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探偵マリリン  作者: 霧島勇馬
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第四章 不可思議な死体

第四章 不可思議な死体

 ビバリーヒルズの現場に向かう途中、助手席に座っていた、ロス市警の刑事ハロルド・テイラーは、腰の痛みに悲鳴を上げた。

「ブレーキとアクセルを交互に踏む真似は、いい加減、止めてくれ! 振動が直接、腰に来るんだ!」

 運転席の相棒、アダム・ロスが涼しい顔で、前を向いたまま、応えた。

「だって、早く着きたいじゃないですか。マリリン・モンローですよ! ガイシャはマリリン主演映画の撮影スタッフだって話でしょう。道路なんて走らずに、空を飛んでいきたい気分ですよ」

 ――ふん、尻の青い、マリリンより十歳も若い子供のくせに。相手にされると、本気で思っているのかねえ。

 たまには、嫌味を言わずに、年長者らしくしていたい。だが、あまりにも興奮しているアダムを見ると、頭から冷や水を浴びせてやりたくなる。

「マリリンは、大人の男が好きなんだ。俺ぐらい渋くなければ、透明人間扱いされるのが落ちだ」

「透明人間? そいつはいいや! マリリンの部屋に入り込んで、バスルームを覗いてみますよ」

 まったく、懲りないというか、人の話を真面目に聞かないとでもいうか。最近の若い者は――なんて台詞が頭を()ぎりそうになるところを、懸命に押し戻す。

「男はなあ、四十過ぎから、本物になるんだよ! お前なんか、「かわゆいでちゅねー」なんて赤ん坊扱いされるだけだ」

「歳ぃ取って渋みが出るどころか、まともに腰も振れない男じゃ、マリリンも相手にしないでしょう」

「なんだとぉ? ……あ、痛え! 急ブレーキ踏むなって言ったろ!」

 結局、罵り合いしながら、ビバリーヒルズ・ホテルの手前の、背の高い建物の前で、車は駐まった。

「マリリンが宿泊している場所は、ここじゃないだろう」

 アダムが気楽な調子で、エンジンを切った。

「ガイシャはここ、ハリウッド・エセックスハウスに泊まっていたんです。それに――」

 アダムの顔が、これ以上ないくらい、デレデレに崩れた。

「マリリンも、夫のアーサーと一緒が嫌で、こっちに部屋を取ったんだそうです」

 自分より後輩のアダムが、現場の事情を知っているとは。

 ハロルドは、腰を刺激しないように、ゆっくり助手席を降りると、精一杯の力で、音が出るほどドアを閉じた。

 腰がピリリと痛み、大いに後悔した。

「で、第一発見者がマリリンだなんて、最高のオチはないだろうな」

 アダムが爽やかな顔で、白い歯を見せた。

「まさか! だって、まず、第一発見者を疑う作業が、我々の常じゃないすか」

「マリリンが、人を殺すわけない、か?」

「そもそも、殺されたのか、って点が、不明なんですよ。どう見ても、飛び降り死体ですから。自殺の線が濃厚でしょう」

 アダムが先に立ち、警察が引いた黄色いテープを潜った。ハロルドはコルセットをしっかり押さえながら、慎重に身を潜らせた。

 死体は、赤いキャディラックのボンネットに、顔を上に向け、両手両足を投げ出していた。出血はあるようだが、ボンネットの色のせいで、あまり目立たない。

 キャディラックは路肩に駐車してあり、エセックスハウスの上階から飛び降りたのなら、ここに落ちるだろう。ハロルドが顔を上に向けた。

「ガイシャの部屋は、この真上か?」

「そのはずです」

 そこへ、現場に先に到着していた同僚のマック・カーターが声を掛けてきた。この男はハロルドと同世代だが、異常なまでにクールな男だった。

 挨拶もそこそこに、マックが状況説明を開始した。

「ガイシャの名前は、エリック・ドノバン。二十五歳、白人、ブルネットに青い瞳。イギリス国籍で、イヴ・モンタンの付き人をしていた。有名人の下で経験を積んで、ゆくゆくはデビュー、って理想だったんだろうな」

 ハロルドは思わず、吐き捨てた。

「イギリス人なら、イギリスでデビューしておけばいいのに。こんな異国の地で死んじまったら、親御さんも悲しむだろう」

 アダムが、空を見上げ、ぽかんと間抜けに口を開けていた。

「なんでまた、飛び降りたりなんかしたんでしょうね?」

「人生に絶望でもしたのか。酔っ払った上の事故だったのか。関係者に事情聴取すれば、少しは見えてくるだろう」

 アダムが、浮き浮きした声を出した。

「じゃあ、マリリンにも話が聞けますね! こういう時、サインを貰う真似は良くないですかね?」

 ……呆れて、ものが言えない。

 ロスという土地で刑事などやっていると、時々は、ハリウッドの事件に関わる場合がある。一九二〇年代は特に、映画スターが呪われたように死んだり、逮捕されたり、スキャンダルが絶えなかった。

 どちらかと言えば、未解決事件が多かった。麻薬に酒に乱痴気騒ぎ、当時は今とくらべものにならないほど、映画人たちの風紀は乱れていた。今のハリウッドは、どうなのだろう?

 マスコミがラジオと新聞だけでなくなり、テレビという媒体ができた。無料でドラマが見られる魔法の箱。案外とハリウッドは、世間が思っているより早く、凋落(ちょうらく)していくのではないか。

 そこにマックが、冷静な声で割って入った。

「飛び降りたかどうか、わからんのだ」

「何を言ってるんだ? ガイシャの部屋は、この真上だろう?」

「そうなんだが、鍵が掛かっていた」

 アダムの興奮状態も問題だが、マックの冷静さも不気味だった。

「鍵ぐらい、掛けるだろう。覚悟の自殺なら、さ」

「窓も施錠されていた」

 情けない話だが、ハロルドはマックの言葉の意味が、一瞬、わからなかった。だから、「はぁ?」と意味不明な応答をした。

「飛び降りたら、窓は開いているはずだろうが。この道に面した窓は全部、施錠されていた」

 ってことは、犯人に突き落とされたのか。ハロルドは不審な思いに、眉根を寄せ、念のため、確認した。

「部屋に誰か、いたのか?」

「誰もいない。完全な密室だった。自殺だとしたら、死んだ後に、窓の鍵を閉めに戻らなければならない。他殺だとしたら、部屋の中に誰かいなきゃならない」

「マスターキーは?」

「部屋の異変に気付いた人間が、フロントに駆け込んで、支配人がじきじきに、鍵を開けた。エリック・ドノバンの部屋のローテーブルに、鍵は置かれていた。他に鍵はないそうだ」

「エリックの死因は?」

「全身打撲。骨折の箇所もあった」

「高いところから飛び降りないと、そんな死に方は、しないだろう」

 ――……わけがわからん。

 ハロルドは、もう一度、建物を見上げた。……五、六、七、八。八階建てか。

 考え込んでいるところに、アダムが茶々を入れてきた。

「エリックの部屋は七階だそうです」

「うるさい! 今、考え事してたんだよ!」

 アダムの首を掴み、軽く絞めた。

「わからない不満を、僕にぶつけないでくださいよぉ!」

 遺体は専用バッグに包まれ、ロス市警の検視局に運ばれていった。ハロルドは大きく息を吐くと、再び建物を見上げた。

 どういうことだ? 部屋は完全な密室だった。ドアも窓も施錠されている。一番に考えられる理由は、ガイシャが突き落とされ、犯人が窓を施錠、ドアも施錠して逃げて行った――といった顛末だ。

 しかし、鍵は、部屋の中に残されていた。マスターキーは、支配人しか使えない。もう一つ、鍵があったのだろうか? 誰にも知られないよう、合鍵を作ったか?……しかし、ガイシャの外出中はフロントに預けてあるし、そうそう合鍵を作る時間があったとは思えない。

 ――これは、怨恨の線だろうか?

 イヴ・モンタンの付き人だったのなら、雇い主にも話を聞かなければ。フランスからはるばるやって来たばかりなら、このハリウッドにガイシャを恨みに思う人間は少ないはずだ。

ハロルドは、現場検証を呆然と見つめているホテルの支配人に、声を掛けた。

「遺体発見当時の様子を、詳しく話してくれませんか」

 支配人が広くなった額に浮かんだ汗を、ハンカチで拭った。

「はい。実はご遺体の発見の前に、一つ騒動がございました。ご宿泊なされているご婦人から、712号室の様子がおかしいからと相談を受けまして、私とフロントのカーソンと共に、スペアキーを持って、駆けつけたんでございます。いくらノックしても、ご返事がなかったので、カーソンとも了解した上で、鍵を開けました」

 ハロルドが手帳を取り出し、書き留める用意をした。

「そのご婦人が、最初に異変に気付いたのですね。名前は?」

 支配人が、まるで謝りでもするかのように、頭を下げた。

「女優の、ミス・マリリン・モンローです。映画がクランクインする日に、ビバリーヒルズ・ホテルから、こちらに急に移られまして……。その日の夜には、仲良く一緒に帰られる様子など見られて、とても親し気でした」

 ハロルドは驚いて、思わずアダムと顔を見合わせた。

「親し気と言いますと? ミス・モンローは、ミセス・ミラーでもあるんですよね?」

 支配人の汗は、耳の裏から首へと流れ落ちた。

「お客さまのプライバシーに関する問題ですから」

「人が一人、死んでいるんですよ! 非常事態と心得てください」

「は、はあ……」

 何ともはっきりしない男だ。ハロルドはアダムに指示した。

「ミス・モンローに話を聞こう。アダム、ここまでお連れしろ」

「え、えええええ? ぼ、僕がですか?」

「何を驚いていやがる。あんなに話したがっていたじゃないか」

「でも、こんな雑然とした場所に、お連れするなんて……」

 支配人もアダムに同調した。

「ミス・モンローは、ドノバンさまが亡くなられたと知って、酷い衝撃を受け、お部屋で休んでいます。とてもナイーブな神経の持ち主ですので、今すぐの事情聴取は……控えていただけないでしょうか」

 ハロルドは、うーんと唸った。曲がりなりにも有名人で、ファンも多い。無理な捜査をすれば、問題にもなるだろう。

「それなら、ミス・モンローの旦那さま、アーサー・ミラー氏に話を聞かせてもらえますかね? あと、ドノバン氏の雇い主だった、イヴ・モンタン氏にも。確か、部屋が隣同士だったんですよね?」

「お二人は、ここではなく、ビバリーヒルズ・ホテルにご宿泊中です。こちらから連絡を入れておきます」

 若いボーイが「ご案内します」と、一歩先を行き、歩き出した。

 ビバリーヒルズ・ホテルとハリウッド・エセックスハウスの形状の違いに、別世界に迷い込んだ気分だった。ビバリーヒルズ・ホテルは、部屋が一戸一戸独立して、青空の下に真っ白な村落を形成しているかのようだ。

 ハロルドたちの訪問を受けると、アーサーがリビング・スペースのソファを勧め、パイプに火を入れた。

「正直、マリリンがあちらのホテルに移ってから、何も知らんのですよ。クランクインにはスタジオに行きましたが、場違いな感じで。あとは、フォックス社が書斎を借りてくれたと割り切って、執筆活動をしています」

「その……どういう経緯で、奥さまだけが、あちらのホテルに移られたのですか?」

 アーサーが小さく失笑した。

「僕らの仲も、そろそろ終わり、ということでしょうかね」

 まさか、「そうなんでしょうね」などと軽はずみな相槌は打てない。すると横でアダムが、うむうむと深く首を縦に振っていた。思わず、後頭部をブッ叩いた。

「痛ってぇ」

「頷くんじゃない。失礼だろうが!」

 するとアーサーが、愉快そうに笑い出した。

「若いほうの刑事さんは、マリリンのファンでしょう。ファンの間では、僕らの仲がすっかり冷えていると、評判ですよ」

「すると、奥さまが別の部屋を取られた理由は、貴方と同じ部屋で過ごしたくなかったからなんですか? それ以外に、理由は考えられませんか?」

 逆にアーサーが切り返した。

「と、言いますと?」

「……亡くなられたエリック・ドノバン氏が関係しているのではないか、と」

「この映画の撮影に入るまで、マリリンとエリックに面識があったとは思えません。もし今現在、マリリンがエリックを愛しているとしても、ここを出て行った理由ではありません」

「率直なところ、エリックを、どう思っていましたか? 疎ましいとか、同じスタジオにいて不快だとか。エリックと会いたくないから、初日以外はスタジオを訪れていないのでは?」

 アーサーが初めて、真顔になった。

「それはありません。正直な話、マリリンが誰を好きになったって、もう構いませんよ。それだけ、僕らの仲は壊れているんです」

 ――随分、夫婦の仲を明け透けに告白するんだな。男として、女房を繋ぎ止めておけない事実は、恥ずかしいものではないのだろうか?

 まだ殺しとも自殺とも断定されていないが、もし殺人の場合、アーサーは容疑者の一人になり得る。愛しい妻のハートを奪った男として。

 夫婦関係が壊れているから気にしない、なんて主張を、ハロルドはまともに受け取ってはいなかった。

(ちな)みに、昨夜はどちらに? 皆さんにお聞きする質問なんですが」

 アーサーの表情を見ると、特段、不愉快そうではなかった。

「昨日は一日、ずっとここに籠って、小説を書いていましたよ。昼過ぎに起きて、そのまま朝になるまで」

「それは、熱心なことですなあ」

「マリリンがいるより、正直なところ、(はかど)るんです。マリリンと別室になって、お互いに良かったわけです。あ……マリリンはエリックがとんだ事態になって、良かったとは言えませんね。でも、エリックが死ぬまでの短い期間、二人は幸せだったと思いますよ。明らかに、魂の触れ合いを感じました」

 まだ検視が済んでいないために、正確な死亡推定時刻はわからない。だが、アーサーはずっと一人で執筆活動をしていた。アリバイはどのみち、ない。

 21号室に入ると、イヴがちょうど電話を架けているところだった。フランス語なので、何を言っているのか、さっぱりわからない。国際電話だろうか。

 ハロルドたちに気付くと、ニヤリと笑って、ソファを指さした。

 ――ここに座ってろ、ってか。

 アダムが不安そうに耳元で囁いた。

「英語、通じるんすかね?」

「通じるに決まってるだろうが! ハリウッドで映画に出るんだぞ」

 とはいえ、初めて交わす言葉はフランス語がいいだろうか。「初めまして」はフランス語で、どういうんだったか?

 イヴが電話を終え、ハロルドたちに向き直った。フランスの伊達男に相応(ふさわ)しく、まるで軽くステップを踏むように近づいてきた。

「いやぁ、付き人に死なれて、朝から天手鼓舞(てんてこまい)ですよ」

 流暢(りゅうちょう)な英語だった。さすが、世界を股にかけて活躍する男は違う。余計な似非(えせ)知識を披露して恥を掻かなくて済んだ。

「亡くなられたエリックは、どういった経緯で付き人になったんですか?」

 イヴはハロルドたちの向かいの長椅子の中央に、どっかと座り、脚を組んだ。

「もともと、エディット・ピアフのファンでね、ずっとシャンソンを歌ってきたと聞きました。イギリスでは今一つ受けが悪いと、本場のフランスに渡ってきました。この世界、英語ができる付き人がいると、何かと便利なんですよ。それで、僕の下で働くようになりました」

「ここアメリカには、奥さまのシモーヌとエリックの他、フランスから連れてきた人間はいますか?」

「いいえ、二人だけです。コンサートに来るなら、スタッフも必要ですが、映画出演ですからね。フォックス社が全面的にバックアップしてくれていますし。フランスのスタッフは、ハリウッド映画に関しては、素人です。撮影の邪魔にしかならないと考えました」

「では、エリックが何か問題を抱えていたか、ご存じありませんか? 人間関係で悩んでいたとか、芸の道に行き詰っていた、とか」

 イヴが意外そうに眉を上げた。

「自殺の線で捜査は進んでいるんですか?」

「あらゆる可能性を考えています。お心当たりは、ありませんか?」

「実は、馘首(くび)にしたんです。アメリカ人が妙な入れ知恵しましてね。フランスではなく、アメリカでデビューしようなどと考えたようなので。目を掛けてきたのに、裏切られた思いでしたよ」

 ハロルドは、アダムと顔を見合わせた。フランスの関係者が少ない点から、怨恨(えんこん)の線は薄いと見ていたが、雇い主とトラブルになっていたか。

「恩を仇で返されたわけですね」

 イヴが大袈裟に両手を上げた。

「馘首にしたことで、後腐(あとくさ)れは一切なくなりました。フランスに連絡して、別の付き人を来させるよう段取りをしていますが、別にエリックを恨んだりしていません。ビジネスと

して、成立しなかっただけです。あの程度の実力じゃ、アメリカでデビューを画策(かくさく)しても、失敗に終わったでしょうからね」

「その、エリックにアメリカ・デビューを吹き込んだ人間は誰か、ご存じありませんか?」

 イヴが、さらりと告げた。

「マリリン・モンローですよ。自分がバックアップするから、僕の側を離れろと、入れ知恵したんです」

 エリックとマリリンは親しい仲だと、エセックスハウスの支配人も匂わしていた。やはり、マリリンに話を聞く必要性は大いにある。

 不意にドアが開き、イヴの妻のシモーヌ・シニョレが入ってきた。イヴが何事か声を掛け、シモーヌが応える。

 当然、何を言っているのか、さっぱりわからない。

 シモーヌが大人しく、イヴの脇に腰を下ろした。イヴを気遣うように手を伸ばし、膝に載せた。イヴに比べ、たどたどしい英語だった。

「エリックが死んだなんて、ショックです。とても献身的に、イヴを支えてくれました」

 こういう時の、無難な答だった。でも、そこに、エリックに対する温情は感じられなかった。

「でも、馘首になったんですよね?」

「私は、エリックのほうから去ったのだと聞いていますが。イヴは勝気な性格なもので、

自分が主導権を握っていたと、吹聴(ふいちょう)したいだけなんです」

 つまり、妻の立場から見れば、イヴとエリックの仲は、そんなに悪くなかったわけか。マリリンがアメリカ・デビューを誘いさえしなければ、問題は何もなかったと言いたいのだろう。

「奥さまから見て、エリックの周囲に、反感を持つ人間は、いませんでしたか?」

「それは、ここアメリカでの話でしょうか?」

「フランスも含めて、です。殺し屋を雇った可能性だって、ありますからね」

 シモーヌが「物騒な話ですこと」と眉を(ひそ)めた。

「特に反感を持っていた人間は、いなかったはずです。イヴの下で勉強している人間は、エリックばかりではありません。今回のアメリカ進出でエリックが付き人に選ばれた理由は、英語が得意だったからです。特に突出した才能があるわけでもないし、控えめな性格で、敵は少なかったはずです」

「マリリンとの関係は、どう感じましたか?」

 シモーヌが、少し考えて、応えた。

「アーサーには悪いけれど、お似合いでした。アーサーとマリリンの仲はもう、終わっています。マリリンはエリックに夢中な様子でした。スタジオにいても、マリリンの目は、常に、エリックを追っていましたもの」

「昨日の夜の、貴女がたの行動を教えていただけないでしょうか。スタジオからの帰りは、エリックと一緒だったんですか?」

 シモーヌが「どうだったの?」とイヴに問い掛けた。イヴが即座に応えた。

「いや、昨日は、最初から一緒ではありませんでした。もう、契約は解消しましたから。明け方に戻ってきたエリックに、馘首を言い渡して、僕はシモーヌとスタジオに行きました」

「なるほど。で、エリックはその後どうしたんでしょう?」

「エリックは部屋に籠っていたはずですよ。結局、こうして騒ぎになるまで、エリックの

動向を知る(すべ)は、ありませんでした。ま、どうでもいい問題でもありましたしね」

「夜は奥さまと二人きりで?」

「いや、シモーヌを連れて、監督のキューカーと部屋で飲んでいました。この部屋に戻った時刻は、二時を少しまわった頃でしょうか」

「ということは、お二人とも、エセックスハウスにいらしたわけですね」

「そうです」

 シモーヌが思い出したといった顔で、付け加えた。

「ちょうど、外で大きな物音がしたわね。ガシャーンと、何かが激しくぶつかる音。交通事故かと思ったけれど、結局、サイレンが鳴らず、何だったのかしらと、少し話をしたんです」

「二時頃に、物音がしたんですか。もしかして、何かが落下する音ではありませんでしたか? たとえば、人が飛び降り、車のボンネットに叩きつけられたような」

 シモーヌが驚愕に目を開き、イヴを見つめた。イヴの声が少し動揺した。

「あの音が、エリックが飛び降りた時の音……考えられますね。言われてみれば、そんな感じの音だった」

 ここはいったん、署に戻ったほうがいいだろう。検視の結果に、この情報がどう絡んでくるか。

 ハロルドとアダムは、イヴたちに礼を言うと、そそくさと部屋を辞した。

 マリリンは、夢の中で、エリックの背中を追いかけていた。

 夢だと、はっきりわかる理由は、いくら大声で呼びかけても、エリックが振り向いてくれないから。現実のエリックだったら、必ず振り向いて、マリリンに向かって駆けて来てくれるはずだ。

 エリックが立ち止った。マリリンも合わせて、歩を止める。振り返らず、エリックが叫ぶ。

「もう、追いかける真似は止めてくれ! 僕は君の元には、戻れない」

 そこで、目が覚めた。気づくと、顳顬(こめかみ)から耳の上にかけて、涙が流れていた。

「目が覚めたわね」

 聞き覚えのある声が、上からした。眉間に皺を寄せ、焦点を合わせる。

 黒ずくめの衣装に太った体を包んだ、中年の女性。マリリンの演技コーチの、ポーラ・ストラスバーグだった。実の娘である女優のスーザン・ストラスバーグの問題に関わっていて、クランクインには遅れたが、ようやく、やって来たわけか。

「私、どのぐらいの間、眠っていたの?」

「まる三日よ。これ以上、眠り続けるなら、医者に診せるべきだと話をしていたところなの」

 三日も、薬なしで眠れたなんて……信じられなかった。いや、眠っていたわけではない。気を失っていた。あまりにも衝撃が激し過ぎて。

 マリリンは、ポーラの後ろに、エヴェリンの姿を探した。

 映画の撮影に入ってから、いつも身近にいてくれた人間は、エヴェリン以外にいなかった。エリックの問題を一番考えてくれて、応援してくれた存在も、エヴェリンだった。

 でも、今、部屋のどこにもいない。ポーラが、まるで最初から脇にいてくれたかのように振る舞っている様に、何故か、怒りを覚えた。

「エヴェリンは? エヴェリンは、どこにいるの?」

 ポーラが、どうでもいい問題かのように、軽く応えた。

「ああ、ミス・パーフェクトね。しばらくは部屋にいたんだけれど、疲れた様子だったから、休ませたわ」

 今、間近にいないからといって、エヴェリンがポーラほど、マリリンを心配していない理由にはならない。たまたま、ポーラが従いている時、目覚めたに過ぎない。

「……呼んでくれないかしら?」

「そんな問題より、貴女が目覚めた事実を、フォックス社に報告しなきゃ。この三日間、

撮影が頓挫(とんざ)しているの。貴女が出てこないイヴだけのシーンを撮る選択肢もあったんだけど、人が一人、死んでいるから」

 人が一人、死んだ……その程度の問題なのか?

 マリリンにしてみれば、世界が崩れ落ちたぐらいの衝撃だったのに。やはり、ポーラに気を許す気分にはなれなかった。

 ポーラが受話器を取り上げ、ダイヤルをすると、大きな声で話し始めた。

「マリリンが目を覚ましたわ。……ええ、元気そうだわ。……そうね、そうしてちょうだい。……ええ、明日からスタジオに出られると思うわ。私も付き添うし――」

 なんだか嫌な展開になっている。ポーラはフォックス社と、今後のスケジュールを話している。

 ――明日から出られる、ですって? 私が受けた衝撃は、その程度だと思っているの?

 マリリンは怒りに任せ、両腕でベッド・スプレッドを叩いた。

「エヴェリンを呼んで! 早く呼んでくれないと、この部屋から今すぐ、飛び降りてやるから!」

 エヴェリンが部屋に入って来た。

「マリリン、良かった! 一時は、永遠に眠り続けるのかと心配したんだから」

 横でポーラが、白い目で見た。

「精神に衝撃を受けたら、二日や三日、懇々(こんこん)と眠り込むくらい、よくある話だわ。貴女も大袈裟ねえ」

 マリリンは不快な思いに、眉根を寄せた。ポーラは無視しよう。

「あれから後、どうなったのか、教えてちょうだい。エリックはどうして死に至ったの? 殺されたのだとしたら、犯人は誰なの?」

 エヴェリンが、うっと言葉に詰まった。何かを話そうとしたが、気が変わった様子で、無理な笑顔を作る。

「そんな問題は、あんたが考える必要ないって。今はゆっくり休んで。体力もだいぶ落ちているだろうから、撮影も徐々に復帰していけばいいと思う」

 横からポーラが口を挟んだ。

「休んでいれば事態が進展するわけではないわ。マリリンには明日から、撮影に復帰してもらいます」

 エヴェリンが驚きと嫌悪を露わにした。

「そんな、無謀です! マリリンは最愛の人を失ったんですよ!」

 ポーラが眉根を寄せた。

「最愛の人? どういう意味?」

 どうやらポーラは、エリックとマリリンの関係を知らないらしい。

「マリリンとエリックは、愛し合っていたんです。エリックに、フランスではなく、ここアメリカでデビューするように提案した人間も、マリリンです」

 ポーラが驚きに目を見開き、次に小さく笑った。

「愛し合っていた、ですって? 馬鹿馬鹿しい! 知り合って、何日も経っていないんでしょう?」

「愛に時間は関係ありません!」

「貴女も、ミス・パーフェクトって呼称がつくのなら、少しはまともな頭になることね。マリリンにはアーサーという夫がいるでしょうが。不倫の関係なんて、世間は絶対に許しはしないわよ」

 エヴェリンが何か言いかけようと、口を開いた。

 もう、いい! マリリンは声を上げた。

「エヴェリン、いいのよ! エリックの問題で、これ以上に生きている人たちが言い争いをするなんて、悲しいわ」

 エヴェリンが、そっとマリリンの手を取った。

「わかった、そうだよね。あたし、マリリンが意識を取り戻したって、伝えてくる。皆、心配しているんだよ」

 マリリンは感謝の思いで、頷いた。

 実際、マリリンの映画に関わるスタッフは、総じてマリリンを嫌いになる。遅刻癖と、薬の乱用で、なかなか仕事にならないから。

 幸い、今回の出演者やスタッフの中で新たに入った人々はまだ、マリリンの酷い状況を把握するほど、時間を共有していない。マリリンにとって、今が汚名返上の大チャンスだった。

 エヴェリンが外に出て行こうとした瞬間、ノックの音がした。エヴェリンが振り返り、マリリンに確認を取る。マリリンは黙って頷いた。

 ドアを開けると、アーサーが立っていた。

 アーサーが皮肉な笑みを浮かべた。

「セックスの女神に、ミス・パーフェクトに、ユダヤの魔女。こうも役者が揃うと、壮観だね」

 マリリンは威嚇(いかく)の顔を作り、アーサーを睨んだ。

「何しに来たの?」

「ご挨拶だな。夫が意識不明の妻を心配して、部屋に来てはいけないのか?」

「どうせこの三日、ろくに訪れてもいないでしょうに」

 アーサーが目を開き、にやりと笑った。

「よくわかったな。当たりだ」

 アーサーがエヴェリンの体を押しのけ、部屋に入ってきた。

「具合は、どうだ?」

「いいわけ、ないでしょ」

 どうしてこうも、喧嘩腰になってしまうのか。お互い、自分の思いを呑み込んで労わりの言葉を掛ける真似も忘れた。こんな形、もう夫婦ではない。

 アーサーが、今度はエヴェリンに尋ねた。

「マリリンには、どこまで状況を説明しているんだ?」

 エヴェリンが警戒の顔で応える。

「ようやく意識が戻ったんですよ。刺激したくないんです」

 何かを隠している? マリリンが眠っている間に、何か判明した事実があるのだろうか?

「何かわかったのなら、教えて! 私を除け者にしないで!」

 エヴェリンが困った様子で、頬に手を当てた。ポーラも何か言いたそうだが、黙っていた。口を開いた人間は、アーサーだった。

「あの夜、君はエリックと一緒にいなかったのか?」

 こちらが尋ねているのに……でも、とにかく返事をした。

「一緒だったというか……。スタジオから真っ直ぐ帰って、エリックの部屋に行ったら、会いたくない、みたいなことを言われたから、そっとしておこうと思ったの。でも、しばらくしたら、機嫌を良くしたみたいで……その、ちょっとしたお遊びをしたのよ」

「なんだい、それは?」

「……かくれんぼ。エリックが自分の身の回りの品を、あちこちに置いていって、私が追いかけるの。結局、あの夜は見つけられなくて、自分の部屋に帰ったわ」

「その後、エリックはこの部屋を訪れなかったか? そんな遊びをしていたんなら、君が一抜けしたところで、ゲームオーバーだ。普通に部屋を訪れるんじゃないか?」

 マリリンは、ぼんやりした頭を、懸命に動かした。

「わからないわ。私はシャワーを浴びて、バスローブ姿のまま、眠ったから」

 アーサーの眉が、ぴくりと動いた。

「まさか、薬なしで、か?」

 アーサーが驚く理由はよくわかる。マリリンは完全にバルビツール系睡眠薬の依存症に

(かか)っていた。薬の量もどんどん増え、今は通常の五倍か六倍を服用しないと効き目がないほどだった。

 だからこそ、言えた。エリックとの愛は運命だったのだ、と。エリックとなら、心身共に健康な状態で、共に人生を歩いていけた。

「ええ、薬は飲まなかったわ」

 するとアーサーが、意外な推理を展開した。

「実は、眠っていなかったんじゃないのか? それで、エリックの訪問を受けた。二人は一緒の時間を過ごした。何をしていたか、なんて聞くほど野暮じゃないが」

「エリックは、ここには来ていないわ」

 と反論したところで、ハッとした。

 マリリンは眠っていた。だが、エリックはやって来たのかもしれない。でも、マリリンがドアを開けたわけじゃないから、部屋に入ってこられない。鍵は……鍵は閉めていただろうか?

「少なくとも、私に意識がある間、エリックの訪問はなかったわ。鍵を掛けていたのか、よくは覚えていないの。でも、仮にドアが開いていたとしても、私は眠っていたのだし、エリックだって、早々に帰ったはずよ」

 アーサーが胸の前で腕を組み、重心を右から左に替えた。

「エリックはこの部屋に来たはずだ。君が応対しようがしまいが。何かが起こったとしたなら、この部屋でなんだ。それに僕は、端から君が睡眠薬なしに、眠りに落ちたなんて、信用できない」

 どこまでも冷たい男だ。何が言いたいのか! 回りくどい言い方は、いい加減に止めて欲しい。

「私は確かに意識がなかったんだけど、いいでしょう、起きていたと仮定して、エリックの訪問も受けた。そしたら、何が起きるの?」

 アーサーが、真顔で断言した。

「エリックは、この部屋から落ちたんだ」

「何ですって!」

 側で聞いていたポーラもエヴェリンも、信じられない顔をしていた。マリリンとて同じだ。

「どうして、そんな話になるのよ!」

 まるで、マリリンがエリックを突き落としたみたいな言い草ではないか。アーサーは冷静なものだった。いつもマリリンが興奮し、アーサーが整然と言葉を並べる。勝てるわけがない。しかし今回は別だ。アーサーの推理なんて、まともに聞いていられない。

 エヴェリンが、アーサーの背後で威嚇した。

「そんなこと、あるわけないでしょうが! 実際にそんな問題が起きていたとしたら、マリリンは今こうして生きているもんですか!」

「エリックの部屋の窓は、施錠されていたんだ。玄関ドアも鍵が掛かっていた。鍵は部屋のローテーブルの上。完全な密室だ。七階のあの部屋から、飛び降りる真似はできない。だから、エリックは一つ下の階のこの部屋から、落下したんだ。七階から転落しようが、六階から転落しようが、落ちる先は同じだ」

 マリリンは呆然としたまま、動けなかった。

 この部屋から落下? マリリンに覚えはない。しかし覚えていないから、何も起きなかったわけではない。

 マリリンの部屋から落ちたとすれば、密室の謎も解決するわけだ。

 ロス市警も、アーサーと同じ見方をしていた。

 死亡推定時刻は、午後十一時から午前三時の間。何かが落ちる物音を聞いた人間が複数人いて、推定時刻と一致する。エリックは何らかの理由で、マリリンの部屋から午前二時に飛び降りた。

 しかしハロルドは、何かが引っ掛っていた。そこで、ハロルドは再びアダムを連れて、現場である712号室に向かった。アダムが不平を呟く。

「密室の謎は解けそうなんですから、もう、いいじゃないですか」

「そうはいかん。何か他のトリックがあったのかもしれん」

 反論しながらも、自分でも苦しい発想だと思う。

部屋はドアを開けた先に、三人掛けのソファがL字型に設置されており、ローテーブルを囲っていた。このテーブルの上に、部屋の鍵はあった。

 ガラスの破片が散らばっていた場所は、ソファの真後ろの床だった。鑑識が調べた結果、安物のグラスだった。中は空っぽだった。

 ――どこに座れば、こんなところに破片が飛ぶかなあ。

 ハロルドはL字型のソファの座面全てに座ってみた。座っている状態で、グラスを投げつけられる場所は、破片が落ちていた裏に当たる座面で、座ったまま体を捩じらせ、背後に落とすしかない。一連の動作を確認して、頭を掻く。

「こんな捨て方、するかなあ」

 アダムが手帳を捲り、証人たちの証言を確認した。

「スタンドインの話では、撮影を終えてホテルに帰って、真っ先にこの部屋に向かったようです。時間は、他のスタッフの証言を総合すると、七時頃です」

「そこで、ガラスが割れる音を聞いたんだな?」

「はい、「うるさい! 僕を放っておいてくれ!」と叫んだ直後、ガラスが割れる音がしたそうです」

「マリリンも一緒だったんだよな?」

「はい、昏睡状態から回復したそうですから、安定したら、証言を取れます」

 ハロルドは、その場でグラスを持つ真似をし、「うるさい! 僕を放っておいてくれ!」と叫ぶと、体を捩じらせ、背凭れの後ろに腕を振った。

「こんな珍妙な行動、するかなあ。普通は、目の前の壁にぶつけないか?」

 アダムが、ふむと顎に手を当てた。

「ですね。背後の床にぶつけたって、大したストレス発散にならないでしょう。背凭れが邪魔です」

 ハロルドは、もう一度、背後にグラスを投げる真似をすると、ソファにごろりと横になった。

「しばらくは、こうしていたんだろうなあ。空のグラスを一個、珍妙な場所に投げ捨てるよりは、酒の一杯も飲みたくなるんじゃないか?」

 ローテーブルの周りには、酒瓶は置かれていなかった。

「そうっすね。やっぱり自棄酒が一番ですよね」

 なにが、やっぱり一番、だ。このコンビでストレスが溜まり、酒に溺れたい人間といったら、ハロルドに決まっているだろうが。

 エリックの行動は、妙にちぐはぐだ。密室の謎を解決したと思ったが、そう簡単な話ではないのかもしれない。

 意識が覚めてから、一週間、マリリンは床に臥せっていた。

体力は戻った。体で悪いところは、もう、どこにもない。けれど、心は壊れたままで、破片を一つ一つ、くっつける作業に難儀していた。いや、もう放棄したかった。

後ろから、逞しい腕がマリリンを包んだ。

「まだ、エリックのことを考えているのか?」

 イヴが囁きながら、マリリンの首の後ろにキスをした。マリリンは身を捩り、ブランケットを被った。

「止めて、イヴ。貴方、上手過ぎるわよ。このまま好きになられても、困るでしょう?」

 イヴがマリリンの体をくるりと回し、瞳を見つめた。

「いいや、好きになって欲しいね。君は全身全霊で愛するべき、最高の女性だもの」

「シモーヌは、どうするの? まさかシモーヌと離婚して、私と結婚してくれるの?」

 イヴが呆れた様子で、眉尻を下げた。

「どうして簡単に、結婚とか離婚とか考えるかねえ。互いを求めていて、愛し合っていれば、今は充分だろう」

 シモーヌは、フランスで映画の仕事があるため、帰国した。イヴは一人の寂しさ、気軽さから、マリリンを求めた。

 マリリンとしても、最初は抵抗があった。一時は、エリックを追い詰めた張本人だと思い、恨みもした。

だがフランス仕込みの愛の言葉を聞き、マシュマロを扱うように接してくれると、マリリンも、つい、その気になった。エリックを失って悲しんでいる存在は、マリリンだけではないと知った。イヴも……苦しんでいた。言葉の端々から伝わった。だから、許そうと決めた。

 だからって、こんな関係を続けちゃいけない。わかってはいるが、体と心が言うことを聞かない。イヴを求めてしまう。

 愛の国から来た王子さま。愛撫は巧みだし、アメリカ男のように、強気でばかり攻めてこない。自分は愛されている、世界で一番、美しい女性なのだ、と思わせてくれる。

 決してエリックを忘れたわけではない。むしろ忘れられないから、苦しくて、男の温かい胸に顔を埋めたかった。

 アーサーは、淫乱だと非難するだろう。自分でも認めている。節操がない。

 ただ、イヴと一緒にいると、心が安定した。必要以上に薬を服用する真似も抑えられている。薬物依存はマリリンにとって、大きな問題だった。まやかしの愛でもいい。

「なあ、マリリン。そろそろスタジオに出て来いよ。これ以上に休むと、スタッフに嫌われるぞ」

 マリリンは憂鬱な思いに、目を閉じた。

 今度こそ、頑張ろうと思ったのに。敵を減らすべく、きちんきちんとスタジオに通い、撮影をこなすつもりだった。それなのに……また同じ繰り返しだ。マリリンの情緒不安定と遅刻癖に、全員がうんざりしている。

 針の筵のような現場に顔を出すには、素面でなんかいられない。だから、薬を服用し、ふらふらになって、周りの目に鈍感になろうとする。

「わかっているわ。いつまでも逃げているわけにはいかない」

「君のいないシーンばかりを撮るから、キャストは大忙しなんだ。君の声だけのシーンでは、ミス・パーフェクトが君の代わりをやってくれている。アップでなければ、撮影だってしていいだろうと言い出す輩まで出てきているんだぞ」

 マリリンは大きく息を吐いた。いっそ、エヴェリンに全てを任せたら、どんなに楽になるだろう。

 新しく見えかけていた人生が、エリックの死と共に消滅した。マリリンはもはや、人生に希望を見い出せなくなっていた。

 ごろりと回転し、イヴに背を向ける。警察その他の見解が、マリリンを打ちのめしていた。

 エリックは、マリリンの部屋から飛び降りた。もしマリリンが起きていたら、エリックの死を阻止できた。マリリンはまるで自分がエリックを殺したように思えて、気が変になりそうだった。


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