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探偵マリリン  作者: 霧島勇馬
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第三章 灯 は 消 え る

第三章 灯 は 消 え る

 翌日の朝、四時半、マリリンは違和感に目覚めた。横でマリリンをしっかり抱き締めてくれていたエリックの体が見当たらなかった。

「エリック? どこにいるの?」

 不安な思いに、素肌に絹のローブを纏い、ベッドから下りる。

 バスルームを覗いたが、いない。大きく開いた 窓から、バルコニーに出てみる。空は薄っすらと朝の色が、夜の紺青色に淡いグラデーションをつけていた。

 バルコニーは意外に広く、小さなテーブルと椅子二脚なら置けそうだ。夜景を見ながら、二人でシャンパンを楽しむ真似も、できそうだ。

 それより、エリックは、どこに行ったのだろう? 落ち着かない思いで、部屋に入り、窓を閉めた。見ると、リビング・スペースのローテーブルに、書置きがあった。

「イヴのところへ一度、帰る。また、撮影現場で」

 エリックの行動にも、納得だ。昨日は、一度は戻ると言っておきながら、マリリンと、かくれんぼを楽しんだ後、ずっと部屋で二人きりだった。

 エリックはあくまで、イヴの付き人なのだから、職務怠慢だったと非難されてもしかたがない。

「……撮影現場で、か」

 できれば、エリックと一緒に出掛けたかったが、無理は言えない。エリックも、一度、イヴと本音で話し合う機会も必要だろう。朝の四時にようやく戻って、すぐに話し合いもできないだろうから、時間は掛かるが。

 部屋に一人きりなんだと自覚すると、落ち着かない気分になった。これから、シャワーを浴びて、着替えをし、メークを済ませ……。

 時間はいくらあっても足りない。いくら時間を掛けても、満足いく〝マリリン・モンロー〟には、とてもじゃないが、なれない。

 でももし、エリックが「これで充分だ」と確約してくれたら、自信を持って、マリリンとしてスタジオに顔が出せる。だから今日は、昨日のクランクインに続いて、遅刻せずに済むと思っていたのに。

 大きながっかりと、小さな混乱がマリリンを包む。不味い展開だ。

 マリリンは体の震えを抑えようと、深呼吸を繰り返し、胸に手を当てた。

 不安になったら駄目。不安になって、遅刻したら、エリックががっかりする。せっかく、エリックと出会い、薬を断てるかもと希望を持った。エリックも願いは同じだろう。

 睡眠薬の瓶を手に取り、じっと見つめた。

「……こんなもの、要らないわ」

 マリリンは瓶の蓋を開け、ホテル設置の塵箱に、錠剤を全て落とした。少し離れていただけで、また薬に頼るようなら、エリックの気持ちが冷えてしまうかもしれない。

 マリリンにとって、今日は大事な日だ。エリックなしで、身支度を整え、時間通りにスタジオに入る。

 スタジオに入ったら、エリックが、満面の笑顔で、両腕を広げて待ち構えているだろう。胸に飛び込んだら、「よくやった! 君なら、できるとわかってた」と祝福される。

 これから先、乗り越えなければならない多くの壁が存在する。今日、マリリンは最初の壁を壊そうとしている。一人で、薬を使わず、スタジオに行く。

とんでもない難関だ。でも、突破してみせる。これからマリリンの前に立ちはだかる様々な困難も、乗り越える度に、エリックとの生活に繋がっていくと、素直に思える。

マリリンは姿勢を正し、そっと目を閉じた。

「私は神に、試されているんだわ。エリックに相応しい女かどうかを」

 こんな時こそ、エリックの分身とも言えそうな、小さな代物が欲しかった。

 昨日のかくれんぼに使用したカフスボタンがあれば、勇気が萎えてきた時、掌でぎゅっと握り締めればいい。エリックの力が、マリリンを手助けしてくれる。

 今日は、あっぱれと言えるほど、何の痕跡も残していかなかった。昨日、返す時に、カフスボタンだけは貰っておくべきだった。スタジオで会ったら、頼んでみよう。

 不意に、ノックの音がした。エリックが戻ってきた?

 マリリンはドアに走り、ドアノブを回した。――エリックではなく、エヴェリンだった。

 エヴェリンが、何ともさばさばした表情で、小首を傾げた。

「どう、調子は?」

「……まあまあ」

「薬は、飲んでいないでしょうね? 実は、あたし、エリックがイヴの部屋に戻る前に、立ち寄られてさ、マリリンをよろしくって頼まれちゃったんだ」

 マリリンは、ほぉっと安堵の息を吐いた。エリックはそこまで考えていてくれたのか。

 ますます、期待には応えなければならない。いや、是非とも応えたい!

 マリリンは、エヴェリンの手を取って、ベッドサイドの塵箱を指さした。

「薬は全て、捨てたわ」

 エヴェリンが驚いたと喜びと両方からか、うっと息を呑んだ。次の瞬間、明るく大きな声でマリリンを祝福し、背中を叩いた。

「凄い、マリリン! 愛の力って、偉大なんだね。なかなか、できることではないもん。やだな、あたしも嬉し過ぎて、涙が出てきちゃったよ」

 マリリンは生まれてこの方、これほどの友情と愛情を得た記憶がなかった。心から信頼できる友達なんていなかったし、男はマリリンの体ばかりを愛した。結婚も経験したが、頼もしかった恋人は、優しい夫にはなってくれなかった。

 でも、これからは違う! なんたって、エリックなのだから! マリリンが体も心も全て預け、愛を捧げられる男。

「――リン、マリリン、聞いてる?」

 エヴェリンの声に我に返った。

「え? 何?」

「遅刻しないで、エリックとスタジオで落ち合うでしょ。そろそろ動かないと」

 不安が消えたわけではない。ただ、エヴェリンにも、いいところを見せたかった。

「ルームサービスで朝食を取って、それからシャワーを浴びるわ」

 エヴェリンが、それじゃ駄目だと立ち上がった。

「湯船にお湯を入れて、十分ぐらいゆっくり入ると、気持ちが落ち着くんだって。試してみよう」

 エヴェリンがバスタブに湯を張っている間、マリリンがフロントにモーニング・サービス二人分を頼んだ。エヴェリンがまだバスルームにいるのを確かめると、付け加えた。

「シャンパンもお願いね」

「かしこまりました」

 ようやく部屋に戻ってきたエヴェリンが、窓のカーテンを全開にする。

「陽光を浴びると、生物は元気になるんだって。あたしたちの場合、日焼けは大敵だけど、適度に太陽からエネルギーを貰う行為も、大事な仕事の一つなんだよ。ほおら、太陽が昇っていくよ」

 マリリンはエヴェリンの横に立ち、朝日を見た。途轍もないエネルギーの塊が放出する光を浴びて、マリリンも強くなりたかった。

「ねえ、知ってた? エリックの部屋、この真上だよ」

「ほんとに?」

「ほんとにほんと、712号室。天井をコンコンと突いたら、反応が返ってくるかもねえ」

 そうか、エリックはこんな身近に存在していたのか。不思議に嬉しくて、朝から調子がいい。

エリックがいて、エヴェリンがいて、太陽がいてくれたら、マリリンはきっと変われる。

 全てが上手くいっている感覚に、マリリンの心は弾んでいた。

 スタジオで、マリリンは心ここにあらず、だった。

 いつまで経っても、エリックが姿を見せない。イヴがかなり遅れて、やって来た。

 どういう事情なのか全然わからず、マリリンはイヴに直接、尋ねようと、一歩すっと踏み出した。生憎その時、監督のキューカーが現れ、皆の視線が一点に集中した。

 キューカーが、今日から撮影に参加するフランキー・ヴァーンを紹介した。本場もののミュージカル俳優で、今回の映画でプロの立場で、歌と演技を盛り上げる。

 マリリン演じるアマンダと舞台上で恋人役を演じ、イヴ演じるクレマンがヤキモキする展開が待っている。

 漆黒の髪と美麗な容貌で、プレイボーイのクレマンが自信を喪失する展開も頷ける。

 マリリンは一応、笑顔で、フランキーの手を握った。フランキーはマリリンとの共演より、イヴとの共演に興奮している様子だった。イヴと話が弾んでいた。

「一度、貴方の元に弟子入りして、シャンソンの世界を究めたいなあ」

「厳しい世界だが、成功した時の思いは格別だ。ちょうど、付き人を馘首(くび)にしたところだ、だから、その気があれば、歓迎だ」

 マリリンは耳を疑った。付き人を、馘首にした? だから、エリックがスタジオに現れないのか?

 思わず、マリリンはイヴに近づいた。

「どういうことなの? エリックを馘首にしたわけ?」

 イヴは惚けた笑顔を向けた。

「あいつは、付き人失格だ。僕の身の回りの世話もおろそかにし、一晩、連絡がつかない場所にいた」

 マリリンは、うっと息を呑んだ。マリリンの部屋で一晩を過ごした結果が、馘首なのか。

「たった一晩の話でしょ! 慣れない国にいるんだし、今回は許すべきだと思うわ」

 イヴが嫌な笑みを浮かべた。

「随分と肩を持つねえ。昨日から見てると、エリックの昨夜の行動は、君に原因があるのかな?」

「……私が謝ったら、許してくれるの?」

「ははは、それは、ないね」

 頬を引っ叩いてやりたかった。イヴが調子づいた。

「やっぱり君の部屋にいたか。でもね、却って状況は改善したんじゃないか? エリックは僕の付き人を辞めたがっていた。ここ、アメリカでのデビューを考えてね!」

 怒りで顔が熱くなる。

「それは貴方が、全然エリックのデビューに関して、後押ししてくれないからでしょ!」

「あいつは、まだまだ、一人前ではない」

 どこまで行っても、堂々巡りだ。説得をする価値もない男だ。

「エリックは今、どこにいるの? たった今、私がエリックを付き人に雇うわ。だから、居場所を教えてちょうだい」

 イヴは目の玉をぐるりと回し、掌を上にした。

「知るものか。部屋で荷物を纏めているんじゃないか?」

 このまま、職場放棄しよう。この映画とエリックを計りに掛けたら、エリックの存在が何倍も重要だ。

 マリリンは他人目(ひとめ)を盗んで、スタジオから出て行こうとした。メーク係のアンが呼び止めた。

「マリリン、どこへ行くんですか!」

 振り返ると、アンが腰に手を当てて睨んでいた。

「ちょ、ちょっと、そこまで出てくるだけよ」

 アンがつかつかと歩み寄り、マリリンの袖を掴むと、キューカーに叫んだ。

「監督! 次、マリリンのリハーサルですよね! 今いないと、駄目ですよね!」

 マリリンは呆気にとられ、アンを見つめた。

 ――何なの? 私の見張り役を買って出ているつもりなの?

 キューカーがじっとマリリンを見つめ、手で招き寄せた。しかたなく、キューカーの前に行く。わざと疲れた顔をして、あれこれ言い訳を考える。

「何だか、頭が痛いの。一度、ホテルに帰って休みたいのだけど、いいかしら?」

 キューカーの表情が途端に厳しくなった。

「駄目だ。カメラ・テストも終え、もう、君の出番なんだぞ。ここで君に抜けられたら、全員が迷惑する」

 カメラマンのダグラスと、編集のクレイグがカメラの横で、不安そうにマリリンを見ていた。マリリンが今、抜けたら、エヴェリンも含め、朝から準備していた苦労は報われない。

 そうそう、いつも、この展開になる。マリリンの遅刻癖も、こういった監督の声に影響していた。

 スタジオに入り、誰とも顔を合わせないうちは、そそくさと帰る真似ができる。でも、一度、一言でも監督と言葉を交わすと、途中帰宅は絶対に許されない。だから、開始の時間をとことん遅らせ、休みたい気分の帳尻を合わせるのだった。

 マリリンはどうしようもなくて、エリックに関して今や唯一の味方、エヴェリンに声を掛けた。

「エヴェリン、どうしよう! エリックがイヴの弟子を馘首になったわ」

 さぞ一緒になって怒ってくれると思いきや、エヴェリンが意外な返答した。

「よかったじゃないの」

「本気で言ってるの? エリックは私のせいで、無職になったのよ!」

「落ち着いてってば。エリックは、イヴと決別するために、一度、戻ったんでしょうが。忘れたの?」

マリリンは「あ……」と絶句した。そうだった。マリリンに説得され、本気でアメリカで活動するため、イヴの元を離れるつもりだった。

何も慌てる必要はない。イヴに馘首になり、エリックはマリリンに雇ってもらえるように、待っているだけだ。

今日はまだ、誰にも雇われていない立場だから、スタジオに来る真似ができないだけだ。

こんな早い展開になると思っていなかったから、無駄に焦ってしまった。それと、エリックから辞めたと聞くより、馘首になったと聞くほうが、聞く側は慌てるものだ。

マリリンは、ほぉっと安堵の息をついた。なんだ、そういうことか。慌てて損した。それにしても、エリックの行動は早い。決意を口にして半日も経たないうちに、実行したのだから。

不意に、とんとんと背中を叩かれ、マリリンはハッと振り返った。フランキーが笑顔で立っていた。

「リハーサル、行けるかい? 君との初の絡みだから、緊張しているんだ」

 マリリンは慌てて、笑顔を作った。

「そんな。私も緊張しているわ。お互いさまよ」

 フランキーを呼びにやった張本人は、キューカーだ。

 本来なら、厳しい声を上げるところだろうが、マリリンの扱いを心得ている。大声を出されると、マリリンは委縮し、演技なんてとてもできなくなる。だから、フランキーに優しい言葉を掛けさせた。

 ――この現場、そうそう悪いものではないかもしれないわ。

 今日、ホテルに帰って、エリックとの正式契約の準備を始めたら、マリリンはもっと落ち着いて仕事ができる。

 大丈夫、光は見えている。

 マリリンは大きく息を吐くと、フランキーの腕に手を掛け、キューカーが待つセットに向かって行った。

 ――主演の二人がこんなに険悪で、映画は上手く仕上がるんだろうか。

 エヴェリンの心配を他所に、マリリンが先ほどから、イヴの悪口ばかり口にしている。

 俳優がやる気満々でも、スタッフがきちんと動いてくれなければ、撮影は進まない。技術スタッフの一人が、風邪をこじらせたとかで、編集作業はクレイグ一人が担当することになり、細々した問題で、撮影に遅れが出た。

 自然、無駄話をする時間が増え、マリリン、エヴェリン、フランキーの三人が、セットの隅に腰掛け、会話を交わした。

 フランキーも、マリリンのイヴに関する悪口に、戸惑っていた。

「マリリン、君は随分、イヴを意識しているんだね。やっぱり、食われないよう、気にしてるのかな?」

「食われるですって! 冗談でしょ! この映画は、私がフォックス社との契約で、どうしてもこなさなければならない仕事だっただけよ。イヴは所詮は、私の相手役でしかないの。それなのに、我儘放題で、付き人を誰もわからないフランス語で扱き使って。最低よね!」

 フランキーとしても、同意を求められても困るだろう。ここは、エヴェリンが助け舟を出してやらなければ。

「でも、そんな問題も、今日で終わり。明日からエリックは、マリリンの付き人になるんだから」

 フランキーが不思議そうに目を開いた。

 そうか、昨日いなかったから、フランキーはエリックを知らないのだった。マリリンがすぐに説明した。

「エリックはイギリス人で、シャンソン歌手に憧れて、フランスに渡り、イヴに師事したの。でも、イヴは狭量で、才能あるエリックが自分を超えるのでは、と心配になり、デビューするチャンスを、ことごとく奪ったのよ! 挙句、たった一晩、連絡が取れなかった理由で、エリックを解雇したの! 許せないでしょ?」

 エヴェリンは、やれやれと首を横に振った。

 かなり、マリリンの思い込みが入った説明だ。エリックに才能あると信じる気持ちは、わかる。

 でも、歌声を耳にした経験はないだろう。案外と、イヴが考えている通り、まだまだの実力で、デビューなんて当分させられないとの判断が正しかったのかもしれない。

 ――ま、いいか。明日には、マリリンと共にご出勤。そうなると、アーサーの立場は、どうなっちゃうのかなあ。

 エヴェリンは恐る恐る、マリリンに尋ねた。

「アーサーは相変わらず、ビバリーヒルズ・ホテルの20号室にいるのかな? マリリンと起居を共にしないと、あまりあそこにいる意味がないと思うんだけど」

 マリリンがぷいと横を向いた。

「知るもんですか。でも、イヴやシモーヌとは、すっかり仲の良い親友気取りだし、三食豪勢な食事を摂れるから、出て行かないでしょうね」

「シモーヌはどうなの? 今日はスタジオに姿を見せないけど」

「たまたまじゃない? フランスの夫婦は、常に一緒にはいないものなのかもね」

 なんとなく、納得できないでいたが、大した問題ではない。

 撮影を終え、ホテルに戻ったら、マリリンはエリックの部屋に直行するだろう。それはこのスタジオにいる誰もが知っている未来だ。

 果たして明日、マリリンがエリックと手を取り合って、スタジオに現れるのか。アーサーとの仲は、どうなるのか。

 イヴの付き人を奪う形になって、険悪なムードがこれ以上に酷くならないか。スタッフたちの懸念と野次馬的興味は、尽きないはずだ。

 撮影が終わり、スタッフを乗せたバスが出発した後も、マリリンとエヴェリンは、スタジオをなかなか離れられないでいた。マリリンのリムジンが、なんとガス欠を起こしていた! 運転手は汗を掻き掻き、弁解した。

「朝には満タンってほどではなかったですが、空ってことはなかったです。誰かにガソリンを抜かれたとしか思えないんですよ」

 幸い、すぐにガソリンを入れ、リムジンは発車した。しかし、マリリンのご機嫌は治らない。

 エヴェリンはつくづく、他のスタッフと共にバスに乗らないでよかったと思った。マリリン一人にさせたら、憤懣が全て、運転手に向く。エヴェリンがいれば、怒りも上手く中和させられるだろう。

 マリリンの不安はただ一つ、自分がいない間にエリックがホテルからいなくなるのではないか、という点だった。

 エヴェリンは、意識して大らかな笑みを作った。

「大丈夫だってば。エリックが他に、どこに行くのよ? あんたの帰りを大人しく待っているはず」

 内心では、心配ではあった。エリックがイヴにどういう形で馘首を突き付けられたか、わからない。罵倒され、自尊心を傷つけられたら、さぞ暗い思いでいるだろう。マリリンの懸念も、そこにあった。

「イヴは、それこそ、人格を全否定するような台詞を吐いたと思うの。だから、エリックが心配。私はまだ、彼を詳しく知らないわ。どういった青春時代を送り、どうしてシャンソン歌手になりたいと思ったのか。どれほどの決意で、フランスに渡り、どういった努力をして、イヴの付き人の任に就いたのか」

 言われてみれば、マリリンの不安も理解できる。深い恋に落ちたとはいえ、二人はまだ出会ったばかりだ。互いの行動を信頼できるまでには至っていない。

 マリリンが焦りから、運転手の背中で急かした。

「もっと早く走って! それこそ、空を飛ぶつもりで、飛ばしてちょうだい!」

 エヴェリンは、やれやれと額に手を当てた。

 ――無茶を言わないでよ。ただでさえ、夕方はラッシュアワーで、道は混むんだから。

 運転手は耳の後ろまで大汗を掻いて、ハンドルを握っていた。苛々した様子で、しょっちゅう無駄にクラクションを鳴らした。

 このような苛々した運転手は、混み合う中では、好意的に道を譲られる展開が皆無だ。つまり、ただでさえ遅れるところを、無理な追い越しや横の車の不親切を、もろに食らう。

 結局、普段は十分程度で到着するところ、二十五分近くも掛かった。

 マリリンがリムジンを降り、駆け足でロビーに入っていった。

「マリリン、待ってってば!」

 エヴェリンは慌てて、マリリンを追いかけた。

 マリリンはエレベーターに乗り込むと、ボーイに七階を告げた。

 ボーイが、にやけた顔でマリリンを見て、ウィンクしてきた。マリリンも一応は、営業スマイルを向けた。

 横に立っていた男が、マリリンに気付いた。

「ミス・モンロー! 君は、このホテルに泊まっていたのか!」

 マダム・ミラーともミセスとも呼ばれず、一瞬ふっと気分が良くなり、笑顔を返した。

「ええ、そうなの」

 頭の中は、早く七階に着かないかばかり考えていたのだが。

 男は調子に乗って、マリリンの肩に手を載せた。マリリンは気づかれないよう、鼻からふうっと息を吐いた。

〝マリリン・モンロー〟でいる限り、男たちはマリリンの体に触れたがる。こればかりは仕方がない。でも、いつだって、いい気分はしなかった。

 すると横からエヴェリンが、男の手を叩いて、振り落した。

「レディに気安く触らないでよ!」

「おっと、驚いた! マリリンが二人いるぞ!」

「あんた、酔ってるの? この箱から、放り出してやろうか?」

 確かに、この男は酒が入っている。酔っ払いの常で、気分が大きくなっていた。不躾にエヴェリンの頬を、人差し指で突いた。

「もう一人のマリリンは、随分と口が悪いんだなあ。よく見たら、顔が違うね。おまえはマリリンのそっくりさんかぁ? 品格は、まるでないがね」

「なぁんですってぇ?」

 エヴェリンが凄んだところで、ボーイが助け舟を出すように、大声を出した。

「七階です!」

 マリリンは、エヴェリンの手首を掴むと、混み合う箱の中から、身を捩って外に出た。

「もう! 無茶はしないで! 私はからかわれるぐらい、何とも思っていないんだから」

 エヴェリンが歯を剥いて、応じる。

「いつまで、男の横暴に耐えていくつもりなのよ!」

 マリリンは、あっさりと応えた。

「エリックと一緒になったら、もう、マリリン・モンローを辞めてもいいと思ってるの」

 エヴェリンが驚いた顔で、目を開いた。

「女優を辞めるの? そこまで決心しているの?」

「ええ。人気歌手の妻が、撮影で離れているわけにはいかないわ。エリックのサポートをして、子供を育てていくつもりよ」

 そうなると、スタンドインであるエヴェリンの仕事がなくなるわけだが。エヴェリンが気にした様子も見せず、マリリンの背中を叩いた。

「よくぞ言ったわ、マリリン! 私も全面的に応援していくからね!」

「貴女の仕事がなくなる点が不安だけれど……」

 エヴェリンが、からからと笑い、マリリンを安心させた。

「何を言ってるのよ。そういつまでも続けられる仕事じゃないぐらい、わかってるもん。あたしも、とっとと旦那さんを見つけて、故郷のケンタッキーに帰るわよ。何人の子供を産むか、マリリンと競争したっていいかもね」

 いつもながら、エヴェリンの大らかな性格には救われる。本当にそんな日が来たら……いいや、そうなるよう、精一杯の努力をしなければならない。

マリリンは何気なく、腕時計をちらりと見た。午後七時半、訪問して不味い時間ではない。

 マリリンとエヴェリンは頷き合うと、七階の廊下を712号室へ向かった。

 部屋は、マリリンの部屋の真上だ。すぐにわかった。マリリンが一歩すっと前に出て、ノックする。

 返事がない。眠ってでもいるのだろうか?

「眠っているのかしら?」

 マリリンの問いに、エヴェリンが疑問を呈した。

「こんな時間に? じゃあ、酒が入っているわね」

 今度はエヴェリンが、容赦なく強く、ドアを叩いた。

「エリック! エリック! マリリンが来たの、ドアを開けて!」

 すると、意外な言葉が返ってきた。

「うるさい! 僕を放っておいてくれ!」

 マリリンは思わず、エヴェリンと顔を見合わせた。

 次の瞬間、何やらガラスが割れる音がした。エリックが、怒りに任せて、酒のボトルかグラスを、床に投げつけたのだろう。

 マリリンは不安になった。

「どうしよう、凄く機嫌が悪いわ」

 エヴェリンがドアに耳を当て、その後の様子に聞き耳を立てていた。

「何の物音もしやしない。ソファで眠ってでもいるのよ」

「このまま、放っておいていいものかしら?」

 マリリンとしては、エリックを応援していく決意を伝えたいところだった。でも、今はタイミングが悪いかもしれない。もう少し、放っておいたほうが、エリックも素直に耳を傾けてくれるかもしれない。

 エヴェリンの判断も同じだった。

「今は、そっとしておいたほうがいいと思う」

 マリリンは、はぁっと諦めの息をついた。

「そうね。もうしばらく経ってから、もう一度、来てみるわ」

 二人はくるりと向きを変え、廊下を歩き、エレベーターに戻っていった。エヴェリンが、躊躇いがちな声を出した。

「ねえ、マリリン、あんたのことだから、夜中にこっそり訪れるつもりだろうけど」

「何か不味い問題でもあるの?」

 エヴェリンが言いにくそうに、頭を掻いた。

「うーん、夜中は、止したほうがいいと思うな」

「なんで?」

「もう、キャストやスタッフの間に、あんたとエリックの仲が知られているでしょ。そういう情報って、どこかに紛れ込んでいるマスコミも聞きつけると思うよ」

 考えもしない問題だった。マリリンは、いつだってマスコミに追われていた。二度の流産の時も、病院から出てくるところを、テレビカメラに撮られ、全国に放送された。

 涙を流しながら、カメラを向けられると、反射的に笑顔を作った。そんなところまで、マスコミは馬鹿にした。

 エリックに対する気持ちが本気である以上、二人の仲は、今は絶対に秘密にしておく必要がある。エリックがマリリンを利用して、アメリカ・デビューをするなんて報道をさせないためにも。

「じゃあ、明日の朝まで、エリックの部屋に行く真似は、止めておくわ」

 エヴェリンも大きく頷いた。

「それがいいよ。男ってさ、自分が惨めに思える時に、女にあれこれ慰められると、余計に気が滅入るもんなんだ。しばらく放っておいて、気持ちが落ち着くまで待つといい」

「その間に、このホテルを出て行かなければいいんだけれど」

「フロントに言って、エリックが万が一、チェックアウトするようなら、引き留めてもらおうよ。マリリンが伝言を残しておけば、大丈夫なはず。エリックがマリリンの部屋を訪れてくれるはずだよ」

 あの様子では、エリックは泥酔しているだろう。夜中にチェックアウトなんて展開にはならないと思うが、念には念を入れたほうがよい。

 マリリンは笑顔で、エヴェリンに応じた。

「そうするわ。明日になれば、エリックも落ち着いているだろうし」

 二人はそのまま、エレベーターに乗り、一階下の六階で降りた。612号室の前で、エヴェリンと別れ、マリリンは部屋に入った。空気の入れ替えに窓を少し開けると、ソファに体を投げ出した。

 コチコチと、柱時計の秒針の音が気になった。ちらりと見上げると、もう夕方の八時半になっていた。

 マリリンは、がばっとソファから飛び起きた。

「そうだった! フロントに、エリックをチェックアウトさせないように、釘を刺しておくんだった」

 多少の汗も掻き、シャワーを浴びてすっきりしたかったが、思い立ったら、どうにも我慢ができなかった。

 マリリンは部屋を出て、エレベーターに乗り、一階へと降りていった。

 エレベーター・ボーイは、昨日、エリックとのかくれんぼに、一枚噛んでいた男だった。マリリンと目を合わせると、にこりと微笑んだ。

 マリリンは念のため、ボーイに尋ねてみた。

「今夜は、かくれんぼは、なしよね?」

 ボーイが意味深な笑顔を浮かべた。

「さあ、どうでしょう」

「えっ?」

 マリリンの狼狽に驚いたのだろう。ボーイが真顔で、否定した。

「いいえ、今夜は僕は、何も指示されていません」

 マリリンは、「そう……」と、安堵とも複雑とも言える息を吐いた。ボーイが気遣いの声を掛けてくれた。

「大丈夫ですか?」

 マリリンは独りで精一杯に生きているつもりだが、男たちは何かと気を使ってきてくれる。

 ちょっと優しくしたら、いい目を見られる、との魂胆だけではない。男に限らず、皆、マリリンに何とかしてやりたいと思うようだ。エヴェリンが似合わない姉御肌を吹かせる理由も、そこにあると思う。

 ――大丈夫よ。私は、そんなに、軟じゃないわ。

 マリリンは得意の笑顔で、応えた。

「ええ、大丈夫。ありがとう」

 ボーイが頬を赤く染めたまま、所定の方向に向き直った。すぐに一階になった。マリリンはロビーに出ると、真っ直ぐフロントに向かった。

 フロントの男が、マリリンを見て、居住まいを正した。マリリンは、エリックに関する要件を述べた。

「了解しました、ミセス・アーサー。ドノバンさまがお見えになったら、ここに引き留め、真っ先に貴女にお電話を差し上げます」

 マリリンはようやく、安堵の息を吐いた。これで、とりあえずは大丈夫だ。エリックがマリリンの知らない間に、ホテルを出る真似はするまい。

 居心地悪い思いで、ロビーのソファに腰を掛けた。額に汗が浮かんだ。ハンドバッグからハンカチを出し、汗を拭う。

 いつまでもロビーにいても、意味がない。今のマリリンは、疲れ切って見えるだろう。いったん部屋に戻り、シャワーを浴びたほうがいい。

 腰を浮かそうとした瞬間、お尻の下に、ころころと光る金属が落ちてきた。マリリンは腰を浮かし、金属を手に取った。

 カフスボタンだ。E・D――エリック・ドノバン。間違いない。昨日、エリックがわざと落としていったものだ。今回は、二個セットではなく、片方一個きりだった。

 マリリンは思わず、叫んだ。

「エリック! エリック! どこにいるの?」

「エリック? イ・レ・ラ・バ」

 聞き覚えのある声に、振り返った。昨日、言葉を交わした老婦人だった。

「……イ、イ・レ・ラ・バ? エリックの居場所を知ってるんですか?」

 今度は老婦人が、英語で応えてくれた。

「エリックなら、あっちにいるわよ」

 マリリンは、カフスボタンを握り締め、立ち上がった。

「メルシー・ボークー」

 でも、あっちって……マリリンは途方に暮れた。老婦人が指さした先に、エリックの姿は見当たらなかった。

 でも、エリックが部屋を出ている事実を把握した。もし、チェックアウトしようとしていたなら、マリリンの伝言で、気が変わっただろう。

 いやいや、そもそも、大荷物でエレベーターに乗ったり降りたりしていたら、すぐにマリリンだって気付く。エリックに、チェックアウトの気配はない。

 マリリンが声を掛けた時は、気分が穏やかでなかったろう。でも、もう、上手く切り替えられた。だから、マリリン相手に、再び、かくれんぼなんて余興をする気分になった。

 ――よおし、今度もまた、すぐに見つけてみせるわよ!

 興奮で、頬が熱くなる。なんといっても、エリックが立ち直ってくれた事実が嬉しかった。

 マリリンが勢いよく立ち上がると、スカートの裾から床に、銀のネックレスが落ちた。

 怪訝な思いで、拾い上げる。これも、エリックのものだ。

 前回はネクタイを落としたが、出かける用事がなくなったので、ラフなノーネクタイでいるのだろう。

 でも、いつの間に……。カフスボタンだけなら、何とかなるだろうが、ほぼ同時にネックレスまで。

 いやいや、カフスボタンを置ける立場なら、同時に他の物も置けるはずだ。それにしても、マリリンは自分の注意力のなさに、愕然とした。間近にいたら、きっとコロンの香りだけで、気づくと思い込んでいたのに。

 ロビーを一当たり見渡すが、やはりエリックの姿はない。きっと、もう一階にはいないだろう。

 三番目のヒントは、きっとエレベーター・ボーイが握っているはずだ。マリリンは逸る気持ちを抑え、何とか歩調を速めずに、エレベーターに乗り込んだ。

 ボーイがマリリンに問い掛ける。

「六階でよろしいですか?」

 なんだ、何も指示されていないなんて言っておいて。またしてもすぐに居場所のヒントを教えてくれた。

 今日はマリリンはやる気だったから、ヒントはできれば聞きたくなかった。でも、聞いてしまったものは、どうしようもない。

「まあ、今回も六階なの?」

 ボーイが、眉間に皺を寄せ、マリリンに振り返った。

「あの……どういう意味でしょうか?」

 しらばっくれなくてもいいのに。それとも、昨日、何階かと答を教えた件を、エリックから注意されたか。

 マリリンは、一応、ボーイに確認をした。

「昨日、ネクタイを預かっていた人は、貴方よね?」

 ボーイが戸惑いながら、応じる。

「はい、そうです」

「その時、六階が正解、つまり、私が探している人がいる階だと、教えてくれたわよね?」

 ボーイが恐縮して、頭を掻いている。

「済みません、その……余計な情報を与えてしまって」

「いいのよ。一刻も早く会いたかったから、助かったわ。で、今日も、頼まれたんでしょう? だから、六階でいいか、なんて尋ねてきたのでしょう?」

 ボーイが、ぽかんと間抜けに口を開けた。

「……いえ、お客さまのお部屋が六階にあると、承知しましたので、六階で降りられるのかと……」

 マリリンは、呆然とした。

「頼まれていないの? その、エリックとは、いいえ、昨日、貴方にネクタイを渡した男性とは、会っていないの?」

「今日は午後からの業務でしたが、まだ一度もお会いしておりません」

「それは、話をした、という意味だけでなく、顔も見なかった、七階から乗り降りしなかった、という意味なの?」

 ボーイが申し訳なさそうに頷いた。

「そうです」

 急に、胸騒ぎがした。いや、待て、落ち着け。エレベーターは三棟ある。このボーイに会わずにだって、ホテル中を行ったり来たりは可能だ。

 とにかく、正解が六階ではない事実は、把握した。エリックは、ついさっきまで、マリリンの間近にいた。動くとしたらエレベーターを利用するとばかり思っていたが、階段という手もある。

 一階一階を順に探すのなら、階段を使ったほうが得策かもしれない。

 マリリンは、ボーイに曖昧に「ありがと」と声を掛けると、エレベーターの箱を出て、そのまま一階のフロアに戻った。

 ロビーでは、団体客が、これから観劇に向かうところだった。夜遅くなるから、子供たちは留守番のようだ。子守と見られる中年の女性のスカートを、三人の子供たちが掴んでいる。

 あの団体客の中に紛れているのではないか?

 マリリンは首を伸ばし、一人一人の顔を確認した。エリックの姿はない。このまま外に出て行く真似は、かくれんぼのルールに反する。マリリンは引き続き、ホテル内を探そうと決めた。

 ロビーの中央に、階段が設置されていた。地下へ向かう螺旋状の階段と、二階ラウンジに向かう、ゆったりスペースを取った階段が。

 まず、地下に降りてみた。土産物屋が廊下に添って、並んでいる。夜も七時を回って、どこも店仕舞いを始めている。一つ一つのブースの中を覗き、エリックがいないかを確認する。

 ぐるりと回って、いない事実を確かめ、一階に上がろうとして、息が止まった。

 真っ赤な絨毯敷きの階段の三段目に、銀色に光るものを見つけた。恐る恐る手に取ると、やはりエリックの、もう片方のカフスボタンだった。

 マリリンは思わず、叫んだ。

「エリック! 悪ふざけは止めてよ!」

 一階に上がり、二階のラウンジまで駆け上がる。広いスペースに大きなソファと椅子がゆったりと並べられ、人々が酒を飲んだり、煙草をくゆらしたりしながら、大人の時間を楽しんでいた。

 それこそ一人一人の顔を間近で見て、エリックがいないか確認する。……いない。どこにもいない。

 二階から三階以降に続く階段は、ホテルの奥まった場所にあった。普通は、客は利用しない様子で、従業員の女性が、大きな洗濯物袋を抱え、すれ違った。

 馬鹿馬鹿しい。もう止めよう――と思った瞬間、三階の踊場に、金色に光るブレスレットを見つけた。

 マリリンは駆け寄り、ブレスレットを取り上げた。まじまじと見つめる。これはエリックのものなのだろうか?

 裏に、E・Dの文字があった。やはり、エリックのものだ。

 もう、かくれんぼを楽しむ気分ではなかった。マリリンはそのまま階段を、四階、五階と上っていった。息が切れたが、構わず進む。六階、七階……。

 そうだ、最初から七階で待っていればいい! 712号室の前まで行き、息を整えて、ドアをノックした。返事はない。まだ戻って来ていないのか。

 待っているといっても、廊下は意外に狭く、座るスペースもない。もう、へとへとだった。

「降参だわ、エリック。もう二度と、かくれんぼなんて、しないんだから」

 体は汗臭いし、スカートに嫌な皺が寄った。ここは一度、自分の部屋に帰ろう。階段を下り、六階の612号室に倒れ込んだ。

 エリックは追いかけてくるマリリンを待って、じっと息を殺しているだろうが、知るものか! マリリンにこれだけ汗を掻かせたのだから、お返しだ。

 マリリンは鏡の前で髪を掻き上げ、背中のジッパーを下ろした。少し太めな肉体が現れた。

 年に一度のペースで映画を撮るようになって、少し油断した。このままブクブク太ったら、アメリカ最高の肉体の呼称も、最近になって現れた似非マリリンこと、ジェーン・マンスフィールドに取られてしまう。

 ウエストについた肉を、忌々しい思いで抓む。これがなくなってくれたら、以前のパーフェクトな体型に戻るのに。

 そこで、はたと、まだ夕食を摂っていない事実に気付いた。

「決めた! 今日は夕食なし。シャンパンを一杯飲んで、我慢しようっと」

 シャワーを浴び、素肌にバスローブを着て、ふと考える。このまま、今夜はベッドに入ろうか。それとも、夜中にこっそり、エリックの部屋に行こうか?

 エヴェリンからは止められた。今が大事な時期な点は事実だ。アーサーと離婚し、エリックと結婚するためには、余計なスキャンダルは起こさないほうがいい。

 一晩、横にいないだけで、こんなに不安になるなんて。エリックの子供っぽさには呆れる。しかし惚れた弱みだ。これからも、こんなお遊びは続くのだろう。

 背中から疲れを感じ、大きな欠伸をした。そのまま下着もつけないまま、ベッドにごろんと横になった。

 ルームサービスでシャンパンを頼むつもりが、そのまま眠りに落ちていった。

 ガシャーン、と大きな音がして、エヴェリンは目覚めた。といっても、熟睡はしていなかった。なんとなく眠れず、二階下の部屋で、女優のニコールと飲んでいた。

 二人とも酒も入り、話も途切れがちになっていた。やがて、エヴェリンは眠気を催し、ソファにごろんと横になった――といった経緯だった。

 エヴェリンは、ゆっくりと起き上がった。

「何の音かしら?」

 ニコールが、首だけ動かし、柱時計を見た。

「……午前二時か。まだ起きてる人、いるのねえ」

「あたしたちだって、似たようなものでしょうが。外で聞こえたみたいだけど」

「車の接触事故でも、起きたんじゃないの?」

 なるほど。そんなところだろう。

 ホテルは広い道路に面している。夜中には車はスピードを上げるから、無理な追い越しなどで、接触事故はよく起きる。

「救急車のサイレンさえ聞こえなければ、運転手同士で示談成立よ。夜中に、わざわざ、事態を大事(おおごと)にしたい人間なんていないでしょう」

 エヴェリンは耳を澄ましてみたが、サイレンの音は一向に聞こえてこない。大した問題ではなかったんだ。

 そこで起き上がり、ベッドに寝れば良かったのだが、エヴェリンはそのまま首を肘掛けに載せる形で、再び眠りに落ちていった。

 マリリンの部屋の窓から、朝の薄明かりが漏れていた。

「……今、何時なのかしら」

 柱の時計を見ると、五時十五分前だった。マリリンはバスローブの前を合わせると、ベッドから降りて、窓辺に向かった。

 朝日が上ろうとしている。今日も、一日が始まる。軽く痛む頭を、そっと押さえる。

 結局、エリックとのかくれんぼを、途中で放棄した。エリックの機嫌が、悪くなっていないだろうか?

 撮影三日目なのに、もう半年も過ぎた気がする。決して、充実しているから思うのではない。ただただ、長たらしくて、うんざりだった。

 マリリンには映画『バス停留所』以降、ずっと演技コーチの存在があった。ニューヨークに演劇留学をした際に世話になったリー・ストラスバーグの夫人、ポーラだった。

 今回の映画にも、ポーラはマリリンの身近で演技指導をする予定だった。でも、ポーラにはマリリンより優先させる問題があった。

 娘のスーザンが同じく映画女優で、演劇活動でも私生活でも、難しい問題に直面していた。ポーラも母親として、スーザンを放っておけなかった。

 だから、未だにポーラは、この映画の撮影現場に現れていない。実際、演技指導なんて必要ないと、マリリンは思う。

 ――こんな安っぽくて、中身のない映画に、演技の情感も何も、あったもんじゃないわ。

 マリリンにとって、この映画に主演した意味があるとすれば、エリックとの出会いだった。

『恋をしましょう』は、マリリン・モンロー最後の映画となるだろう。マリリンはエリックと結婚し、今度こそ女優を辞めるのだから。

「エリック、もう起きているかしら」

 マリリンはベッドサイドの内線電話で、712号室に繋げてみた。コール音はするが、受話器が上がる様子はない。熟睡しているのか。電話の相手がマリリンだと思い、怒ってあえて出ないのか。

 やっぱり、謝りに行ったほうがいい。

 マリリンは手早く下着を身に着け、クローゼットに掛けていたピンクのワンピースに袖を通した。

 作りつけのドレッサーに顔を映すと、昨日の化粧がまだ残っていた。汗を掻いて、多少の化粧崩れは起こしていたが、口紅を塗り直せば、何とかなるだろう。何より、一刻も早くエリックの機嫌を知りたかった。

 口紅を塗って、廊下に出た。エレベーターに向かうと、エヴェリンが戻って来るところだった。

 ちょうどいい、一緒に行ってもらおう。一人ではばつが悪い。

「エヴェリン、おはよう。ちょうどよかったわ、一緒にエリックの部屋に行ってくれないかしら?」

 エヴェリンが面倒臭そうに、大きく伸びをする。

「あまり寝てないんだ。部屋でちょっと休みたいんだけどなあ……」

 と言いながら、マリリンのお願いを断ったためしはない。すぐに、口の端を上げ、頷いてくれた。

「ま、いっか。エリックの部屋にあんたが入ったら、あたしは用済みですもんねえ」

 マリリンは恥ずかしさに頬を熱くした。

「いやね、もう」

 二人は並んで、エレベーターに乗った。朝まだ早く、黒人のエレベーター・ボーイが応対した。昨日のボーイがいたら、一言でも謝りたかったのだが。

 七階に到着し、廊下を進んで、712号室の前に立った。意識して少し強くノックする。

「エリック、エリック、起きているんでしょう?」

 返事はなかった。マリリンは当惑して、エヴェリンの顔を見た。

「まだ起きてないのかしら」

「もうすぐ六時よ。泥酔でもしているのかな」

 マリリンの胸に、ふと不吉な思いが過ぎった。エリックはイヴの付き人を馘首になっている。それ以降、マリリンはエリックの顔を見られないでいる。もし馘首になってショックを受け、思い詰めていたら……。

 ――そんな……! エリックがそんな軟な神経ではないと思いたいけれど。

 事は緊急を要する気がした。

「私、フロントに行って、合鍵を借りてくるわ。もし中でエリックに何かあったら……」

 エヴェリンもすぐ、マリリンの懸念を把握してくれた。

「急ごう!」

 マリリンの背を叩き、駆け足でエレベーターに戻り、一階に降りた。ロビーを抜け、フロントの男に声を掛ける。

「712号室のエリック・ドノバンの様子が、変なの。合い鍵を使って、開けてくれないかしら?」

 フロントの男が奥に引っ込んだ。奥から支配人と思われる男が現れた。手には鍵を持っている。

「こちらからお電話してみましょう」

 フロントから電話を架け、じっと受話器に耳を傾けていた。やがて深刻な顔で、受話器を下ろした。

「お出になりません。すぐにドアを開けましょう」

 マリリン、エヴェリン、支配人とフロントの四人が、駆け足でエレベーターに乗った。七階に到着すると、支配人がまず箱を飛び降り、712号室の前まで走った。

「お客さま! ドノバンさま! どうかなされましたか!」

 ドアを叩くも、返答がない。支配人はフロントと顔を見合わせると、鍵を鍵穴に入れ、かちりと回した。

 マリリンが部屋に飛び込んだ。

「エリック! エリック!」

 部屋にエリックの姿は、見当たらなかった。バスルームを開け、クローゼットを全開にする。どこにもいない。

「……窓は!」

 窓際に駆け寄るも、窓はぴったりと閉じられ、しっかり施錠されていた。

「どこへ行ったのかしら……」

 ローテーブルに、部屋の鍵が置かれていた。どういうことか? 鍵は閉まっていたのだから、部屋主が外に持ち出しているはずでは?

 四人で部屋をうろうろしていると、廊下を駆けてくる男の足音がした。ドアを勢いよく開ける音がして、四人は振り返った。ホテルのボーイが息を切らせていた。

「支配人、大変です! 路上に駐車された車のボンネットに、宿泊客の転落死体が発見されました!」

「宿泊客? 誰だかわかったか?」

「フォックス社の映画関係者の一人です。隣の部屋のお客さまが身元を確認されました。エリック・ドノバンさまです」

 マリリンはその場で、意識を失った……。


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