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目を覚まして体を起こすと、窓が開いていることに気付いた。さらさらとした風が流れ込んで来て、僕の前髪を揺らした。緑とピンクの混じった桜が誘うように揺れている。
寝台を下りて窓へと近付き、閉めるために取っ手を掴んだ。部屋は容易く外界から遮断された。
間もなく朝食の時間となり、僕は時間を掛けてそれを食べた。食べ終えた食器を片したあと、今日も散歩をすることにした。
昨日少しのあいだ眺めた樹を、今度はちゃんと見ようと思った。
昨日と同じ道筋を辿って樹の場所まで歩いた。
人工的な造りの建物から、やはり人工的な感を否めない中庭へ出た。
中庭には先客がいた。樹の近くに設置されているベンチに、背を向けた形で女の子が一人座っている。いや、女の子だけではない。女の子よりも小さい子がいて、女の子に抱きしめられている。
引き返そうとしたが、足元に落ちていた小石を思いっ切り蹴飛ばしてしまった。大きな音は立てなかったが、聞こえる程度の音は出た。
女の子が振り返った。シズクだった。
「惺、何してるの? 散歩?」
隣にいる子を抱きしめたまま、シズクはほほえみ掛けて来た。僕は頷き、下げた足を元に戻した。
「歩いた方が体調にはいいから」
ベンチへ近付き答えた。
「そう。あたしは樹を見ていたんだ。この子と」
シズクの前に回り込み、彼女が身を引き寄せている子の姿を見た。幼稚園に入ったばかりのような男の子が、目をきょとんとさせていた。
「惺も座ったら」
僕はシズクの右隣へ腰掛けた。
「おねえちゃん。ボク、いかなきゃ」
男の子が言った。シズクは抱きしめていた腕を放し、男の子が立ち上がるのを支えた。
「それじゃあ、またね」
「うん。バイバイ」
男の子は手を振りながら去って行った。
「昔ね、泣いている男の子を抱きしめたことがあるの」
男の子の背中を見送ったあと、シズクは樹を見上げて言った。樹を見る彼女の目は遠くて、どうやら樹を見ているのではなく、そのときのことを思い出しているようだった。
「学校で苛められていた子なの。放課後苛めっ子が、その子が大切に育てていた朝顔の鉢をわざと引っくり返して蕾を踏みつけたみたい。もうすぐ花が咲きそうなころだったから、男の子はとても悲しんだわ。あたしが忘れ物を思い出して教室へ戻ってきたとき、男の子は朝顔を抱えて泣いていたわ。どうしたのって聞いても、泣いてて事情を話してくれなかった。可哀相で仕方なかったから抱きしめていたわ。そしたら泣きやんで、もう一度泣いていた理由を聞いたの。今度はちゃんと答えてくれたわ。頭にきたから、苛めっ子たちの机の中にラブレター紛いの手紙を匿名希望でいれといてやったわ。放課後苛めっ子たちが体育館裏に集まるのをその子と隠れて見ていたわ。苛めっ子たち、わけの解らない顔をしていたの。傑作よ!」
シズクはゲラゲラ笑った。それは彼女の裏、もしくは黒。僕は彼女を敵に回してはいけないという教訓を刷り込まれた。
「天使なんだか悪魔なんだか、良く解らないよ」
世話焼きと言うか、負けず嫌いだけのような気もする。
「あいだを取って堕天使でいいんじゃないかしら」
堕天使はそう言って微笑した。
心の奥底で、何かがかしんっと音を立てた。そして不意に、邪気のない表情に触れてみようとしていた。でも、理性がそれを抑えた。上げかけた腕で、不自然なくらい不器用に頭を掻いた。
「どうしたの?」
「なんでもないよ。それより、聞こうと思っていたんだけど、なかなか聞くタイミングがなくて」
前から、というか、今なんとなく思い浮かんだことがある。なんだか変に思えなかったから気付かなかったことだ。当たり前になった違和感、みたいな。
「シズクは全身に怪我を負っているのに、どうして普通に歩けたりするの?」
口に出してみると、今までのこと全てが奇怪に思えてくる。だって、彼女は包帯を体の末端以外ほとんどに巻いているのだ。酷い怪我をしているに違いないのだが。
「それはね、全身に怪我を負っているって言っても、右半身に酷い怪我がなかったからよ。主に左半身に怪我が集中しているの。といっても、ほとんどは酷い打撲だけどね。骨折もしてない」
僕の疑問は短命だった。
「……ラッキーだったんだね」
「でしょ。生きてるだけでもラッキーなのにね」
シズクは寂しく笑った。言ってはいけないことを言ってしまい、言わせてはいけないことを言わせてしまった気がする。
「じゃあ、あたしは帰るね」
シズクは立ち上がって僕へ小さく手を振った。僕の返事を待たずに去っていった。




