18
小学校の校庭の片隅にジャングルジムがある。いつもは生徒が集まっているが、今は人の姿がない。そもそも、校庭自体に生徒の姿がない。
今は日曜日。しかも正午を回っている。野球チームの練習すらやっていない。
ジャングルジムの一番上で、ぼんやり青の空を見ていた。足音がして、下を見た。僕が呼び出した人がそこにいた。僕を見てにっこり微笑し、ジャングルジムを上がってきた。そして、僕の横へならんだ。
「で、どう?」
「どうって?」
「久し振りの学校でしょ? 休みの日だけど」
「うん」
――懐かしいね。
ここからの景色が懐かしい。
校舎の陰影が懐かしい。
校庭の大時計が懐かしい。
隣に静久がいることが、懐かしい。
「思い出したよ。色々なことを」
「ふーん。良かったじゃない」
冷めた言い方をするが、彼女は驚きと喜びで笑窪が出来ている。さっと右腕が伸びてきて、途中で止まった。
「いつ思い出したの?」
腕を掴む代わりにそう聞いてきた。
「あのあと――シズクが退院して、僕が留美さんの助けを借りながら一人で家に戻ってから。一人で暮らすようになってから」
小学生にして一人暮らし、みたいなことになっている。だが、家事全般は留美さんが手伝ってくれている。食事は留美さんの家である寮まで行き、静久と一緒に摂っている。ときたま泊まっていくこともある。だから、一人暮らしとは言えない。一人暮らしみたいなもの。それが現状。
学校へはまだ通っていない。記憶が戻っていないため、行く気になれなかったのだ。静久は同じクラスらしいのだが、それは、あまり学校へ行くこととは関係がないことに思えた。
だが昨日家にいたとき、気紛れに姉の部屋へ入ってみた。
小学校の卒業文集があった。姉のページを覗いてみた。小学校のときの思い出が、読んでいて楽しくなる文体で作文化されていた。
そして最後の文に、僕らの名前を見付けた。
『惺と静久ちゃんが、ずっと仲良しでいたら嬉しい。二人が仲良く登校するのを見るのが好き。これからは班長としてじゃなくて、お姉さんとして二人を見守っていきたい。だって、二人は本当に仲がいいから。ずっと一緒にいるのを見ていたいな。』
なぜ姉が小学校を締めくくる卒業文集の最後に、僕らのことを載せたのかは解らない。
――ああ、バッカみたい……。
何かがかしんと頭の中で響いた。いつかと同じ感覚。そう。まだ僕と静久が入院していたとき、静久が涙を見せたとき。記憶が戻り掛けたとき。
『ねえちゃん、何書いてんの? バッカみたいだよ』
『いいじゃない、本当のことなんだから。かまわないでしょう、静久ちゃん?』
『うん。睦お姉ちゃん、嬉しいよ! ありがとう、お姉ちゃん!』
いつか交わした会話。甦る映像。姉がいる。静久がいる。二人とも笑っている。きっと僕も、笑っている。母もいる。父もいる。
――ああ、そうだった。
記憶との邂逅は、思っていたよりもずっと緩やかで、かつ自然で、優しかった。
僕は過去の僕や静久や家族と再会した。
本当に僕は泣き虫だ。姉の卒業文集の上に染みを作ってしまった。
「睦お姉ちゃんの文集――あれ、嬉しかったな」
静久は目を細める。細める直前、彼女の双眸は悲しそうに光った。
「うん。ずっと一緒にいたいね」
「一緒にいるの!」
突然静久は僕のことを睨んだ。潤んだ目で睨まれ、僕は怯む。
「もう離れるな! 勝手にあたしの傍から離れないで! あたしは離れないんだから!」
彼女は両腕を伸ばし、僕の右腕を掴んだ。掴んだ右腕に顔を押しつけ、しばらく体を震わせていた。
「記憶がなくなったのは仕方ないけど、だけど、わかってるけど……それでももう、やだよ、あんなに辛いの」
涙声だった。掠れた声が僕の腕を伝った。体の底に響くような。
「ゴメン。静久の気持ち、ちゃんと考えてなかった……」
「……バカ」
彼女は静かに嗚咽を漏らしはじめた。
たしかこうしていた、ではなく、いつもこうしていたという確信をもって、僕は彼女の頭を撫で掻いた。
間もなくして静久は泣き止んだ。腫れた目を拭いながら、彼女は笑ってみせた。
「今日は、惺の記憶が戻ったのを記念して、叔母さんと三人でお祝いしよう」
僕は頷いた。
――うん、ありがとう。
言わなかったけど、伝わらなかっただろうけど、恥ずかしいから……言うのは恥ずかしいから、代わりに僕は笑ってみせた。
「じゃあ、叔母さんに言ってくる! 惺は、家で待っててね! 用意が出来たら呼びに行くから!」
そう言ってジャングルジムを下り、彼女は駆けて行った。校門の側で立ち止まり、大きく一度手を振った。
サヨナラじゃないんだから。そう思ったけど、大きく手を振り返した。
誰もいなくなった校庭で、僕は頭に戻った記憶を辿るために目を閉じた。心の一角に設けられた窓から、様々な幸せな日々や悲しい出来事が覗ける。今はその光景にこれからの希望が見えた。
以上で『堕天使が零したもの』は終わりです。拙い文章にもかかわらず、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




