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「まさか惺の方から訪ねて来るなんて、あまり思っていなかったわ」

 シズクは薄く笑みを浮かべた。

 彼女は寝台の上で上半身だけを起こし、枕を背もたれに文庫本を読んでいた。

 時刻は二二時半。すでに消灯時間は回っている。そのため、シズクは寝台横のミニライトを点けていた。

「いつも来てもらうのは悪いから。シズクの方が体も悪いし」

 ありがとう、とシズクは目を細めた。

「ねえ、シズク」

「なーに?」

 どこか甘えたような声が返ってきて少々たじろいだ。しかし、言葉はすぐに続けた。

「シズクはどうして、そんな怪我をしたの?」

 シズクの顔が途端に険しくなった。寝台から立ち上がり、僕の前で仁王立ちした。殺気のこもった目を向けられて怯んだところ、右頬に反響するような痛みが走った。

 乾いた音が消えたあと、疼く頬を押さえ、シズクの様子を窺った。今僕の頬を捉えた左手を、ぎゅっと右手で掴んでいた。

「そのことは、聞かないで……聞かれても、答えられないの……ゴメンね」

 シズクは顔を俯けていた。

「ううん。こっちこそゴメン」

「謝らないで。叩いてゴメンね。それより――」

 ざざっ、と廊下で足音がした。

「惺、静かに寝台へ上がって丸く横になって」

 小声でシズクに指示され、何も言わずに従った。

 寝台の上で丸くなるとシズクも寝台に上がり、僕へ背を向けて座った。掛け布団を手に取り、僕へ掛けた。それと同時に、ドアがノックされた。

「シズクちゃん、どうしたの? 入るわよ」

 若い女性の声だ。ドアの開く音がして、僕は緊張が高まった。

「どうしたの?」

「うーん、蚊がうるさいの」

「蚊が? 蚊取り線香でも持って来ようかしら?」

「お願いします」

 看護士の返事のあと、ドアが閉まる音を聞いて息をついた。

 さいわいなことは、電気を点けられなかったことだ。

「もういいわよ」

 そう言って毛布を外されると、目の前にシズクの顔があった。苦笑いを浮かべていた。

「ベッドを乗り越えた場所に隠れている方が確実じゃなかった?」

 そう指摘すると、彼女はにこやかな笑みを浮かべた。

「だって、傍の方が落ち着くじゃない」

「…………」

 なんだよそれ、と言いたかったが、やめておいた。

「それより、すぐに部屋へ戻って」

 立ち上がらせられて背中を押された。僕は静かに部屋を去った。自分の病室へ着いてから間もなく、廊下を人が歩く音が聞こえてきた。

 寝台に腰掛け、天井を見上げた。窓からの明かりで薄い灰色に浮かび上がる影に、シズクの姿が見えた気がした。

 そういえば、聞こうと思ったことの半分も聞けなかった。

 ――明日起きたら、もう一度シズクに聞こう。ちゃんと聞かなくちゃ。僕が僕を知るためにも、僕がシズクを知るためにも。

 音もなく横になり、布団も掛けずに意識を落とした。


 雷の音がして目が覚めた。体を捩って窓を見遣ると、際限なく雨粒がガラスを濡らしていた。

 見ていると、遠くの方で雷が落ちた。

 ――……!

 それを見た瞬間、頭の中に映像がぶち込まれた。

 ――雨、雷、風、音……落雷、衝撃、温もり、衝撃、そして……そして、なんだ?

 自動車の中にいる。いきなり視界が真っ白になる。誰かの温もり――誰かが僕に覆い被さった。シズクではない。目の前にガードレール。衝突――

 ――睦姉ちゃん……!


 大丈夫だから――


「つっ! いてっ……!」

 軽い頭痛がして、頭を抱えてうずくまった。遠くでまた、雷の落ちる気配がした。

 ――記憶が、戻り掛けてる?

 今の感覚は、記憶が戻っていることを示しているのだろうか?

 ――睦姉ちゃん? 僕の姉? さっきの人が、睦姉ちゃん?……守られるだけで、僕は何もしなかった?

「…………。……ウッ!」

 吐き気がした。吐き出すものなんて何もない。口の中に胃液が満ちた。

 おぞましい。

 姉の犠牲の上で僕は生きている。姉という犠牲があったから、僕は生きている……?

「ウッ……ア、アァ!」

 悲鳴に成り損なった悲鳴。本当に溢れさせたい悲鳴は、僕の中で響いている。

 雨音が聞こえる。

 世界が水で満ちていく。

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