第二章 恋をしましょう
第二章 恋をしましょう
1
クランクインの日に、マリリンが遅刻しないで現れた! まさに、大ニュースだった。
連れてきたエヴェリンは、スタジオ内で英雄となった。おかげで、遅刻してカメラ・テストが遅れた点は、大目に見てもらえた。
――ああ、良かった。一時はどうなることかと思ったわ。
監督のジョージ・キューカーが、感動のあまり、マリリンを、次にエヴェリンを抱き締めた。
「幸先がいいね! これで映画は、成功したも同然だ」
なんと、イヴ・モンタンのほうが遅くにやって来たので、マリリンの時間厳守は目立った。イヴはマリリンばかりが褒められている現状が、理解できないでいた。
そのせいだろうか? 付き人のエリックに罵声を浴びせ、つまらない問題で扱き使っていた。
フランスでは大スターだ。傲慢な態度を取っていても、周囲は許してくれたのかもしれない。でも、あまりにエリックが気の毒だった。
タオルを持って来いと言われて、メーク係から借りたタオルを持っていくと、床に投げ捨てられた。言葉がフランス語なので、今一つ理解できなかったが、もっと肌触りの良いタオルを持って来いと言っているらしい。
エヴェリンは、どうもこの、フランス語をペラペラ喋る伊達男、イヴが苦手だった。アメリカでも、ブロードウェイのショーなど成功させているが、ハリウッド映画への出演は初めてだ。もう少し、控えめな態度を取ってもいいのではないか。
英語では愛想よく、監督やスタッフに応じているのに、フランス語でエリックを罵倒してばかりいる。――といっても、エヴェリンには何を言っているのか、さっぱりわからないのだが。
――不味いわ。あたしったら、エリックばかり気にして。マリリンに気付かれたら、大変な問題になる。
マリリンを観察していると、わかり易いというか、ハラハラするというか。視線の先に、必ずエリックがいた。
クレイグが、「うろうろするな」と、邪険にエリックを追い立てた。
どう見ても、イヴに文句を言えない不満から、八つ当たりしているようにしか見えない。クレイグも所詮権力に楯突けない弱虫だったか。
不意にカメラマンから、声を掛けられた。
「フランス産の伊達男に目が行く気持ちはわかるが、カメラも見てくれよ!」
一部のスタッフのご機嫌が、少々悪くなった。
不満を吐き出す先は、エヴェリンのような権力のない人間しかいない。皆、フランス人が意味不明な言葉を大声で捲し立てている様に戸惑っている。だから、苛々する。無理もないかもしれない。
「OK! あたしの恋人はカメラだって、忘れるところだったわ!」
――皆、忘れないでよ! あたしたちは、最高の映画を作るために、スタジオに集っているんだからね!
2
マリリンは先程から、イヴの態度に憤慨していた。
フランス語だから、どんな下品な言葉を使って付き人を罵倒しても、周りには気付かれないとでも思っているのか!
フランス語が世界で一番美しい言葉だ、なんてフランス人は主張しているみたいだが、冗談じゃない。早口で責めるように捲し立てると、いっそう刺々(とげとげ)しく高慢に聞こえる。
実際、イヴは高慢な男だった。エリックに無理難題を言いつけて、走り回らせている。
イヴが、台本をエリックに投げつけた。もう、我慢ができない!
マリリンは立ち上がり、背筋を伸ばして、イヴの側に歩いていった。
「イヴ、いい加減にして! ここはフランスじゃないのよ!」
イヴが「意味が分からない」といった顔で、マリリンを見上げた。
「ああ、知っているよ。ここはハリウッドだ。だから?」
「エリックにしかフランス語は通じないからって、扱き使う真似は止めてよ!」
「心外だな。エリックは僕の付き人だよ? 扱き使って、何が悪い?」
「貴方には手足があるでしょ。少しは、自分の問題は自分で片づけなさいよ!」
エリックがマリリンとイヴの間に入った。
「いいんだよ、マリリン。イヴの雑用をこなす役目で、僕はここにいるんだから」
「ほうら、本人もこう言っている。どうか我々二人を無視してくれんかね?」
マリリンは悔しさに、ぎゅっと拳を握った。エリックとマリリンの間に、フランス語のように二人だけに通じる言葉があればいいのに。
イヴはフランス語、英語の他、ドイツ語、スペイン語、イタリア語ができる。
「じゃあ、せめて、英語で文句を言ってちょうだい。私たちが意味がわかれば、エリックにただ意地悪しているわけじゃないって、理解できるから」
イヴが不思議そうな顔で、首を捻る。
「君は何故そんなに、エリックの問題が気になるんだ? 恋でもしたのか?」
顔が、カッと熱くなった。途端に周囲の視線が気になった。
「馬鹿を言わないでよ! 貴方たちを見ていたら、誰だって、エリックに同情したくなるわ!」
タイミングの悪いところへ、アーサーとシモーヌが揃って現れた。シモーヌが状況にまるで気付かないまま、イヴの前に来て、キスをした。アーサーもシモーヌに倣って、マリリンを抱き締め、キスしようとした。エリックがじっと見ていた。
マリリンはアーサーの体を、反射的に押しのけた。
――今更、仲の良い夫婦を演じろっていうの? うんざりだわ!
アーサーが当惑の顔で、マリリンを見つめた。居心地が悪くて、マリリンはその場を離れ、控え室に向かった。
歩いているうちに、頭も冷えてきた。
――私ったら、エリックに肩入れする言葉ばかり吐いて。却ってエリックを追い詰める羽目になっていないかしら。
エリックを愛している。この気持ちは変わらない。アーサーの妻でいながら、若い男に心を奪われている事実を、たぶん、スタジオの皆が知っただろう。
廊下の壁に凭れ、頬に手を当て、大きく息をつく。
こんな恋は、してはいけないのだろうか? エリックは、シャンソン歌手を目指している。マリリンとの仲をこれ以上に進展させずに、フランスに帰ったほうがいいのかもしれない。
でも、もし、アーサーと早々に離婚できたら、エリックにアメリカに残るよう説得して、将来は結婚するなんて真似も、してもいいのではないか?
廊下を走る、男の靴音に、顔を上げた。エリックがマリリンに追いつくと、がっしりと体を抱いた。
「駄目よ、エリック……皆に気付かれたわ」
――私たちが、愛し合っている事実を……。貴方も同じ気持ちなのでしょう?
怖々とエリックを見上げる。エリックが僅かに微笑んだ。
「そんなの、構わない」
エリックの唇が、マリリンの唇を塞いだ。そのまま二人は、誰もいない廊下で、抱き合い、キスを繰り返した。
3
エヴェリンを始め、他のスタッフも居心地の悪い気分で、互いに視線を合わせた。
――マリリンったら、どこ行っちゃったのよ? エリックと二人揃って、姿を消すなんて、不味いでしょうが!
アンが大きな声を出した。
「控え室に行ったんだわ。私、連れてきます!」
アンが走り去ると、入れ替わりに監督のキューカーが現れた。にこにこしているところを見ると、マリリンが遅刻せずにやって来た事実が伝わっているようだ。幸先がいいとばかりに、手をぱんぱんと叩いた。
「よおし、今日はマリリンが出てくる、オープニング・シーンから撮影を始めよう!」
キューカーにしてみれば、マリリンが誰に夢中であろうが、関係なかった。マリリンが来てくれるうちに、どんどん撮り溜めしておこう、という腹だ。
『恋をしましょう』のあらすじは、こうだ。
イヴ演じる、億万長者でプレイボーイのクレマンが、自分を風刺した舞台が上演されると聞き、文句を言いに駆けつける。ところがマリリン演じる、女優のアマンダに一目惚れし、クレマン役の俳優に名乗りを上げて、何とかお近づきになろうとする。
歌も踊りも素人のクレマンは、金にあかせて、その道で超一流の歌手やダンサーから、演技指導を受ける。はてさて、クレマンの努力は実を結ぶのか?
クレマンに個人教授をするために、ビング・クロスビー、ジーン・ケリー、ミルトン・バールが本人役で出演する点も、映画の売りだった。
マリリンが出てくるファースト・シーンは、重要だ。大金持ち、ハンサム、女好きと、三拍子が揃ったクレマンが、一目見てアマンダに魅了されるのだから。
マリリンがここで、男性ダンサーたちと共に『私の心はパパのもの』を歌い、踊る。黒いレオタードの上に、ぶかぶかのセーターを着て、ステージのポールを伝って、上から下に降りてくる。
そんなシーンがあるのなら、当然、カメラ・テストもあるわけで、スタンドインのエヴェリンも、同じ格好をして、舞台を走り回らなければならない。
ダブダブのセーターは、どう見ても男物だ。黒のレオタードは透け透けで、体のラインをばっちりと出す。なんともエロチックな恰好だ。
姿見に映すと、何とも恥ずかしい気分になる。両親が見たら、「こんな娘に育てた覚えは――」と説教されそうだ。
いやいや、恥ずかしがってはいられない。マリリン・モンローのスタンドインがセクシーでなくて、どうする!
音楽が鳴り始める。エヴェリンはステージに立ったポールを、するするっと降りていった。
両足を着くと、ステップを踏んで、カメラに背中を向け、首だけ振り返る。
「あたしの名前は、ロリータ。恋はしないの。子供とはね!」
体をくねらせ、男たちに追いかけられる恰好で、踊り跳ねる。何度かステップを間違えて、男性ダンサーとぶつかるハプニングはあったが、何とか踊り切れた。
最後にセーターを脱いで観客席に放ると、くるりと後ろを向き、モンロー・ウォーク。音楽のエンディングに合わせて、振り返る――。決まった!
「カット! エヴェリン、お疲れ様!」
はぁっと息を吐く。安堵からだけではない。結構な運動量で、息が切れる。
「はぁ、はぁ、もう一度、踊るなんて、絶対に無理だからね!」
クレイグがフィルムを見直していたが、右手でOKサインを作った。
「大丈夫。今ので、ばっちりだ」
よ、よかった……。エヴェリンは、へなへなと、床に尻をついた。
控え室に通じる出入り口から、アンに連れられて、マリリンが戻って来た。エリックと一緒ではない。
アンが気を利かせて引き離したか、まるで二人の様子に気付かずにマリリンだけ連れてきただけか。キューカーにとっては、マリリンさえ現れたら、そんな問題はどうでもいいだろう。
「マリリン、次、リハーサル、行けるか?」
マリリンが、ハッと我に返り、周囲を見渡すと、困った顔をした。
4
マリリンは落ち着かない思いで、頬を両手で押さえた。
この場にいるアーサー、イヴ、シモーヌ、他の全スタッフにも、マリリンの恋情が知られた。何ともやり難い状況だった。
本当は、今すぐこの場から逃げ出したかった。なんとかマリリンを押し留めていた存在は、やはりエリックだった。マリリンが職場放棄したら、非難はエリックに集中する。
「行けるわ。でも、その前に熱いコーヒーを飲みたいわ」
アンが、真っ先に手を上げた。
「私が淹れてきます!」
マリリンは自分の椅子に座った。アンはどういうつもりなのだろう? 今更マリリンに取り入るわけでもないだろうし。
アーサーに視線を移した。妻に蔑ろにされ、間男らしき男が同じ空間にいるのに、平然と煙草をふかしていた。
イヴを見ると、シモーヌと仲良く椅子を並べ、長い脚を持て余していた。シモーヌの耳に口を近づけ、何事か、しきりに呟いている。どうせ、エリックの悪口だろう。
マリリンは堪らない思いになった。
――エリック、どうかこのまま、職場放棄して! ここじゃ貴方は針の筵よ!
残念ながら、エリックが出入り口から入ってきた。マリリンは愛しさと申し訳なさで、平常心ではいられなかった。
「マリリン、コーヒーをどうぞ。お砂糖とミルクはどのぐらい入れます?」
アンがお盆にコーヒーを入れたマグカップと、砂糖壺とミルク・ピッチャーを載せて、マリリンの目の前に突き出した。
「自分でやるわ」
マリリンは角砂糖を二つと、ミルクを少々入れると、スプーンで掻き混ぜ、一口飲んだ。そこで何故、今の自分が割と調子がいいのか、理解した。
昨日の夜から、どの薬も服用していない。コーヒーのカフェインが、久々に体内に摂りこむ刺激剤だった。
昨日、エリックと別れてからずっと起きて、最高の自分になるように身支度を整えた。逆に言えば、ほとんど寝てないといっていい。
コンディションは最悪――。いや、薬を飲んで朦朧としていない今は、最高のコンディションでいると断言していい。
エリックが、セットの影から、じっとマリリンを見つめていた。エリックの立場をこれ以上に悪くさせないためには、マリリンはカメラの前に立たなければならない。恐怖に、ぎゅっと目を閉じる。
――できるわ。やってみせますとも! エリックが見ていてくれるんだから。
マリリンはエヴェリンを呼んだ。
「カメラ・テストで着ていたセーターを貸してくれないかしら? 貴女に包まれている気分で、きっと上手くいくと思うの」
エヴェリンが快く、セーターを手渡してくれた。マリリンはセーターを被ると、ステージの上に立った。
「よーい、スタート!」
音楽が流れ、マリリンは踊り出す。ただ一人、エリックに聞かせるためだけに、歌い、踊った。
六分に及ぶロングテイクにも拘わらず、一発OKだった。
5
特定の人間以外には、最高の一日になった。気分を害した者は、アーサーとイヴぐらいだ。シモーヌに至っては、退屈そうに欠伸を噛み殺してばかりいた。
アーサーがぽつりと呟いた言葉を、エヴェリンは聞き逃さなかった。
「マリリンのお守りは、エリックに任せておけばいいな」
やがて、アーサーはエヴェリンが気づかぬうちに、スタジオから姿を消した。
マリリンの見事な演技に、関係者は皆、映画の成功を確信した。マリリンを正常に動かしている理由で、エリックも好意的に受け入れられた。
これがイヴには面白くないらしい。皆に嫌われていると知りながら、フランス語でエリックを罵倒する。
しかし、エリックもなかなかな男で、理不尽にぶつけられる怒りには、さらりと無視する術を知っていた。
イヴはエリックを虐める真似が上手くいかないからか、自分の撮影が済むと、シモーヌを連れて、早々にスタジオを後にした。
おかげで残ったスタッフの空気は、だいぶん良くなった。一日の撮影が終わり、さあ、帰ろうとなった時、マリリンがエリックを誘った。
「一緒に帰りましょうよ」
エヴェリンは見ていてハラハラした。開き直る気持ちはわかる。だが、ここまで露骨に行動していいものか。二人で揃ってホテルに帰るとなると、後々の展開を、他の人間たちは邪推するだろう。
ここはエヴェリンが、一肌脱ぐか!
「マリリン、あたしもリムジンに乗せてよ。あと一人ぐらい、余裕で乗れるでしょ」
マリリンが反論するより先に、エリックが賛成した。
「エヴェリンも一緒なら、マリリンと帰る。二人きりなら、遠慮する」
「……わかったわ。エヴェリンも入れて、三人で帰りましょう」
当てが外れたと、マリリンの顔は不満げだった。しかし、エリックもホッとした笑顔を見せた。
こうして三人は、マリリンのリムジンに乗って、帰路に就いた。エヴェリンはフカフカの座面に両腕を広げて、脚を組んだ。
――あー、気持ちいい! これから毎日、リムジンで出勤できたら、嬉しいんだけどなあ。
前の座席では、マリリンとエリックが頬を寄せ合い、愛の言葉を囁いていた。
「エリック……ずっと、いつまでも一緒にいたいわ」
――聞こえない、聞こえない!
なんと二人は、熱いキスを交わし始めた。
――見えてない、見えてない……! って、無理だってば!
ホテルがすぐ近くでなかったら、このまま服を脱ぎ始めそうだ! 前言撤回。リムジンで毎回、こんな光景を見せられたら、心労で禿げそうだ。
ホテルに到着すると、マリリンとエリックは、仲良く並んで、歩き出した。まさか、このまま、マリリンの部屋にしけこむつもりか?
マリリンがこの手の問題に、非常に愚かな事実は知っている。だが、まさか、エリックも同類か?
――そういうことは、誰もが寝静まった時間に、ひっそり、こっそり、やりなさいよ!
幸い、エリックには、まともな理性があった。
「イヴの部屋に行ってくる。僕は付き人だ。仕事は一応、しなきゃね」
体を引き離そうとするエリックの手首を、マリリンがしっかりと握る。
「仕事が終わったら、また会えるわよね?」
エリックが一瞬の間を置き、「ああ」と応えた。マリリンがようやく、エリックの手を離した。
6
マリリンはエヴェリンと連れ立って、ロビーに入った。こうして並んで歩くと、姉妹のように見えるだろう。
さっそく宿泊客の幼い女の子が、マリリンたちの前に仁王立ちした。
「ママ、このお姉ちゃんたち、同じ人だ!」
一瞬、呆然としたが、次の瞬間、エヴェリンと二人で揃って、笑い出した。エヴェリンが呆れた顔で、女の子を見下ろす。
「同じ人ぉ? じゃあ、どっちがマリリン・モンローか、わかる?」
「こっち!」
何の躊躇いもなく、エヴェリンを指した。マリリンもエヴェリンも、お腹が捩れそうなぐらい笑った。
「エヴェリンがマリリン・モンローをやってくれたら、私もいろいろ楽なのに」
「子供は騙せても、大人は無理無理。余計なマジックなんて考えないで、地道に行きましょう」
エヴェリンが一足先に、エレベーターに向かった。マリリンは女の子と離れ難くて、すぐには部屋に戻りたくなかった。
ふと、辺りを見回していると、子供の数が多かった。話している言葉から推測して、フランスからの団体観光客だとわかった。
もう一人、天使のような金色の巻き毛の男の子が、覚束ない足取りで、マリリンに近づいた。脚にしがみつくと、にっこり笑顔で、マリリンを見上げた。
「だあ! だあ!」
可愛い小さな手で、マリリンのスカートを引っ張った。歳が歳でなければ、とんだ女好きだ。
近くに座っていた老婦人が、二人の様子をじっと見ていたが、マリリンに向けて、フランス訛りの英語を使った。
「そうしてると、本物の親子のようね」
マリリンは、喉の奥に熱いものが込み上げた。こんな可愛い子供を、どれほど欲しいと願ったことか!
アーサーとの間に、二回、子供ができたが、すぐに流産した。
まだスターになる前に、仕事が欲しくて、権力のある男たちの胸に抱かれた。そうしてできた子供は産むわけにいかず、安く堕胎してくれる医者を探したものだった。
子供がなかなかマリリンのお腹で育たない理由は、堕胎手術の影響で、子宮が悲鳴を上げているからだった。
「抱っこしても、いいかしら」
老婦人がにっこり笑う。
「ええ、もちろん。この子がマリリンに抱かれる意味が、少しでもわかっていれば、楽しいのにね」
さすが愛の国フランスのご婦人だ。面白いことを言う。
マリリンは男の子を、ひょいと抱き上げた。青い瞳で、マリリンをじっと見つめたが、高い高いをしたら、弾けるような笑みを浮かべた。
マリリンは涙が出そうで、男の子を下ろした。同じホテルに泊まっているから、また会う機会もあるだろう。あまり深く関わると、別れの時が辛くなる。マリリンは男の子の頭を撫でると、老婦人に手を振って、エレベーターに向かった。
7
背中から声を掛けられて、マリリンは振り返った。先ほど話をした老婦人が、ゆっくりした足取りで追いかけてくる。
「あんた、こんなの落としていったよ。彼氏のじゃないのかい?」
マリリンは意味がわからずに、ぽかんと口を開けた。老婦人の掌に、銀色に光るカフスボタンがあった。
「覚えがないわ」
「いやいや、あんたの立っていた、すぐ近くに落ちてたんだよ」
よく見ると、頭文字が彫ってあった。
E・D――エリック・ドノバン。エリックのものに間違いない。マリリンは、老婦人に丁寧なお礼を述べた。
「知り合いのものだわ。ありがとうございます」
マリリンは受け取りながら、首を捻った。片方を落とすのならわかる。だが、両方とも落ちるだろうか?
まあ、いい。明日、現場で手渡そう。
エレベーターに乗り込み、エレベーター・ボーイに「六階お願い」と指示をする。
するとエレベーター・ボーイがちらりとマリリンを見て、ポケットから何やら取り出した。ネクタイだ。どこかで見覚えがある……。
「お忘れ物です」
ボーイがマリリンにネクタイを渡す。
「私、エレベーターは朝、使って、それきりよ」
ボーイが照れ臭そうに、耳を掻いた。
「いや、その……頼まれちゃいまして」
そこでマリリンは思い出した。このネクタイはエリックのものだ。カフスを外し、ネクタイを外し、素っ裸になるまで、追いかけっこをするつもりなのか?
マリリンは、つい、ボーイに確かめた。反則だと重々わかってはいたのだが。
「六階で、いいのよね?」
ボーイが、愉快そうに笑った。
「ここだけの話、六階で正解です」
マリリンは思わず、にんまりと口の端を上げた。
「ありがと。助かるわ」
六階に到着すると、マリリンは手を振って、エレベーターを降りた。
――さてと、どこに隠れているのかしら?
廊下には、高価そうな壺や彫刻がところどころに飾られている。まさか、西欧の甲冑の中に隠れてはいないだろう。
マリリンの部屋には、鍵が掛かっている。だから、室内で待ち構えているわけはない。となると、両隣の部屋か。更にその横は、エヴェリンの部屋だ。
マリリンとエリックの仲を詳しく知っている人間は、エヴェリンだけだ。エリックも、隠れるにしても、かくれんぼの相手がマリリンだと知ったら、他のスタッフはアーサーの気持ちを考えて、協力しないだろう。
マリリンは知らない振りをし、鼻歌を歌いながら、廊下を歩いた。自分の部屋を素通りして、エヴェリンの部屋のドアを叩く。
「うちのいい子が、お邪魔してないかしら?」
ドアは、すぐに開いた。エヴェリンとエリックが、ひょいと顔を出した。
「どうしてわかっちゃったの? もっと探させるはずだったのに」
エリックは上着もベルトも外していた。どこかに置いて、マリリンとのかくれんぼに、やる気満々だった様子だ。
マリリンは簡単に、自分の推理を説明した。エリックが、やられたとばかりに、床を踵で叩いた。
「エレベーター・ボーイを味方につけられたら、お手上げだ」
マリリンはカフスボタンとネクタイを、エリックに返した。
「素っ裸で、エヴェリンの部屋にいるより、ずっといいわよ」
最終的にマリリンの部屋では、裸になってもいい。だが、エヴェリンの部屋であられもない恰好をされたら堪らない。
エヴェリンの顔が、真っ赤になった。
「誤解しないでってば! 廊下に隠れる場所がなかったから、追い返せないでいただけ」
エリックが受け取ったネクタイとカフスボタンをポケットに入れると、マリリンの体を抱き寄せた。熱いキスを交わそうとしたところで、エヴェリンに止められた。
「こんなところで、止めてよね! そういう作業は、自分の責任で、自分の部屋でやってちょうだい」
エヴェリンがエリックとの仲をまだ誤解している点を忘れていた。でも、もう皆が薄々知っている。ひっそりこっそり、逢う必要はないのかもしれない。
マリリンは、あっさり引き下がった。エリックの腕を取ると、廊下に連れ出した。
「私の部屋に行きましょう。自分の責任だそうだから」
エヴェリンが何か言いかけて、口を閉じた。マリリンは素直に尋ねた。
「何かしら?」
「いや、その……アーサーは、まだ、あんたの旦那さまよ」
何を今更、わかりきった話を。エヴェリンの気持ちも、わからないでもないが。
「知ってるわ」
エヴェリンが、がっくりした様子で、体を前方に曲げ、掌を膝につけた。
「よかった、知らないかと思ったわ。少しは、アーサーの気持ちも考えたほうがいいってば」
アーサーの気持ち……か。エリックとの恋を成就させるには、アーサーとの離婚が先決だ。
ジョー・ディマジオとの離婚では、随分と辛い思いをした。結婚の何倍もエネルギーが要る。
――もう少し、時間が欲しい……。
離婚に関しては、急ぎたくない。けれども、二人の愛の成就に、時間を掛けたくなかった。
マリリンはエリックに体を寄せた。二人はゆっくりと歩き出した。
果たしてエリックも、マリリンと同じように考えてくれているのか。マリリンの肩を抱き、無言でいる。
612号室の前に来た。マリリンが鍵を開け、二人は中に入った。ドアを閉めた途端、互いの唇を貪り合った。
――もう待てない! 一秒だって、待てないわ!
マリリンはワンピースの背中のジッパーを外し、エリックが、自分のシャツのボタンを外す。
その間も絶え間なくキスを繰り返し、二人はそのまま、ベッドに体を投げ出した。
8
エヴェリンは、落ち着かない思いで、部屋の中を行ったり来たりしていた。
何しろ、マリリンの部屋で何が行われているか、知っているのだから。「せいぜい楽しんでね」なんて、他人事みたいに暢気な台詞で済ませられない。
「どうしたら、いいんだろう! どうしたら!」
撮影スタッフも、二人の仲が相当に進展していると、気づいている。アーサーも、誰に告げ口されなくても、スタジオの雰囲気で察しただろう。
このまま、アーサーとは離婚し、エリックと再々々婚するなんて展開に、なるのだろうか?
エヴェリンは、はぁっと大きく息を吐き、身近にあったソファに腰を落とした。
「そう簡単に話が進めば、苦労はしないよねえ」
ハリウッド・スターの中には、しょっちゅう結婚、離婚を繰り返す人間も、結構な数、存在する。だから、マリリンが何度も結婚しようが、問題がないように思われる。
たとえば、マリリンの好対照とされるエリザベス・テイラーは、既に四人目の夫と暮らしている。現在の夫エディ・フィッシャーは、エリザベスの親友デビー・レイノルズの夫だった。
エリザベスの三番目の夫、マイク・トッドが飛行機事故で死亡し、失意の状態を放っておけなくて、夫婦で傍らに付っきりになった。そのうち、エリザベスとエディが引っ付いてしまい、略奪婚と騒がれている。
エリザベスはここ数年、アカデミー賞に匹敵する演技を披露しているが、受賞に至っていない。人の道に反したと、アカデミーがエリザベスを許していない点が理由だった。
でも、エリザベスは強い。世間の非難を浴びても、しゃんと背筋を伸ばして、生きている。
エリザベスにはエリザベスの主義主張があるのだろう。残念ながら、マリリンはエリザベスのように強くはない。そこが、一番の問題だった。
とにかく気持ちが弱く、カメラの前に立つとなると、酷く緊張し、嘔吐してしまう時もある。気持ちを落ち着けようと、バルビツール系の睡眠薬を飲み、予定時間に現れない。だから、ハリウッドに味方も少なかった。
マリリンに関わると、皆、苛々するし、要らぬ苦労も背負い込む。エヴェリンも蟻地獄にずぶずぶと、めり込んでいる状態だ。
――マリリンは今、薬を服用しているんだろうか。
もし、愛の力で、マリリンから薬瓶を取り上げる真似ができる男がいたら、躊躇わずに応援する。
エリックとの恋愛は、マリリンをどう変えるのか? それとも、マリリンは、どこまで行ってもマリリンで、薬物依存は改善されないのだろうか?
エヴェリンは天に祈る気持ちだった。
「エリック、どうか、マリリンを助けて! あんたにはそれができるって、あたしに信じさせてよ!」
9
これはどうしたことだろう! マリリンは自分の変化に、我ながら驚いていた。
初めてエリックと会ってから、ずっと今まで、睡眠薬を手にしていない。エリックの腕の中なら、薬を飲まずとも、安心して眠りに就けた。
――エリックに横にいてもらえたら、私は変われるかもしれない。
横に眠るエリックの頬に顔を近づけ、口づける。
体の相性だって、最高だった。
実のところ、マリリンはアーサーと結婚してからは、エクスタシーを味わえずにいた。だから行きずりの男と寝ることもあるが、状況は同じだった。てっきり、年齢から来る体の変化だと思っていたが、違ったようだ。
エリックと抱き合っていると、忘れかけていた絶頂を迎えられた。女に生まれて良かったと、心の底から思えた。
この幸せを、手放したくない。もう、アーサーの元に帰る真似もしたくない。このまま永遠に、エリックの腕の中で微睡んでいたい。
マリリンは愛しい思いで、エリックの髪を撫でた。エリックが、「ううん」と唸り、目を開ける。
「起きていたのか」
「ええ。ずっと、貴方の寝顔を見ていた」
エリックが呆れた様子で、眉尻を下げる。
「さぞ退屈だったろう」
「ううん、全然。飽きないわ」
エリックが意外そうに眉尻を下げた。
「これといって、特徴のある顔とは思わないけどな」
「何を言うの。貴方ほどのハンサムは、なかなかいなくてよ」
「ははは、ありがとう」
エリックは全然、自分の魅力を理解していない。歌手としてデビューしたら、きっと麗しい容貌に、女性ファンがたくさんできるだろう。
このまま、イヴの付き人としてフランスに帰ったところで、デビューを許されるのだろうか?
イヴは狭量だ。弟子の成功を喜ばない性格らしい。このまま扱き使われ、才能を無駄にするなんて顛末になりかねない。
それに……フランスに帰ってしまったら、マリリンはまた独りぼっちだ。
マリリンは、少し髭の伸びたエリックの頬を撫でた。
「このまま、アメリカに残って、エリック。アメリカでデビューしたら、大勢のファンがつくわ。きっと大成功するわ」
「アメリカには初めて来たけど、いいところだ」
「でしょ! お願い、本気で考えて。私、貴方を全力で応援するわ」
エリックが嬉しそうに、目を細める。
「嬉しいな。でも、ファンから反感を買いそうだ」
「そんなことないわよ! 私はもう三人も夫を持ったのよ。でも、ファンは私を応援してくれるわ」
「僕に、四人目の夫になれ、と?」
マリリンは急に不安になった。まさか、真剣な人間はマリリンだけで、エリックはただの遊びと考えている?
「……貴方が、好きだわ」
「僕も、君が好きだ」
「死ぬほど、好きだわ」
「僕もだ」
マリリンは、エリックの体をぎゅっと抱き締めた。
「私、貴方に会ってから、全然、薬を飲んでいないの。いつも、不安になるとすぐ、薬を飲んで、周りに迷惑ばかり掛けてきた。でも、今、薬を飲まなくても、落ち着いていられるのよ」
エリックが、優しく笑った。愛しいものに触れるように、マリリンの鼻を、つんと突く。
「僕が、薬代わりになってる?」
「代わりどころじゃないわ。私の精神を支えてくれている。離れるなんて、考えられない」
マリリンはじっとエリックを見つめた。エリックが、体を僅かに起こした。
「僕が傍にいたら、薬をやらずに済む? 本当に?」
マリリンは必死の思いで頷いた。どうか、どうかどこにも行かないで!
「本当に本当よ」
エリックが眉根を寄せ、何やら考えていた。やがて、爽やかな笑顔を向けた。
「わかった。イヴの元を離れる。まだどうなるかわからないけど、アメリカでやっていけるか、真剣に考えてみる」
マリリンは込み上げてくる熱い思いを抑えられなかった。涙を流しながら、エリックの頬にキスをした。
――私は変われる。エリックさえいてくれたら、きっと――!