとんどいなかった。

 こんなふうに、徹底的に周囲を意識する理由は、マリリンと常に仕事をする宿命だったから。マリリンが思いっ切り下げた共演者たちのモチベーションを、せめて、平均水準にまで引き上げる。

 今回もマリリンがなかなか、撮影に現れない。

「やあ、今日はマリリン、来ているかい?」なんて言葉が朝の挨拶になった。

 また、いつもの撮影風景になった。マリリンの当初の意欲を知っていただけに、残念だった。

 こうして、スタジオは針の筵と化し、マリリンがますます出入りしづらい雰囲気を作り出す。悪循環だ。

 スタッフが笑顔でエヴェリンに挨拶した。

「やあ、エヴェリン、今朝も素敵だ」

「今日も一日、頑張ろうな!」

「一瞬、マリリンがいたかと思ったよ。君がマリリンだったら、どんなにいいか」

 ……ちょっと待った。それじゃ駄目なんだって!

 これだけ好意を持たれていながら、マリリンを擁護する話だけは、誰も聞く耳を持ってくれない。

 スタジオに活気は全然なかった。もう、マリリンの出番以外は撮り終えており、完全にマリリン待ちだった。

 メーク係のアンが、ブラシを手に、冗談めかした声を出す。

「いっそ、私のこの腕で、エヴェリンをマリリンにしちゃおうか? きっと誰も気付かないよ」

 スタジオが興奮で、どよめいた。

「そりゃあ、いい。もう待ち惚けは沢山だ」

「マリリンは〝マリリン・モンロー〟になるために、三時間も四時間も掛けるんだろう? だったら、エヴェリンだってモンローになれるさ」

 アンが胸を張り、自慢する。

「そんなに時間を掛けなくても、大丈夫。モンローの顔にする方法って、意外と簡単なのよ」

「ちょっと待った!」

 さすがに今回は、思うだけでなく、実際に声が出た。このままじゃ本当に、マリリンの居場所がなくなる。

「駄目だってば、そういう発想は。素人や無名の集まりが、出演した映画を、誰が観に行く? 観客はマリリンを観に行くの! あたしたちは、観客を裏切る真似なんて、絶対にしちゃいけないんだよ」

 衣裳係のジーンがエヴェリンに反発した。

「主役が来ないんじゃ、映画は仕上がらない。仕上がらなかったら、上映もできないでしょうが」

「だからって、騙すなんて――いや、所詮、騙せやしないって。そもそも、騙すって発想が観客に対して失礼だよ、違う?」

 ジーンが首を竦め、掌を上にした。

「はいはいはい、ミス・パーフェクトには敵わないわ」

 エヴェリンは頭に血が上った。そんな肩書、自分で付けたわけじゃないのに!

 皆は、エヴェリンが完璧である様を褒めると同じぐらい、完璧過ぎると眉を顰める。

 妙なムードのまま、キューカー監督を出迎えた。人々が一斉に動き出す。それでも、もう、以前に撮ったシーンの撮り直しでお茶を濁す程度しか、することがなかった。

 助監督のアリが控えめに、キューカーに進言した。

「マリリンが遠くに見えるこのシーンなら、エヴェリンに協力してもらって、撮影できるんじゃないでしょうか」

 キューカーが、じろりとアリを睨む。

「スタンドインをフィルムに残せというのか」

 アリが俯き、小さく呟いた。

「……スタンドインのほうが、よっぽどマシですよ」

 キューカーの顔が、みるみる赤くなった。

「なんだと?」

「いつまで、来ない主役を待たなければならないんですか! 皆、早くから来て、準備を進めているんですよ! 我々は一つのチームとなって、働かなくてはいけないんです!」

 興奮に顔を赤くしたアリが、我に返り、体を縮み込ませた。

「……すみません、監督。皆の努力を見ていて、つい――」

 キューカーが、ぽんとアリの肩を叩いた。

「気持ちは重々わかる。でもな、マリリンはスターなんだ。スターとは、通常の常識では計れない破天荒さを持つ。だから、光り輝いているんだ。我々がなすべき仕事は、無軌道なスターの軌道を修正し、なお一層、光り輝かせることなんだよ」

 それきり、騒ぎが大きくなる展開は避けられた。

 アリの言葉は、スタッフ、キャストの心の叫びだった。アリが思い切って口に出してくれて、皆は少しすっきりした様子だった。

 相変わらず、カメラ・テストまでは行くが、その先に一向に進まない日々。

 編集していたクレイグが、諦め切った顔で、エヴェリンに声を掛けてきた。

「君だけが映ったフィルムが、どんどん溜まっていくよ」

 エヴェリンまで深刻になりたくなかったので、わざと陽気に、ぺろりと舌を出した。

「ごめんねぇ、あたしなんかばかり撮る羽目になって」

 クレイグが爽やかな笑顔を浮かべた。

「いいんだ。君は、確かに素晴らしい。でも、マリリンじゃない」

「わかってるって」

「正直な話、アンが君をマリリンに仕立てるって話をした時には、ぶん殴ってやろうかと思った。でも、君が上手く取り成してくれた。感謝してるんだ」

 エヴェリンは、意味がわからず、口を開けた。

「感謝? あたしに?」

「マリリンの代わりに――いや、マリリンを愛する観客の代わりに、といったところさ。君は余計な野心を持たず、辛抱強くマリリンを待ってくれている。本当に、感謝しても、し足りないよ」

 一緒に働いているクレイグが、マリリンの熱狂的ファンでも、ちっともおかしくない。フィルムの確認をしながら、愛しいマリリンを何度も観られるなんて、ファン冥利に尽きるだろう。

 ただ、マリリンの代わりに感謝する、との言葉は、少々不気味だった。まるでマリリンを自分の所有物と考えているみたいに聞こえる。

 いやいや、ファンなんて、こんなものだろう。寝ても覚めても、マリリン、マリリン。あの白い肌に触れられるなら、本気で死んでもいいと願っている。

 やがてエヴェリンは、クレイグと接しているほうが、遙かに楽な時間を過ごせると気が付いた。

 決してエヴェリンにスタンドイン以上の役目を期待しないし、マリリンのスターとしての才能を、二人とも大いに買っている。価値観が同じだから、話をしていても楽しい。

 やがて、二人が待ち望んでいた日が来た。マリリンが、撮影に復帰した。

 口紅を塗っては拭い、塗っては拭いを、繰り返す。マリリンは早くも、撮影所にやって来た自分の行動を激しく後悔していた。

 スタジオに入る前、控え室で、体が震える。皆、マリリンを嫌っている。嫌ってまではいなくても、すっぽかしに、うんざりしている。

 マリリンは、大きく息を吐くと、鏡の前で、額に手を当てた。悔しさと悲しさに、涙が滲む。

 ――エリック、どうして死んじゃったの? 貴方がいてくれたら、私は何とか頑張れたかもしれないのに。

 エリックと過ごした時間は、非常に短いものだった。でも、あまりに濃密で、忘れられそうにない。エリックがいてくれた時、マリリンは薬の助けも借りず、遅刻も一切せずにスタジオに入った。

 あのままエリックが見守ってくれていたら、遅刻魔の汚名も返上できただろう。

 もう、元気な顔を見せて喜ばせる存在はない。アーサーとの離婚は確実だったが、離婚後の人生が、空っぽに思えた。

 不意にノックの音がした。

「あたしよ。エヴェリン」

「どうぞ、入って」

 エヴェリンが、ぴったりした黒のレオタード姿で現れた。こうして見ると、スタイルが悪いわけではないが、マリリンの体が、神がくれた贈物に思える。

「どう? 調子は」

 マリリンは口の端を上げた。

「どうなのかしら。自分でもわからないわ」

「これからカメラ・テストなんだけどさ、良かったら一緒に行かない? あんたの出番はまだないけど、スタジオに自然に溶け込む、いい切っ掛けになると思うんだ」

 いつもいつも、エヴェリンの優しさには、感謝してもしきれない。エヴェリンと連れ立って、顔を出せば、皆、好意的に迎えてくれるかもしれない。

 でも、まだ全然、〝マリリン・モンロー〟になっていない。髪型は決まらないし、化粧

乗りも悪い。とても他人前(ひとまえ)に出られる姿形には、なっていない。

 マリリンは撮影中の直し以外、メーク係の手を借りない。マリリンにはマリリンの確固たるイメージがあった。新しい映画撮影に入る都度、替わるメーク係に、そこら辺の匙加減がわかるわけがない。

 マリリンは鏡の前に置かれたコールド・クリームのジャーに手を伸ばす。

「ちょっと待って。やっぱり、このメーク、気に入らないわ。もう一度やり直しさせて」

 エヴェリンがマリリンの手を、そっと抑えた。

「マリリン、大丈夫。完璧だってば」

「ううん、そんなことない! 化粧の乗りは悪いし、マスカラもダマになってるわ! 頬紅は赤く入れすぎたし、口紅だって、リップラインが乱れてる!」

 声を出しているうちに、涙が溢れてきた。何故、こんな最悪の精神状態の時に、撮影をしなければならないのだろう?

「……エヴェリン。何故、人は生きていかなきゃいけないの? こんなにも辛い思いをしてまで」

 エヴェリンが母のように慈愛のこもった笑顔を、マリリンに向けた。

「エリックはきっと、あんたが立派に撮影に参加するように、祈っているはずだよ」

 そうだろうか……。そんなにも考えていてくれただろうか? マリリンの心に疑問が湧く。

「じゃあ何故、エリックは私の部屋から飛び降りたの? 皆、イヴに馘首を言い渡されたショックで自殺したと決めて懸かっているわ」

 マリリンには、どうしても解せなかった。マリリンが誘ったアメリカでのデビューは、エリックにとって魅力的な話ではなかったのか?

 どうしてもフランスに拘り、イヴに今後も師事していきたいと願うあまり、馘首になって絶望したのか? マリリンの愛は、エリックに届いていなかったのか?

 エヴェリンが考え込むように、口元に拳を持っていった。

「あたしも、マリリンと同じ考えだよ。エリックは自殺したんじゃないと思う」

「じゃあ、私の部屋から飛び降りた点も違っている?」

「それは……わからないけど。でも、誰かに突き落とされたのかもしれないよ」

 マリリンは目を開いたが、思ったほどの衝撃ではなかった。マリリンも、考えていた。エリックの死が自殺でないとしたら、事故か、殺人だ。

 殺されたのだとしたら、いったい誰が犯人なのか? 映画のキャストとスタッフが泊まるホテルで殺されたのだから、やはり、関係者か?

 マリリンは、ぶるりと身を震わせた。

「もしかしたら、撮影班の中に、エリックを殺した犯人がいるかもしれない、ってこと? 考えただけでも恐ろしいわ」

「でもさ、マリリン、犯人を見つけたくはない? 撮影を進める中で、こっそり観察してみるんだよ。もし犯人らしき人間がわかったらさ、警察に報告すればいい」

 マリリンも、だんだん、その気になってきた。

 エリックが自殺するわけがない。マリリンとの愛を胸に、アメリカで羽搏(はばた)けたはずだ。憎き犯人を警察に突き出す。これが残されたマリリンの選ぶ道だと信じた。

 エヴェリンが、口の端を少しだけ上げた。

「そのためには、撮影に参加しなきゃね。誰が怪しいのか、じっくりと観察するの。マリリン、エリックの仇を討とうじゃないの!」

 エヴェリンの説得に、マリリンもすっかりやる気になった。涙で落ちたメークを手早く直す。

 どうせ、何時間と掛けても、満足いく仕上がりにはならない。問題は、どこで諦めるか、だ。

 マリリンはリップラインを人差し指でそっとなぞると、小さく頷いた。

「行きましょう」

「そう来なくっちゃ!」

 怖くないといえば、嘘になる。でも、今は、エリックの無念を晴らしたかった。エヴェリンがマリリンの背にそっと、手を添え、控え室のドアを開けた。

 ――戦いが、始まる……。

 マリリンを嫌っているキャストやスタッフの中に入っていくだけでも、勇気が要る。その上、エリック殺害犯を見つけようだなんて、無謀過ぎるだろうか?

 いや、やらなければならない。夢半ばで、異国の地で散ったエリックのために、何としても事件を解決してみせる!

 エヴェリンのすぐ後ろに続いて、マリリンはスタジオに入っていった。エヴェリンが陽気に、皆に声を掛ける。

「おはよう! 今日もよろしくね! マリリンも一緒なのよ」

 マリリンは何と声を発していいのかわからず、思わず、俯いた。案の定、返される声に、戸惑いが感じられた。

「お、おはよう、エヴェリン、マリリン」

「凄いな……ほんとに来たんだ……」

 マリリンは途端に帰りたくなった。ムードは最悪だ。とてもじゃないが、こんな場所に長時間いられない。

 エヴェリンが気を使って、マリリンに用意された椅子に導いた。

「さあ、ここに座って。あたしは、これからカメラ・テストだから、ここから見守っていて」

 マリリンは口の端を上げ、頷いた。エヴェリンが、こそりと耳元で囁く。

「よぉく観察するのよ。ここにいる誰かが、エリックの死に関与しているかもしれないんだから」

「……わかったわ」

 エヴェリンなりに、気を使ったのだろう。マリリンの逃げ出したい思いを、察してくれた。

 エヴェリンがセットに入り、カメラマンや編集スタッフと、笑い声を上げながらテストを始めた。

 エヴェリンたちの作業をまともに見た経験は今回が初めてだった。マリリンがカメラの前に立つ時には、既にカメラの距離や細かいアングル、照明の強さなどが調整されている。

 これまで、何も気にせずにカメラの前に立ち、恐怖に震えていたけれど……。マリリンを美しく映すべく、エヴェリンたちはいつも、早い時間から、準備をしてくれていたわけだ。

 なんだか、余計に落ち込んだ。今更、薬を飲まずに来てしまった結果を後悔した。禁断症状なんてないけれど、自然と体が震えてくる。

 やがて、他のキャストもスタジオに姿を見せる中、見かけない男二人が現れた。一人は四十代前半ぐらい、もう一人は二十代だろう。

 二十代がマリリンを指さし、四十代に小声で囁いた。やがて二人は、ごく自然な動作でマリリンに近づいてきた。

「ようやくお会いできましたな、ミス・モンロー。ロス市警のハロルド・テイラーです。こっちの若いのは、アダム・ロス。貴女の熱狂的なファンなんです」

〝ミス・モンロー〟か。この刑事はハリウッドに精通していると言える。マリリンは本来なら、ミセス・ミラーだが、映画女優は役名で呼ばれる場合、たいてい、ミスと呼ばれる。映画の中では、誰のものでもない未婚者だ。

 草創期を支えた大女優メアリー・ピックフォードは、既婚者だったが、観客の前ではいつもミス・メアリー・ピックフォードと紹介された。

 逆に毒婦役で一世を風靡したアラ・ナジモヴァは、〝ナジモヴァ夫人〟と別格扱いで呼ばれた。恋人にしたい、いやいや、怪しい魔力で翻弄されたい。それだけスターは観客の夢だった。

 アダムが掌をズボンにごしごしと擦り付けると、手を差し出した。

「握手してください! 『アスファルト・ジャングル』の頃から、貴女に夢中でした!」

 マリリンは意外な思いに、目を開いた。『アスファルト・ジャングル』は、有名な作品ではあるが、マリリンは脇役の一人でしかなかった。主役に抜擢されない頃からファンでいてくれるなんて、感激だ。リップ・サービスも、多少はあるだろうが。

「お体の具合はいかがですか? 主演となれば、無理してでも演技をしなければならないんでしょうなあ。ハードな仕事でしょう」

 マリリンは最初、ハロルドが皮肉を言っているのかと疑った。でも他意の見えないほどに澄んだ瞳を見て、何も知らないだけだと判断した。

「私は嫌われ者です。どの撮影でも、そうなの。時間通りにスタジオに出勤するなんて、あり得ないから、周りに迷惑を掛けてばかりなの」

 ハロルドが気まずそうに、コホンと咳払いした。

「では、ですね。当日――一月二十日午前二時、何をしてらしたか、覚えていらっしゃいますか?」

 マリリンは思わず、眉を顰めた。

「その時間に私がしっかり目が覚めていて、エリックが私の部屋から飛び降りたのなら、

事の真相を握る人間ってことになるわね。でも生憎(あいにく)、全然、意識がなかったの。エリックはあれで子供っぽいところがあって。七時半には閉じ籠っていた人が、一時間後にはロビーで、心配している私に小さな悪戯(いたずら)を仕掛けてきたの」

「一時間後というと、八時半頃ですね?」

 マリリンは小さく頷いた。

「ちょうど、一緒に宿泊していたフランスからの団体観光客が、観劇に向かうため、ロビーに集まっていたの。エリックは彼らに紛れ、私とかくれんぼを始めたのよ」

 ハロルドが間抜けに口を開けた。

「かくれんぼ、ですか? 鬼が五十まで数えて、隠れている人間を探す、ってやつですよね?」

「ううん、そういうのじゃないの。突然、始まるのよ。まず、エリックが自分はすぐ近所にいるんだってわかるように、身の回りの小さな品を、私の身近に、そっと置くの。私が気づいたら、素早く隠れて、別の場所にまた、痕跡を残すの。私はヘンゼルとグレーテルよろしく、パンの屑ではなく、エリックの持ち物を辿って、隠れ場所に辿り着く、というゲームなのよ」

 アダムが呆れ顔で呟いた。

「ほんと、子供みたいだ。で、その夜、エリックとは会えたんですか?」

「いいえ。私が途中で、遊びを放棄して、部屋に戻ったの。今になって思えば、どんなに面倒であろうと、付き合うんだったわ。エリックは馘首になって落ち込んでいた。だからこそ、あんな遊びもしたと思うの」

「身の回りの小さな品というと、たとえば、どんな?」

「イニシャル入りのカフスボタン、ネックレス、ブレスレットといったところかしら。初めて、かくれんぼした時は、エレベーター・ボーイにネクタイを預けていたわ」

「問題の夜は、ネクタイはなかったんですか?」

「ええ。一日部屋にいたから、きちんとした服に着替えていなかったんでしょう」

「遊びを放棄し、貴女は部屋に帰ったんですね。それで眠ってしまった? 鍵は掛けたんですか?」

 そこが、どうにもはっきりしない。鍵をしっかり掛けた記憶がなかった。

 それに、大方の見方通り、エリックがマリリンの部屋から飛び降りたのなら、鍵が掛かっているはずはない。

「よく覚えていないの。結局、明け方まで眠ってしまって」

「窓の鍵を開けたのは、貴女ですか?」

「部屋に戻ると必ず、空気の入れ替えをするの。少しだけ開けておいたわ。どうせ、六階の窓から忍んでくる人もいないでしょう」

 ハロルドが、ぽりぽりと首の後ろを掻いた。

「午前二時に激しい物音がし、複数の人間が気づいています。貴女は気付きましたか?」

 マリリンは悔しい思いに、唇を噛んだ。

「いいえ、全然。もし気付いて、すぐに駆けつけていれば、エリックは助かったのかしら……?」

 ハロルドとアダムが顔を見合わせた。どう応えたらいいか、困っている。マリリンは慌てて、質問を打ち消した。

「無理よね。まさか、人が落ちただなんて思わないだろうし、駆けつけたりできなかったわ」

 ハロルドが、申し訳なさそうに、口を開いた。

「つまり、死亡推定時刻にアリバイはない、わけですね?」

 マリリンは諦めの息を吐いた。嫌疑の外には、いられないだろう。

「そうです。他の人には、きちんとアリバイがありますの?」

「そうですなあ、他人と一緒にいて、互いが証人になっているケースは、あります。俳優は宵っ張りなんですかね。結構、皆さん起きていらして、物音を聞いています」

 アダムが慌てて、手帳を取り出し、ページを繰った。

「スタンドインのエヴェリンは、女優のニコールと部屋で酒盛りしてました。イヴとシモーヌはキューカー監督の部屋で談笑していました。編集のクレイグは友人に電話を架けていた……あと、フランキーの部屋に、大道具の男三人チャールズ、ヘンリー、ゲイリーが押しかけて、騒いでいた……と。アーサーはビバリーヒルズ・ホテルのバンガローで執筆活動という主張ですから、アリバイはない。あとは皆、熟睡して音すら聞いていないそうです」

 アーサーにアリバイがない点は、普段の生活習慣から、納得できた。内心で怪しいと睨んでいたイヴにアリバイがあったとは。

 マリリンは、しゅんと項垂れた。

「私も、容疑者の一人なのね」

「貴女の部屋から飛び降りた、と考えるなら、仰る通りなんですが。私の目から見たら、皆さん、横一線ですよ。そもそも、午前二時にアリバイがあるほうが、むしろ、特異なんですから」

 ハロルドはアダムと共に、そのままスタジオに残り、撮影風景を観察していた。アダムが、ぽつりと呟く。

「やはり、針の筵ですね。皆、全然、協力的でない」

 ハロルドは喫いかけの煙草を人差し指と中指で挟み、ふぅっと煙を吐いた。

「お前の目から見ても、そう映るんなら、確かだろうな」

「あ、わかるんすか? 映画の世界は疎いと思っていたのに」

 ハロルドは、ぽかりとアダムの頭を叩いた。

「馬鹿野郎。俺だって、人の心の機微ぐらい、わかるんだ」

 マリリンの役は、小さな劇場で演じる舞台女優だ。さすがにやり過ぎではないか、と思われるほど、体にぴったりしたシースルーのレオタードを身に着け、小さな舞台の中で、踊り、歌う。

 マリリンがいない場面では、一糸乱れぬ踊りを披露していた俳優たちが、マリリンが加わった途端に、明らかに手を抜いた。何度もテイクが重なり、マリリンの顔に余裕がなくなっていく。

 アダムが、ぎゅっと拳を作り、「マリリン、頑張れ!」と独り言のように応援する。ハロルドも同じ気持ちだった。

「……スターも、楽じゃねえな」

「全くです。まるで虐めだ。こんな険悪なムードで、いい映画を撮影できるわけがない」

 もっとも最初に原因を作った人間は、マリリンだ。マリリンも自覚していた。素晴らしい容貌の持ち主だし、素人目に見ても、歌も演技もなかなかだ。何より、マリリンをスクリーンで見たいファンが大勢いる。

 ――もうちょっと上手くやりゃあ、人生、楽なのになぁ。

 気持ちを落ち着かせるために、睡眠薬を飲むなんて、普通に問題なく生きている人間には、理解できない思考だ。だが、ハロルドには、なんとなくわかった。

 少し鈍感になれば、辛い状況でも踏ん張れる。残念ながら、マリリンの精神は、異常なまでに過敏だった。何でもあれこれ気にする意識を、薬で抑え込めてしまえば、人並みの落ち着きが生まれると、どうしても勘違いするのだろう。

 カメラの向こう側では、同じシーンが何度も繰り返されていた。アダムがムッとした顔で、監督の後ろ姿を睨み付ける。

「全然、休みを入れてくれない。あれじゃマリリンも体力的にしんどいですよ」

 体力的な問題といえば、ハロルドにもあった。長い時間、冷たいリノリウムの床の上に立ったままで、腰の痛みが酷くなっていた。

「……俺も、しんどい。腰がな」

 アダムが惚けた顔で、ハロルドを見やった。

「痩せ我慢しないで、パイプ椅子でも借りれば良かったんですよ」

 正論なだけに、悔しい。

「こんなところで油を売ってるわけにいかなかったんだ。ちと、長居し過ぎた」

 アダムが大きく両腕を広げた。

「こんなところ? 重要参考人だらけじゃないすか! 撮影の合間合間に、聞き込みをしましょうよ。マリリンの演技も拝める、捜査も進む。言うことなしですよ」

「聞き込みって、これ以上、何を聞くんだ?」

 すると、キューカーが大声で怒鳴った。

「そこの二人! 摘み出されたいか! 静かにしていてくれなかったら、撮影ができんだろうが!」

 ハロルドもアダムも背筋を伸ばした。

「すいません、もう消えますんで!」

 伸ばした拍子に、腰に激しい痛みが走った。

「痛てててて」

 ハロルドは右手で腰を押さえ、左手でアダムの背中を押すと、すごすごとスタジオの外に出た。

 今回の捜査指揮を執る部署を、当初、自殺や事故を扱う犯罪捜査課にするか、殺人課にするか、議論が分かれていた。ハロルドとアダムは殺人課の人間だった。

 自殺、他殺の両面で捜査が行われているため、殺人課からケリー・ホワイト警部を纏め役に選抜し、互いの部署から二名ずつ、捜査陣に加わっていた。

 調査を進めるうちに、ハロルドは、どうしても自殺、事故ではない気がしていた。ただ、殺人だと断定する明確な証拠もない。

 一方で、二時に起きた物音や、被害者が馘首を言い渡されていた点、マリリンの部屋の状況などから、捜査陣の思考は自殺説に傾きがちだった。

 指揮を執るケリーも、最近では、あまり捜査に乗り気でなくなっていた。ロサンゼルスでは、毎日のように殺人事件が起きる。他の事件を放っておいてまで、フランスからやって来たイギリス人の死に関わり合っている暇はない、との論理だった。

 ケリーの気持ちも、理解できる。こんな小さな事件より、大きな凶悪事件で功績を上げたいだろう。そもそも、被害者遺族に寄り添う考えの全くない男だった。

 その点、ハロルドは、すぐに被害関係者に情が移った。そのため時々、頓珍漢な方向へ進みかける時がある。

 昔、殺人課の先輩に忠告された。

「いちいち、命の重みを感じていたら、冷静な判断もできなくなるぞ」

 冷静な判断……果たして今回の事件、エリックの自殺だと断定する行為が、冷静な判断となるのか? 

 馘首がショックだったのなら、何故、自分の部屋で死ななかった? マリリンの部屋に入ったにしても、何故、起こそうとしなかった?

 マリリンの部屋から飛び降りたのなら、何か深い意味があるはずだ。それが、さっぱり見えてこない。

 マリリンの寝顔を見て、満足したってか?

 いいや、エリックにはまだ、死ぬ理由がなかった。フランス・デビューを諦めた理由も、マリリンがアメリカ・デビューを勧めたからだ。こう言っては何だが、小さな国で世界的言語を持つわけでもないフランスでデビューするより、よっぽど未来は開けている。

 死のダイブをした時、エリックが絶望していたわけがない。マリリンの部屋に来たのなら、シャンパン・ボトルにグラス二つを持ってくるぐらいの気分だったはずだ。

 いやいや、七時半にマリリンたちに投げつけた言葉と、実際にグラスを投げた事実が、エリックが落ち込んでいた理由になるじゃないか?――犯罪捜査課の人間は主張するだろう。

 そこが、問題だった! 何故、エリックは、有頂天だったはずなのに、投げやりと拒絶の言葉を叫び、空のグラスを、最も捨てにくい場所に投げたか?

 午後七時半の712号室の中で、絶対に何かがあった。エリックは叫びたくて叫んだわけではないし、グラスは、怒りを込めて投げ捨てられたものではなかった。

 署に帰ると、ケリーが眼鏡をずり下げて、ハロルドを見上げた。

「よお、何か新しい証言は得られたか?」

 表情がいかにも「何も収穫はなかったろう。わかっているんだ」と語っていた。悔しいが、その通りだった。

「最後まで取れないでいたマリリンの証言を取ってきました。しかし、状況は変わりません」

「だろう。せっかくマリリンに会ったんだから、最後に記念にサインでも貰ってくればよかったんだ」

 聞き捨てならない言葉に、ハロルドは片眉を上げた。

「最後に? 記念に? そりゃ、どういう意味です?」

「もう、捜査は終了だ。この件は自殺で片づけ、もっと重要な捜査に人手を割く」

 ハロルドは言葉も出なかった。

 その日一日がマリリンにとって、ちっとも楽しくなかった事実は、よくわかる。楽しくないどころか、神にとことん信心を試されているヨブにでもなった気分だったろう。

 案の定、翌朝、エヴェリンが誘いに部屋に行っても、遂に出てこなかった。

 ――今日は、仕方ないかな……といっても、マリリンが来ないと、また撮影はストップしちゃうんだけど。

 いやいや、マリリンが現れない責任は、別にエヴェリンにはない。皆もマリリンに冷たくし過ぎたと、後悔するがいいだろう。

 エヴェリンがスタッフ、キャストが乗るバスに乗り込むと、クレイグが手を上げた。

「こっちだ、エヴェリン!」

 エヴェリンは笑顔を作り、通路を通って、クレイグの横に座った。さっそくクレイグが口を開く。

「こっちのバスに来たってことは、マリリンは姿を現しそうにないんだな」

「そうなの。昨日の撮影が辛かったみたいで……ま、わからなくはないんだけどさ」

 クレイグが、納得顔で頷いた。

「マリリンには、もっと味方が必要だ。まだ、君と僕ぐらいしか、いないからね」

「味方かあ。味方ができるほど、スタッフと交流もしてないしね」

 バスがエンジンを吹かし、床がぶるぶると震えた。出発だ。

「味方といえば、刑事の一人がマリリンの大ファンだったよな」

「そうそう! アダムと言ったっけ? じゃ、あたしと、あんたと、刑事を入れて、三人だ!」

 バスは五分ほど走って、撮影所に到着した。

 スタジオに入って、それぞれの作業の準備をしているところに、アダムが一人で現れた。エヴェリンは陽気に声を掛けた。

「いらっしゃい、アダム。マリリンは今日やって来るか、わからないわよ」

 アダムが、がっかりと肩を落とした。

「そっかあ。マリリンは来ないのかぁ」

「まだ、決まったわけじゃないけどね。演技コーチのポーラが出かけさせようと必死になっているはずだから。マリリンがいないからって、捜査に手を抜かないでよ」

 アダムが顔を曇らせ、言いにくそうに口を開いた。

「実は、捜査は、もう、終わりなんだよ。捜査を理由に、ここに来る真似は、できなくなった」

 エヴェリンは驚きに目を開いた。

「犯人が捕まったの?」

「その逆だよ。犯人なんていないと、警察は判断した。捜査は終わったんだ。今日は最後にマリリンに会って、サインを貰おうと思って来たんだ。無駄足だったなあ」

「捜査は終わったって、どういう意味よ! 犯人がいないんじゃ、誰がエリックを殺したのよ!」

 掴みかからんエヴェリンの剣幕に、アダムが仰け反った。

「僕のせいじゃないって! 上の判断なんだ。エリックは、自殺した。よって、犯人はいない。捜査終了だ」

 エヴェリンはなんとか、気持ちを落ち着けようとした。何でも完璧にこなすエヴェリンが、ここまで苦労した作業はなかった。

「自殺なんて、するわけないでしょうが! エリックの前途は洋々としていたはずなんだから!」

「僕に言われても、困るよ。こうして一人でこっそりやって来るのも、問題なんだから。そだ、エヴェリン、明日また来るから、その時までに、マリリンのサインを貰っておいてくれよ。頼む! この通りだ!」

 深々と頭を下げられては、断り切れない。自殺と断定されたと聞いて、マリリンの精神状況は悪くなるだけだろうが。

 マリリンが素直にアダムにサインをくれるとは思えない。

 ――その時は、あたしのサインで満足してもらうしかないわねぇ。

 ミス・パーフェクトであるエヴェリンは、マリリンの代筆だってお手の物だった。まったく、マリリン・モンローなくして、エヴェリンが存在する理由は見当たらない。

「自殺と断定された、ですって! そんな酷い話はないわ! 私が犯人と疑われるほうが、よっぽどマシよ!」

 エヴェリンの予想通りだった。マリリンの衝撃は尋常なものではなかった。

 せっかくベッドから起きて、ソファに座っていたのに、むっくりと夢遊病者のように起き上がり、ふらふらとベッドまで歩いていって、マットレスの上に頭から倒れた。

「エリックは……絶対に殺されたのよ」

 なんと言葉を掛ければいいだろう。――「あたしも、そう思うよ、マリリン」――。

 いやいや、慰めにもならない。

 ――「警察に抗議の電話を架けまくろう!」――。警察を敵に回したくはない。殺人と断定されたはいいが、恨みつらみで犯人に大抜擢されかねない。

 ――「あたしたちで、真犯人を捕まえて、警察に突き出そう!」――。一番いい案だが、そんな真似ができるのか?

 ミス・パーフェクトは何事にも完璧だけれど、あいにく名探偵並の頭脳は持ち合わせていない。

 あれこれ悩んでいるうち、マリリンが横に立っているエヴェリンの袖を掴んだ。

「私たちで、真犯人を捕まえて、警察に突き出しましょう!」

 ……やっぱり、そう来たか。難しい話ではあるが、マリリンをスタジオに引っ張っていく口実には一応なる。

 実際に捕まえる必要はない。捕まえる、努力をすればいい。

 エヴェリンはマリリンの手を取り、強く握った。

「そうしよう! 犯人は絶対に、スタッフ、キャストの中にいるよ」

「一番怪しい人間は、誰だと思う?」

 そんな質問、愚の骨頂だ。決まっているだろうが。

「イヴの他に誰がいるのよ?」

 マリリンの瞳が、何故か、戸惑いに揺れた。次に視線を逸らし、罪悪感に溢れた表情をする。まさか……。

「まさかマリリン、イヴと変な仲になっているんじゃないでしょうね!」

「変な仲、ではないわ……。その……まっとうな仲というか、仲良しというか……」

「仲良しぃい? 共演者と寝ちゃったの? あんたも相手も、伴侶がいるんだよ!」

 マリリンが、見ていて気の毒なぐらい、小さく身を縮込ませる。一瞬、同情に傾くが、ここで甘い顔をしてはいけない。

 ハリウッドに生きている人間に、観客はモラルを求めた。それこそ、神が審判を執り行うかのように。

 一九四九年、イングリッド・バーグマンはイタリアの映画監督ロベルト・ロッセリーニと不倫の関係になり、ハリウッドを追われた。一九五二年、ゲイリー・クーパーは娘ほど若いパトリシア・ニールと不倫関係を噂され、大きなイメージダウンに繋がった。

 公には、クーパーは妻の元に戻ったとされ、世間の非難は収束した。だが、ニールが不義の子を宿し、密かに堕胎したと、噂になった。

 一九五八年、エリザベス・テイラーは、親友のデビー・レイノルズの夫だったエディ・フィッシャーを奪った。

 世間はエリザベスを非難し、アカデミーはオスカー像をエリザベスに与えようとしない。

 ――どうしてこうも、ハリウッドの映画人はお尻が軽いのよ!

 マリリンとイヴの不倫だなんて、マスコミの恰好の餌食だ。


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