第一章 愛の国から来た男
第一章 愛の国から来た男
1
一九六〇年一月、マリリン・モンロー主演の映画『恋をしましょう』の配役が、ようやく決まった。
監督のジョージ・キューカーと主演のマリリンは、当たり前の話だが、すぐに決まった。問題はマリリンの相手役だ。
ユル・ブリンナー、ケーリー・グラント、ロック・ハドソン、チャールトン・ヘストン、グレゴリー・ペックと、そうそうたる顔ぶれが候補に挙がったが、皆が次々と拒絶したらしい。
そこへ、アメリカ映画に本格的に進出する野心を持った、イヴ・モンタンが現れた。イヴはマリリンの悪評をあまり知らないのか、大らかな気持ちで受け止めてくれるつもりなのか、快く引き受けた。
フォックス社はイヴとシモーヌ夫妻の滞在場所を、ビバリーヒルズ・ホテルのバンガロー20に決めた。
向かい合わせのバンガロー21に、マリリンとアーサー夫妻が入る。夫婦の交流を深めながら、楽しく映画の撮影をして欲しいとの、フォックス社の計らいだった。
まったくもって、余計なお世話だった!
ビバリーヒルズ・ホテルは、一般のホテルとかなり、様相が違う。背の高い建物は一切なく、普通のホテルで『〇号室』となるところが、一戸一戸が独立した、バンガロー風の館だった。
バンガロー風小屋がどれだけゆったりして居心地が良くても、アーサーと常に顔を突き合わせているなんて、今のマリリンには耐えられなかった。顔を合わせると、必ず嫌味を言うし、生活のサイクルも全く違ったものになっている。
何より、映画製作の場には、マスコミが多く出入りする。マリリンとアーサーの険悪なムードを知られるわけにいかなかった。
「アーサー、無理してバンガローに住まう必要ないのよ。私だって、キッチン付のあんな広い空間で、毎朝、朝食を作るなんて、ご免だわ」
――そうよ、せっかくホテルに泊まるのに、何で私が家事をしなきゃならないの?
いっぽうでシモーヌが、せっせと料理を作っては、お隣さんのマリリンの元に、おすそ分けを配る有様だった。
シモーヌだって働く女性だろうに。要求されたら家事だって完璧にこなす証拠を見せつけているとしか思えない。
アーサーは、シモーヌにもイヴにも、愛想がいい。イヴはフランスで、アーサーの戯曲『るつぼ』の主役を演じていたため、話もよく合った。マリリン一人だけが、仲間外れになった気分だった。
四人でどちらかの小屋に集い、食事をする時が、一番の拷問だった。アーサーの愛想の良さといったら、アカデミー賞並だった。
「本場フランスの家庭料理は、気取っていなくて、いいね。素朴な味が、僕の舌に合う」
シモーヌがゆったりした笑みで応える。
「良かったわ。イヴも私も俳優なんてやっているから、食事には気を使うの。いつもバターと生クリームがたっぷりの食事なんてしていたら、ぶくぶくと太るだけですもの」
アーサーはユダヤ教徒で、本来なら食生活にも、いろいろ制約がある。しかし信仰心は深くはなく、ジャンク・フードも食べるし、クリスマスも普通に祝う。
一度でいいから、宗教を理由に、二人との食事会を突っぱねて欲しかった。マリリンは一人だけ出来損ないのレッテルを貼られ、無視されっぱなしで、堪忍袋の緒が切れた。
マリリンは、すっくと立ち上がった。
「私、ホテルを移るわ!」
突然の宣言に、三人とも目を開き、マリリンを見つめた。シモーヌが不思議そうな顔で尋ねた。
「移るって、どこのホテルに? ここほど居心地の良い場所はなくてよ?」
「ええ、そうね、貴方たち三人には、居心地がいいでしょうよ。でも、私には最悪なの! スタッフや他の俳優が泊まっている、ハリウッド・エセックスハウスに移るわ!」
ハリウッド・エセックスハウスは、ビバリーヒルズ・ホテルのすぐ隣にある、十一階建て。ビバリーヒルズ・ホテルほどではないが、高級ホテルの一つだった。何より、こんな『復活地中海様式』と呼ばれる特殊な構造をしていない。
ずっと気楽な気持ちで泊まれるだろう。
アーサーがマリリンの腕を掴み、椅子に座らせようとした。小声で、マリリンを叱咤する。
「失礼だと思わないのか!」
「ごめんなさい、全て、私の我儘なの。どうぞ三人で、何とでも罵倒してちょうだい」
マリリンはハンドバッグを掴むと、ドアに向かった。首だけ後ろに振り返り、アーサーに告げる。
「荷物は後で誰かを取りに寄越すわ」
まるで夫婦喧嘩の末に妻が実家に帰る宣言をするかのような状況になった。構うものか! これ以上、ここの空気を吸ったら、頭がおかしくなる。
2
エセックスハウスのフロントは、マリリンの登場に大いに慌てていた。
ここにはマリリン、モンタン両夫婦以外の映画関係者が泊まっている。マリリンが来たからといって、問題はないのだが……。それなりの部屋を用意する準備に追われていた。
やがて、ロビーのソファに座っていたマリリンに、支配人が声を掛けてきた。
「ミセス・ミラー、支度ができました。お部屋にご案内いたします」
「ありがと」
――何も悪いことはしてないんだから。堂々としなきゃ!
つんと鼻を持ち上げ、支配人直々の案内を受けた。
部屋は六階の612号室。中央にベッドが設えてあり、窓辺に寛げるソファとローテーブルが置かれていた。
さすがに階が高いと、外の眺めもいい。宝石箱を撒き散らしたような夜景が、マリリンを迎えてくれた。
壁も、その他のファブリックも、白を基調にしている点が気に入った。マリリンの夢は、いつか白い御殿に住むことだったのだから。
何より、この白い部屋に、アーサーが持ち込む重苦しい空気はない。マリリンは両腕を広げ、くるりと一回転した。
「気に入ったわ。食事がまだなの。ルームサービスをお願いするわ」
「かしこまりました」
「シャンパンを忘れないでね」
「もちろんでございます」
支配人が、にっこり、いい笑顔で応えると、部屋を出て行った。
ひとまず一人きりの空間を楽しむと、マリリンはベッドに倒れ込んだ。
アーサーはどうでもいいとして、イヴとシモーヌには不快な思いをさせた。謝る機会はいずれ訪れるだろう。許してくれる、くれないは別として。
マリリンは、ポツンと呟いた。
「こんな映画、成功するのかしら?」
ロケも行わない、セット内だけでの撮影。テレビに押されっぱなしの映画界は、あの手この手で贅沢な映画を作り、観客の興味を引き留めようと必死だった。
ほとんどのアメリカ家庭のリビングに、テレビがある今、映画はどこへ向かっていくのだろう?
マリリンが演じる、頭が空っぽのブロンドが主役では、会社も金を掛けられないのだろう。昔からマリリンは、人間味溢れる信念ある女性を演じてきたいと思っていた。またしても、願いは叶わなかった。
少々肉が付き過ぎているきらいのあるボディに、ぴったりしたレオタードを着て、観客にサービスするおまけもついている。
――いつになったら、まともな役が回ってくるのかしら……。
憂鬱な思いに、枕を抱き締め、ごろりと寝返りを打った。その時、ドアのチャイムが鳴った。
「どうぞ」
てっきり、ルームサービスだと思っていた。荷物を山と抱え入ってきた若者を見て、マリリンは驚きに目を開いた。
3
一瞬、男はマリリンを見て、言葉をなくした。顔が赤くなっているのがわかる。だからマリリンが、何故ここにやって来たのか、理由を尋ねなければならなかった。
「どなた? 何しにいらしたの?」
ちょっと突っ慳貪( つ けんどん)だったろうか。でも男は、話す切っ掛けができて、助かった顔をしていた。
「ムッシュー・モンタンの付き人の、エリック・ドノバンです。ムッシュー・ミラーから、奥さまの身の回りのものを運ぶよう、言いつけられた次第で」
マリリンはベッドから下りると、エリックが持っている鞄の一つを持った。そのまま、ソファの横に落とすと、エリックに告げた。
「そこら辺に置いておいて。あとで片づけるから」
「アイアイ・サー」
マリリンが荷物を置いた横に並べようとして、エリックは部屋の奥まで入った。マリリンはその隙に、エリックをじっと観察した。
黒い髪に、青い瞳。鼻筋が通って、顎のラインも美しい。歳は二十五、六歳だろうか。かなりのハンサムだ。
「付き人というからには、イヴの身の回りのお世話をする係なの?」
エリックは西欧人にしては綺麗な歯並びを見せた。
「付き人をしながら、イヴの元で歌の勉強を」
「フランス系じゃないわね」
「生まれはイギリス。昔からシャンソンが好きで、フランスに渡った」
「どうりで素敵なブリティッシュ・イングリッシュだわね」
マリリンの褒め言葉に、エリックが頭を掻いた。
「恥ずかしいな。決して上流階級の発音ではないから」
マリリンは次第に、エリックに興味を覚えていった。
多少そっけない話し方をするが、マリリンに少なからず、好意を抱いている。マリリンはベッドに座り、エリックにソファを勧めた。
イヴ・モンタンより、遙かに美男子ではないか。こんなキラキラした容貌の男の口から愛の歌が聞こえてきたら、女は皆、いちころだ。
「でも、凄いわね。自分が生まれ育った場所を離れ、別天地で境地を開拓していこうだなんて。私はロサンゼルスからほとんど、出ずじまいよ」
エリックが気持ちのいい笑顔を見せた。
「一度、ニューヨークに留学したろう? 演技派開眼。留学後の作品『バス停留所』と『王子と踊り子』は、見事の一言に尽きた。何度、劇場に足を運んだか」
確かに、あの二作品は、本国アメリカよりも、海外で好評だった。『王子と踊り子』がイギリスで撮影され、サーの称号を持つ名優ローレンス・オリヴィエと共演した結果だろうか。
あの時は、何よりアメリカでの賞賛を期待した。でも、マリリン・モンローにオスカーを、なんて声は、遂に聞くことができなかった。
「……そんな時期もあったわね。馬鹿な夢を見たわ」
エリックが気遣う眼差しを向けてきた。何と澄んだ瞳だろう。今のマリリンの周囲には、こんな純粋な瞳を持った人間はいない。
「馬鹿だなんて、卑下するな! 貴女の演技力を認めている人間は少なくない。僕もその一人だ」
お世辞ではなく、素直な言葉に聞こえた。ちょうどアーサーたちとひと悶着を起こしていたマリリンには、涙が出るほど嬉しい言葉だった。
「ありがとう、エリック。貴方とは本音で話ができそうだわ」
エリックが、しれっと頷く。
「僕もそう思う、マリリン」
さすが歌手志望なだけあって、声が素晴らしかった。甘い吐息を含み、滑らかなビロードを撫でているような、心地良さだ。
名前を呼ばれただけなのに、心臓を鷲掴みにされた気分だった。何気ない言葉に、魔法を使って特別の意味を持たせるといった才能の持ち主だ。
「貴方きっと、大スターになるわ。イギリスには帰らないで、フランスの芸能界で勝負するつもりなの?」
するとエリックの顔が、僅かに歪んだ。
「フランスでって言いたいところだけれど、難しい。今まで築いてきた地盤を全て捨て、イギリスに戻ってやり直ししようか、考えているところさ」
マリリンは思わず、眉根を寄せた。
「何か問題でもあったの?」
エリックの顔から、笑顔が消えていた。
「……イヴが、あまりいい顔しないんだ。僕がフランスでコネを見つけようとする度に、邪魔をする」
「呆れた! 弟子が巣立つために、努力をする立場が師匠でしょうに!」
エリックが肩を竦め、掌を上にする。
「僕が浅はかだった。フランスに渡った時、いろんな選択肢があった。僕は僕の意思で、イヴを選んだ。それが、この結果さ」
なんて気の毒な男だろう! イヴが未来を遮ろうとしている理由は、エリックに自分以上の実力があると見てとっているからに違いない。
フランスでの開花を諦め、負けを認めてイギリスに帰るなんて、惨めではないか。そうだ、フランスでもイギリスでもなく、このアメリカに活路を見出したらどうだろう?
――うん! いい思い付きだわ!
マリリンは腰を浮かし、ソファに座っているエリックの手に触れた。エリックが驚いた様子で、再び顔を赤らめた。
平静な振りをしているが、初心な一面もある。母性本能を刺激するタイプだ。
「フランスもイギリスも捨てて、アメリカに来なさいよ。アメリカのショー・ビジネスの世界で大成したら、世界一の称号を得られるわよ!」
我ながら、いいアイデアだ。マリリンだって、いろいろ口を聞いてやれる。と、ここでハッと我に返った。
――私ったら、初対面の男に何を、人生を懸ける真似なんか、しようとして!
急に頬が熱くなる。エリックが戸惑っている理由は、はっきりしている。この女、なんて馴れ馴れしいんだろう――と、呆れているに違いない。
マリリンは、あわあわと口を動かし、意味不明の言葉を吐いた。
「ごめんなさい、そんな意味じゃなくて……その、ううん、何でもないんだけど……貴方のためになるんなら、と……」
エリックが思いっ切り目を開いて、驚きにマリリンを見つめた。次の瞬間、陽気な顔で笑い出した。
「僕と似ているところがあるな。これで良かったのかって、言葉を吐いた後に、心配になって、あれこれ弁解する。でも、安心して。これは純粋な好意なんだって、わかるから」
途端にマリリンは話がしやすくなった。エリックの大らかさと優しさが、身に染みた。エリックとは、気が合いそうだ。
「あー、良かった。私の周りにいる人間は、察しが悪い奴らばかり。スタンドインのエヴェリンは頼りになるんだけど、あとは駄目。全然、駄目」
エリックが不思議そうに首を傾げた。
「旦那さんのアーサーは?」
「はっ! 冗談でしょ! アーサーは人の痛みに共感できない、哀れな男よ。気が合わなかったって気づいた頃には、結婚生活は二年目を迎えていたわ」
「僕には結婚の経験はないけれど、実際、いろいろ大変だって聞くよね。今は、幸せじゃない?」
マリリンは即答した。
「ええ! 全然!」
マリリンの断定に、エリックが少し後ろに仰け反る。でも、三人掛けソファの座面に倒れたりはしなかった。もし倒れでもしたら……マリリンは自分が飛びかかるだろうと、わかっていた。
4
エヴェリンは映画関係者の女性ばかり、部屋に集めて、トランプ・ゲームをしながら、お喋りをしていた。その中の一人が、マリリンの行動を報告してくれた。
「マリリンが、ビバリーヒルズ・ホテルから、こっちに引っ越してきたぁ?」
「そうなのよ。アーサーとまた喧嘩したみたい。正直に言って、主演二人が離れた場所にいる点は大歓迎だったから、がっかりよ。どんな問題を引き起こすか、わかったもんじゃないでしょう?」
まるでマリリンが必ずトラブルを持ち込むと決めて懸かっている。マリリンとの仕事が初めてでない人間たちが、大きく頷く。
「アーサーと一緒の部屋だったら、時間に間に合うように起こしてももらえるでしょうけど。一人で部屋に籠ったら、いつ現場に現れるか、予測がつかないわ」
ここはマリリンと付き合いが長いエヴェリンが、助け舟を出さねば……と思うのだが、適当な言葉が出てこない。
――遅刻癖が悪化……するでしょうねえ、やっぱり。
メーク係のアンが、手持ちのカードを放り投げた。
「あー、やだやだ! ご機嫌の悪い時のマリリンって、ほんと、性質が悪いのよ。ドライヤーの風が熱すぎるって、失神しかけた時だってあるんだから」
「要するに、私たちスタッフに言い掛かりをつけるのが好きなのよ」
「上手くいったら、自分の手柄、いかなかったら、スタッフの責任、ですもんねえ」
不味い展開だ。ここはエヴェリンが、一言どうにか、頼もしい言葉を掛けてやらなければ。エヴェリンは立ち上がった。
「大丈夫よ、皆、心配性ね。前回の『お熱いのがお好き』の時は妊娠中で、精神が不安定気味だったのよ」
アンが呆れた顔で、「はははぁ」と半笑いした。
「私は、その前の『王子と踊り子』でも働いたけど、現場はピリピリしてるし、マリリンは勝手だしで、とんだ修羅場だったわよ。それでも、アーサーが撮影に同行している時は、まだマシだったわ。それが、同じ部屋にいたくないって、飛び出したんでしょう?」
言われてみれば、どんどんその通りに思えてくる。
いや、それよりもっと前の作品『バス停留所』から一緒に仕事をしてきたエヴェリンだから、安心させられる言葉もある。
ある……多分。今は思いつかないが。とりあえず、不安を抑え込まなければ。
「マリリンはね、スターなの。スターって、多少は誰でも我儘なものよ。あたしたちは、ただマリリンにくっついているから、マリリンの悪口にばかりなってしまうけど、誰についても同じよ。マリリンが特別に我儘ってわけじゃないわ」
「あんたがマリリンの肩を持つ理由は、マリリンのスタンドイン以外の仕事が見つからないからでしょう? 私たちは他のスターについたほうが、絶対に楽だわよ」
「なぁんですってぇ?」
聞き捨てならない言葉だった。マリリンに似ているから、スタンドインの役目を仰せつかっている。でも当初から、スタンドインになる夢を持ってハリウッドに乗り込んだわけじゃない。
夢はやっぱり、一流のスターだった。
でも、ハリウッドにはエヴェリンの先客がいた。マリリン・モンロー、アメリカを代表するセックス・シンボル。遅れてやって来たエヴェリンが、どんなにスタイル抜群でも、映画関係者の見解は同じだった。
「君みたいにマリリンに似ていたら、代役ができるな」
最初は、誰かの代役なんてご免だと本気で思った。
ちょうどマリリンが一年間の演技留学から帰って来たところで、スタッフが一新された。最初の仕事『バス停留所』のスタンドインを務めてくれないかと誘われた。
一作ぐらい、いいだろう。そこで、エヴェリンの評価は決まった。
素晴らしい! 素晴らしいよ、君! ミス・パーフェクトだ!
マリリンの代役として、申し分ない。これからもマリリンのスタンドインを続けてくれないか? 君ならできる、いや、君しかできない。
マリリンと友情を育めた結果も、幸い、いや、災いした。
いつも「これでもう終わりにしよう」と思う。髪をブルネットに戻して、ケンタッキーの田舎に帰り、結婚して、平凡な主婦に収まる。華やかさはないが、安定という宝を手に入れられる。それでいいではないか。エヴェリンにスターになる芽はないのだから。
『バス停留所』一作だけのつもりが、『お熱いのがお好き』でもスタンドインを務めて、大喝采を浴びた。
――「君がマリリンだったらなあ! 撮影も順調に進むのに」
もう今度こそ、これで終わりだ! と決意して、結局は今回の映画『恋をしましょう』の仕事も引き受けた。何をやっているんだか。
自分でも、マリリンを見捨てられないのか、見捨てられたくないのか、わからないでいる。
「エヴェリンとマリリンが同じホテルに泊まるのね。間違わないよう、気を付けなきゃ」
エヴェリンは、我に返った。不安に思う必要はないと、笑顔を作る。
「大丈夫よ。メークしなければ、それほどマリリンに似てないから」
「でも、後ろ姿では、すぐに間違えるわ」
エヴェリンは鬱陶しい思いに、ふぅっと勢いよく下顎を突き出して、鼻に向けて息を吐いた。頬に掛かったブロンドの髪が一房、くるりと舞った。
「背中に『類似品に注意』って紙を貼っておきましょうか?」
一斉に、そこにいた女たちが笑った。
「それ、傑作!」
「是非そうしてよ! ただし、張り紙をする人間は、本物のマリリンよ。私たち、エヴェリンは買ってるけど、マリリンには、うんざりなんだもの」
エヴェリンは困った思いに、眉根を下げた。
「お願いだから、そんなこと言わないで。皆でマリリンを盛り立てていきましょうよ」
アンが、心底不思議といった顔で、首を傾げた。
「私は何故、エヴェリンがこんなにまで、マリリンに気を使うかがわからないわ。私たちなんかより、側にいる時間が長いから、嫌な思いもたくさん味わっているでしょうに」
嫌な思い、か。確かに、アンの言う通りだ。マリリンと付き合って、あまりいい目を見た経験はない。
でも、放っておけない。皆、マリリンの精神不安を軽く考え過ぎているのではないか?
それにマリリンは確かに我儘だが、根は悪い女ではない――と、ここまで考えて、頭をぽかりと叩く。
――こんな状態だから、いいように利用されるのかもねぇ。
もし、今回の映画撮影中に、大きな問題が起きたら、エヴェリンもマリリンとの関係をすっぱり断つ勇気も生まれる。
失敗して欲しいような、欲しくないような、微妙な思いに、エヴェリンの心は揺れていた。
そこにノックの音がした。アンの顔が、パッと明るくなった。
「クレイグだわ! お酒が足りなくなるだろうから、追加を持ってきてもらうよう、頼んでいたの」
ドアを開けると、背のひょろりと高い男が、両手に酒のボトルを持って、ポーズを付けていた。編集スタッフのクレイグ・モスだった。
「いけないお嬢さんたち! 更に悪の道にいざないに来たよ!」
わっと歓声が上がった。エヴェリンも笑顔で、自分の隣の席を空けた。
「クレイグ、どうぞ座って」
クレイグがローテーブルに酒瓶を置くと、両手を上げて拒絶の姿勢を取った。
「僕は遠慮するよ。酒で出来上がった女たちの中に入ったら、何をされるかわかりゃしない」
女たちがけたたましい声で笑った。エヴェリンも笑った。
「なーに、今更、気取ってんのよ!」
クレイグとの仕事は、この映画が二作目になる。編集担当という地味だが大事な仕事を担っていた。
カメラマンが撮った映像をチェックし、不要な部分は捨てるのが、とりあえずの役目。撮影後、監督の手となり足となり、映像を最高な部分だけ切り張りして、一遍の動く絵に仕上げていく。
この世界に入った切っ掛けが、マリリンの熱烈なファンだったというから、安心だ。マリリンにとって、数少ない味方となる。
二人の女がクレイグの肩を両側から押さえ、強引にソファに座らせた。エヴェリンはすかさずグラスにジンを入れ、ソーダを注いだ。
「さあ、飲んで。これであんたも共犯者よ」
5
明日から本格的に撮影が始まる。エヴェリンの部屋で催された〝愚痴会〟は、午前一時に、ようやくお開きとなった。
最後の一人となったアンを見送りに、廊下まで出た。
「おやすみ。明日から戦いが始まるけど、頑張ろう!」
「もっちろん。じゃ、おやすみ」
大きく伸びをして、体の凝りをほぐす。
狭い部屋に、これでもかという多人数が入っていたから、窮屈な姿勢でいた。明日から忙しくなるから、充分な睡眠を摂っておかなければ。
ふと、人の気配がして、廊下の両サイドを見回した。エヴェリンの部屋、610号室の一つ挟んで次のドアが開いていた。
「確か、あの部屋は誰も入っていなかったんじゃなかったっけ?」
首を伸ばして、よく見る。なんとマリリンが黒髪の男と抱き合っていた。ただの挨拶かもしれないが、時間が時間だ。何をやっていたのだろう?
男が体を離し、くるりと一回転した。
「ひっ!」
エヴェリンは咄嗟に、開いたままのドアから室内に入り込んで隠れた。なんだろう、酔っ払っているのか? ひょいと顔だけ廊下に出す。
見ていると覚束ない足取りで、エヴェリンに背を向け、エレベーターがある方向へ歩いていった。なんとか見つからずに済んだ。大きく安堵の息を吐く。
マリリンが片手を上げ、いつまでも男を見送っていた。これは、どういう状況だと考えればいいのだろう?
――こんな夜遅くまで、二人きりで何していたってぇのよ!
どうやらマリリンの部屋は612号室に落ち着いたらしい。天下のマリリン・モンローが、端役やスタッフが泊まるものと同じ部屋で我慢するなんて、驚きだ。それだけ、アーサーやイヴ・モンタン夫妻から離れたかったのだろう。
マリリンが、くるりと一回転し、小さく「よしっ!」と叫んだ。何がよし、なのか? 何が、そんなに嬉しいのか?
幸いマリリンは自分の問題に忙しいようで、二つ先のドアが開いているとも気付かずに、部屋に入っていった。
エヴェリンは扉を背に、ずるずると腰を落とし、尻を床に着けた。
アーサーと喧嘩して、別の部屋を取り、間男を招き入れた――としか推測できないエヴェリンは、婦人雑誌に連載される下世話な恋愛小説の読み過ぎなのだろうか?
エヴェリンは頭を抱えた。とんでもない秘密を知ったのかもしれない。
「嫌だー、もう! 何で目撃なんかしちゃったのよ! 馬鹿、馬鹿!」
誰か頭を殴ってくれないだろうか? 殴打によるショックで、記憶が消えるかもしれない。
自分で頭をポカスカ殴ってみた。しかし、目の前にあった光景は、想像力のせいで膨れ上がり、テクニカラー映画を最前列で鑑賞したように鮮明になっていった。
6
体に羽根が生えたようだ。マリリンは大きく腕を広げ、ワルツのステップで、部屋中を歩き回った。
「エリック、エリック……エリック!」
まるで初恋のように、初々しい気持ちだった。十六歳で、里親から離れるという理由で結婚をしてから、マリリンは体の関係抜きに男たちと接する機会は、ほとんどなくなっていた。
でも、エリックの前にいると、他の男では感じなかった純粋な愛しさが、込み上げてくる。手も握らず、体を寄せる真似もせず、向かい合って、時の経過も忘れ、話し込んだ。
アーサーのような博学ではない。でも、世界各地を渡り歩いているだけあって、珍しい話をいろいろ知っていた。
しかも、知識を押し付ける真似は絶対にしない。控えめな態度で、会話を面白おかしく膨らませてくれる。
何で、あんな素晴らしい男が、独り身のままでいるのだろう? フランスのドモアゼルたちの目は、節穴なのか?
エリックがフランス人女性に興味を惹かれないのならば、理解できる。やはり、英語を母国語とする以上、心の奥の奥まで伝え合う夫婦になるには、英語圏の女性がいいのかもしれない――なんて想像を膨らませて、我に返った。
「私ったら、自分がエリックに相応しいみたいな想像をして……。エリックは年下だし、私は結婚してるし、運命が交差し合うわけがないのに」
交差し合うわけがない? こらこら、マリリン、正直になりたまえ。眼鏡の教師に机をこんこんと叩かれた気分だ。
脳内に住む恋愛教師が、ぽぉっと頬を熱くしているマリリンに問い掛ける。
――「君はエリックに恋をしたんだろう?」
――はい、先生。私はエリックを愛しています。嘘偽らざる気持ちです。
――「エリックの何を知っているんだ? 今宵、会ったばかりだろう?」
――言葉を交わさなくても、会ったばかりでも、恋に落ちる時は、落ちるんです。それが、今の私なんです。どうか信じてください!
頭の中でマリリンの本音を疑う存在が、次第に消えてなくなった。マリリンは大きく手を広げ、天井のシャンデリアを見上げた。装飾されたガラスと電球の輝きを見ていると、天にも上った心地になる。
果たしてエリックは、マリリンをどう感じてくれただろうか。最初は社交辞令もあっただろうが、これだけ長い時間、好意を持たない人間と一緒にいられるわけがない。
エリックも、マリリンと同じ気持ちでいて欲しい。
マリリンは今まで、これほどまで男に惚れ抜いた経験はなかった。いつだって男は、マリリンの肉体ばかり欲しがる。だから、いつしか、母性で対峙するようになっていった。本当は、母親代わりになんてなりたくない。
マリリンの心底からの望みは、男と精神的に繋がることだった。
知的な会話ができる夫が欲しくて、アーサーと結婚した。しかし、アーサーとの会話では、マリリンは、いつまで経っても対等になれない気がした。次第にアーサーはマリリンの無知さを馬鹿にするまでになった。こうなっては、夫婦として機能しない。
これから先、エリックと特別な関係になったとしても、アーサーに非難される覚えなどない。
マリリンは枕を抱き、ベッドにダイブすると、ころころ転がった。枕にキスを繰り返す。まるでプロム・パーティ直前の、ハイスクールの生徒になった気分だった。
――やっと見つけた! 私の運命の男を! この恋を必ず、成就させてみせるわ!
7
センチュリー・シティに建つ二十世紀フォックス社の撮影所までは、ホテルからバスで十分程度の距離にある。主要キャスト以外のスタッフはロビーに集まって、バスで撮影所に向かう。
エヴェリンが支度を整えて、ロビーに降りると、十人ほどのスタッフが集まっていた。
――おかしいわね。今回の映画には、もっと多くの人数が関与しているはずだけど。
「まだ、これしか来てないの?」
近くにいた男に声を掛けたが、男は肩を竦めただけだった。
「どうせ、マリリンは遅刻する。だから、早く出かけてもしかたないと思っているんじゃないのか」
「そんな心意気で、どうするのよ! 私たちは、観客に楽しんでもらえる作品を、全力で作るべきでしょ!」
「俺に文句を言われても困るよ」
なんという覇気のなさだろう。映画には作り手のエネルギーが、そのまま反映される。
こんな精神状態で、素晴らしい作品ができあがるわけがない。皆、マリリンの遅刻癖に慣れ過ぎていないか。
もう一人の少年と呼べるほど若く見える男が、冗談半分で提案した。
「マリリンはこの建物に部屋を取ったんだろう? ここにいる誰かが呼びに行けば、遅刻する展開にも、ならずに済むんじゃないか?」
名案だ! ……と思ったけれど、誰が迎えに行く? 提案した当人が、一抜けした。
「俺は、駄目だ。だって、マリリンは裸で寝ているんだろう? 俺が行って、万が一、間違いでも起こったら、不味いだろ」
「それじゃ、男は皆、駄目だってこと?」
マリリンが裸で寝ている? いつだったかマリリンが、何を着て寝るかが話題になった時に「シャネルの五番よ」と当意即妙な答を返した。以来、誰もが、マリリンは裸で寝ていると思い込んでいる。
――そんなの、マリリンなりのユーモアでしょうが! 誰か、マリリンの裸を見たいって男は、いないの?
「裸のマリリンを起こすなんて貴重な経験、したい男はいないの? 世界のセックス・シンボルの裸が見られるわよ」
男たちは次々と、エヴェリンから目を逸らした。情けない! これが世界に冠たるアメリカ合衆国の男どもなのだろうか!
それとも、エヴェリンが裸、裸と言い過ぎたか……。
「あー、もう、じれったい! あたしが連れてくる。起こしても、着替えとメークで時間が掛かるだろうから、あんたたち、先に行ってていいわよ」
どうせ、いつもの通り、マリリン抜きのシーンから、次々に撮っていくのだろうから。
エヴェリンの言葉を聞いて、スタッフたちがロビー外に待つマイクロバスに向かっていった。
エヴェリンはそのまま早足で、エレベーターに向かった。ドアを閉めようとしたところで、男が一人、慌てて滑り込んだ。
「ほっとけない。僕も行く」
ドアが閉まり、エヴェリンは男の横顔を見るや、驚愕した。深夜一時まで、マリリンの部屋にいた若い男だった。
8
――何なのさ、この男! 自分ならマリリンを連れ出せるって考えてるの?
だとしたら、大甘な考えの持ち主だ。
たとえ昨夜、マリリンの部屋でこの男が、非常に色っぽい展開になっていたとしても、ことマリリンをカメラの前に引っ張り出すだけの力を得た理由にはならない。
マリリンの尻の軽さは、関係者の間でも有名だった。アーサーとの蜜月時代にも、複数の男の影がちらついていた。
マリリンにとっては、一夜限りの情事のはずだし、充実した夜を過ごせたから早起きができるわけでもない。マリリンにとっては、朝は――撮影の仕事が入った朝は特に、呪わしい時間帯だった。
「あんた、悪いこと言わないから、従いてこないで」
男は澄んだ瞳で目を見開いた。
「なぜ?」
「あんたじゃ、所詮、無理だから。あたしにだって無理。マリリンはまず、部屋のドアを開けてくれないわ。起きていたとしてもね。仕事が入るといつも、薬に頼って朦朧としているから、ベッドから絶対に出ないわよ」
「じゃあ、何故、貴女はここまで来た?」
馬鹿な男。決まっているだろうが。
「ポーズよ。マリリンは撮影所に来なかったけれど、起こす努力はしました、ってね。私はスタンドインだから、監督や編集技師、カメラマンの前に立たなきゃならないの。マリリンの前座としてね。飛ばっちりはご免だもの」
男が何か言いかけた時に、エレベーターのドアが開いた。エヴェリンは構わず廊下に出て、早足で歩く。後ろにぴったりと男が続く。
「どうりで、マリリンによく似てる。化粧をしたら、もっと似るんだろうな」
「時々、本当に成り代わってやりたくなるわ。あ、決してあたしのほうが演技が上手いから、なんて理由じゃないからね」
男が小さく頷く。「わかってる」
マリリンの部屋の前まで来た。エヴェリンが試みに、軽くノックする。反応ゼロ……。うんともすんとも応えやしない。
――ま、わかってはいたけどね。
大きな声で呼びかけようと、すぅっと息を吸い込む。吐き出す直前、男が声を張り上げた。
「マリリン! エリックだ! 一緒にスタジオに行こう!」
エヴェリンは無意味に開けた口を閉じる真似もせず、エリックを見上げた。やはり、この男は甘い。そんな台詞を吐いただけで、マリリンが出てくるはずが――。
カチャリ、と鍵を回す音がした。
――う、うっそぉ―。
マリリンはガウンを着ていた。髪は整えられ、メークも済んでいた。もし、エリックがマリリンの裸を見たさに従いてきたなら、とんだ計算違いだ……ったって、ちょっと!
マリリンがエリックの胸に飛び込んだ。エヴェリンが見ている事実を、知ってか知らずか、熱いキスを交わし始めた。
9
マリリンには、エリックが迎えに来る予感があった。だから、それこそ夜に別れてからすぐに、朝の支度を始めていた。おかげで風呂にのんびり入れたし、メークにもしっかり時間を掛けられた。
それでも、満足のいく出来栄えに仕上げる真似は、無理だった。いつだって、どんなに時間を掛けたって、自信を持って他人前に出られる出来映えにはならない。マリリンの心が満足しない。
でも、今朝は違う。まるで、初恋の少年に会うため、密かにお洒落したジュニア・ハイの学生に戻った気分だった。
エリックが耳元で囁く。
「綺麗だ。スクリーンで見たどんな役より、今のほうが」
この程度の褒め言葉で、マリリンの不安が吹き消されるわけがない。エリックが嘘を言っていないか、じっと瞳を見つめる。
「本当? ヘアスタイルがどんなにやり直しても、上手くいかないの」
「スタジオに入れば、メーク係がやってくれる。気にするな」
マリリンは、熱い頬を押さえ、「はい」と素直に頷いた。もう一度、感謝のキスをしようとして、エリックに、つんと鼻を突かれた。
「僕、一人じゃない」
「えっ!」
マリリンはようやく、エリックの横で、怒りを押し殺して仁王立ちしているエヴェリンを見つけた。
「エヴェリン、おはよう」
「何が、おはよう、よ! あたしのノックには出ないで、エリックが呼べば、すぐに出てくるのね! 心配して損したわ」
エリックが加勢する。
「最初にマリリンを迎えに行くと宣言した人は、エヴェリンだ。僕は、従いてきただけ」
マリリンは、からかうつもりで、眉根を寄せた。
「じゃあ、エヴェリンが来なかったら、貴方も来てくれなかったの?」
エリックが爽やかに笑う。
「皆がバスに乗り込んだら、迎えに来るつもりだった。主演はスタッフより少し遅れてもいいだろ?」
エヴェリンが、うんうんと何度も頷いた。
「そうよ、マリリンが来るまでに、やらなきゃならない問題が、たくさんあるんだから。例えば、カメラ・テストとか――あああああ!」
エヴェリンの突然の嬌声に、マリリンは驚いて目を開いた。
「どうしたの?」
「スタンドインがいなきゃ、カメラ・テストができないわ!」
マリリンは愉快な思いで、笑みを作った。
「じゃあ、今日の遅刻はエヴェリンだけね。私は、今日はこのままスタジオに入るから、遅刻にはならないわ」
エヴェリンが無念とばかりに、床を踏み鳴らした。
「あたしって、いつもこうなの! 他人を心配し過ぎて、自分の問題を棚上げしちゃう」
エリックが、ぼそりと呟いた。
「思いやりは、美徳だ」
マリリンも無邪気な思いで、同意した。
「その通りよ。美徳だわ。エヴェリンは素晴らしい女性よ」
「こんな状態で褒められたって、ちっとも嬉しくないって! とにかく、早く出かけましょ。マリリンを連れていった英雄の座は、エリックに譲るから」
エリックに連れていってもらう――これは少々、都合が悪い。マリリンは我儘で、夫アーサーが休むバンガローから、612号室に移った。翌朝に若い男と仲良くご出勤だなんて。あらぬ誤解を生む。
もっとも、エヴェリンが既に疑惑の目を向けているのだが。
「違うのよ、エヴェリン、私たち、そんな仲じゃないわ」
エヴェリンが、瞼を落とし、じーっとマリリンを見ている。
「実は、あたし、目撃しちゃったんだな。深夜一時に、二人がドアの外で抱き合っている姿を」
「えええ!」
マリリンは狼狽した。あの時は、熱いキスもしていた。二人の仲を誤解したとしても、しかたがない。
まさか、「最後までは行っていない」なんて言えないし。
するとエリックが涼しい顔で、エヴェリンに問い掛けた。
「午前一時なんて、宵の口だろう? アメリカ人は、そんなに早寝なのか?」
しめた! エリックはフランスから来たのだった。マリリンはエリックの肩に手を乗せ、にっこり微笑んだ。
「エリックはイヴの付き人なの。フランスでは夜の九時から大人の時間が始まるから、午前一時まで他人の部屋にいても、不思議じゃないわ」
実はフランスの習慣なんて、全然、知らない。だが、構うものか。今ここにいるエヴェリンの誤解を解く真似ができれば。
――そもそも、何もなかった点は、事実なんだから。
男と女はどうなったら、不倫と呼ぶのだろう? マリリンには夫アーサーがいる。心はとっくに離れ、代わりにエリックに対する思いが詰まっている。
夫以外を愛してしまったら、キスすらしていなくても、不倫になるのだろうか?
真実を話しても、エヴェリンは信じてくれないだろう。初対面で、ここまで気が合って、体の触れ合いなしに、愛するようになるなんて。
エリックがマリリンに同調する形で、手を上げた。
「そういうこと。エヴェリンがいてくれるから、僕は失礼する」
引き留めるわけにいかない。一緒にスタジオ入りなんて、できないのだから。それに、エリックは撮影スタッフではなく、イヴの付き人だ。
それでもエリックは名残惜し気に、マリリンの手にキスをすると、早足でエレベーターに戻っていった。
しばらく二人で、エリックを先に見送った。エヴェリンが、ふぅっと大きく息を吐く。
「で、支度は、できてんの?」
「……できてはいるけど……」
「じゃ、出かけましょ。一度でいいから、王侯出勤してみたかったんだ。マリリンのリムジンに乗せてよ」
マリリンは途端に、あたふたした。エリックが来てくれた事実に、心は喜びに溢れていた。
でもエリックは、もういない。いつもの我儘――マリリンに意識はないが、周りがそう非難する代物――が顔を出しそうになった。
そこにエヴェリンが、決め手の一言を囁いた。
「スタジオに行ったら、ずっとエリックと一緒にいられるわよ。このまま休んだりしたら、エリック、がっかりするだろうなあ。もう、会いたくないと思うかもなあ」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
「行くわ!」
「そうと決まったら、急ぎましょ。皆、びっくりするから」
エヴェリンに背中を押され、マリリンはあれよあれよという間に、エレベーターを下り、リムジンでスタジオに向かった。