10
「まさか惺の方から訪ねて来るなんて、あまり思っていなかったわ」
シズクは薄く笑みを浮かべた。
彼女は寝台の上で上半身だけを起こし、枕を背もたれに文庫本を読んでいた。
時刻は二二時半。すでに消灯時間は回っている。そのため、シズクは寝台横のミニライトを点けていた。
「いつも来てもらうのは悪いから。シズクの方が体も悪いし」
ありがとう、とシズクは目を細めた。
「ねえ、シズク」
「なーに?」
どこか甘えたような声が返ってきて少々たじろいだ。しかし、言葉はすぐに続けた。
「シズクはどうして、そんな怪我をしたの?」
シズクの顔が途端に険しくなった。寝台から立ち上がり、僕の前で仁王立ちした。殺気のこもった目を向けられて怯んだところ、右頬に反響するような痛みが走った。
乾いた音が消えたあと、疼く頬を押さえ、シズクの様子を窺った。今僕の頬を捉えた左手を、ぎゅっと右手で掴んでいた。
「そのことは、聞かないで……聞かれても、答えられないの……ゴメンね」
シズクは顔を俯けていた。
「ううん。こっちこそゴメン」
「謝らないで。叩いてゴメンね。それより――」
ざざっ、と廊下で足音がした。
「惺、静かに寝台へ上がって丸く横になって」
小声でシズクに指示され、何も言わずに従った。
寝台の上で丸くなるとシズクも寝台に上がり、僕へ背を向けて座った。掛け布団を手に取り、僕へ掛けた。それと同時に、ドアがノックされた。
「シズクちゃん、どうしたの? 入るわよ」
若い女性の声だ。ドアの開く音がして、僕は緊張が高まった。
「どうしたの?」
「うーん、蚊がうるさいの」
「蚊が? 蚊取り線香でも持って来ようかしら?」
「お願いします」
看護士の返事のあと、ドアが閉まる音を聞いて息をついた。
さいわいなことは、電気を点けられなかったことだ。
「もういいわよ」
そう言って毛布を外されると、目の前にシズクの顔があった。苦笑いを浮かべていた。
「ベッドを乗り越えた場所に隠れている方が確実じゃなかった?」
そう指摘すると、彼女はにこやかな笑みを浮かべた。
「だって、傍の方が落ち着くじゃない」
「…………」
なんだよそれ、と言いたかったが、やめておいた。
「それより、すぐに部屋へ戻って」
立ち上がらせられて背中を押された。僕は静かに部屋を去った。自分の病室へ着いてから間もなく、廊下を人が歩く音が聞こえてきた。
寝台に腰掛け、天井を見上げた。窓からの明かりで薄い灰色に浮かび上がる影に、シズクの姿が見えた気がした。
そういえば、聞こうと思ったことの半分も聞けなかった。
――明日起きたら、もう一度シズクに聞こう。ちゃんと聞かなくちゃ。僕が僕を知るためにも、僕がシズクを知るためにも。
音もなく横になり、布団も掛けずに意識を落とした。
雷の音がして目が覚めた。体を捩って窓を見遣ると、際限なく雨粒がガラスを濡らしていた。
見ていると、遠くの方で雷が落ちた。
――……!
それを見た瞬間、頭の中に映像がぶち込まれた。
――雨、雷、風、音……落雷、衝撃、温もり、衝撃、そして……そして、なんだ?
自動車の中にいる。いきなり視界が真っ白になる。誰かの温もり――誰かが僕に覆い被さった。シズクではない。目の前にガードレール。衝突――
――睦姉ちゃん……!
大丈夫だから――
「つっ! いてっ……!」
軽い頭痛がして、頭を抱えてうずくまった。遠くでまた、雷の落ちる気配がした。
――記憶が、戻り掛けてる?
今の感覚は、記憶が戻っていることを示しているのだろうか?
――睦姉ちゃん? 僕の姉? さっきの人が、睦姉ちゃん?……守られるだけで、僕は何もしなかった?
「…………。……ウッ!」
吐き気がした。吐き出すものなんて何もない。口の中に胃液が満ちた。
おぞましい。
姉の犠牲の上で僕は生きている。姉という犠牲があったから、僕は生きている……?
「ウッ……ア、アァ!」
悲鳴に成り損なった悲鳴。本当に溢れさせたい悲鳴は、僕の中で響いている。
雨音が聞こえる。
世界が水で満ちていく。




