神凪弥琴
昼休み、神凪弥琴は四階の廊下を歩いていた。
何処か、静かに休憩できるところはないだろうか…
そう考えながら辺りを見渡すと情報室の文字が目に入ってきた。運良く鍵は掛かっていなかったため、彼は残り十分程度の昼休みをそこで過ごさせてもらうことに決めた。
弥琴はつい先程まで屋上に居た。
いつものようにチャイムが鳴って直ぐに屋上に行った。
建物の影でちょうど日の当たらない場所、そこが彼の特等席。そこで壁に少しもたれ掛かりながら目をつぶり深呼吸をすることが彼の日課であった。
頬を撫でる風は気持ちよく、まるで自分が自分という存在から離れて空中をゆらゆらと漂っているような、そんな心地がするのだ。誰もいない静かな空間。雲ひとつない青い空。自分を浄化してくれるかのような太陽の光。自らを忘れることのできる唯一の時間。彼はそんな昼休みが好きだった。
しかし、今日は違った。
彼が屋上へ着いてすぐ、他の生徒が数名入ってきたのだ。彼らは昼食のために入って来たようで、片手にパンとパックのジュースを持ってフェンスの方へ歩いていった。弥琴がいる場所とは真反対の所ではあったが、賑やかな声はこちら側まで届いていた。
仕方ないか…
今日は屋上は諦めよう。
そう考えて、弥琴は屋上から出た。が、出たのはいいものの行くあてもなく、四階をさ迷っていたのだ。教室に戻ろうと考えたが昼休みはまだ数分残っている。人が多いところに自ら進んでいくのは気がすすまなかった。
情報室に入ると、何故か蒸し暑かった。まだ五月、春の最中。まるで真夏のような室内の暑さに弥琴は首を傾げた。
取り敢えず窓を開け、空気の換気をすることにした。窓側のパソコン用の席に座る。やはり、風は気持ちいい。頬に当たる冷たいようで暖かい風に自然と目を閉じた。
辺りは薄暗かった。ざわざわと木々が揺れる。弥琴は森の中に一人で立っていた。
自分は一体いつこんな所に来たのだろうか…
奇妙なほど静かな場所。弥琴は静かな空間を好むが、今この禍々しい気を放つ場所は好きにはなれなかった。胸がざわついている。
突然、目の前に大き白い祠が見えた。いや、現れたと言ったほうが正しいだろうか。古い様子だが全く傷がついていない。気がつけば弥琴は歩いていた。祠へと吸い寄せられるように。一歩一歩、ゆっくりとした足並みではあったが、徐々に近づいていく。彼は自分に恐怖を覚えた。止めようとしても、足は止まらなかった。彼の意識を無視して足は歩みを進める。
後一歩、足を踏み出せば祠をくぐることになる位置になって、漸く足は歩みを止めた。祠の向こうは無限の暗闇が広がっている。何も見えない。しかし、暗闇の中で何かが動いているのが見えた。
何だ…人…?
彼は目を凝らして良く見ると、人影のようなものがゆらゆらと揺れていた。そしてこちらに向かって手招きしていた。おいで、おいで、と。
彼の頬から冷たい汗が流れた。震える足は再び動き出す。彼は叫びたい気持ちを押し殺して、ぎゅっと目をつぶった。
「ねぇ」
突然耳元で聞こえた声にビクりと弥琴の体が跳ねた。
「君、大丈夫? 汗ひどいけど」
赤茶色の髪の眼鏡を掛けている生徒が弥琴の顔を覗き込みながら立っていた。
弥琴は焦点があっていない様子でぼうっと虚空を眺めていたが、ふと我にかえって、自分が今どんな状態なのかを悟った。
「あ…」
夢…だったんだろうか。それにしてはひどくリアルだったと弥琴は感じた。視覚、聴覚、体感、まるで全て自分が本当に体験したかのような感覚だった。
さっきの得体のしれない場所、自分はあの場所に全く心当たりはない。何か意味が有るのだろうか…
それに、と彼は続ける。
もし夢が覚めず手招きしている人影に導かれて祠の中に入っていたら…自分はどうなっていただろうか。彼は想像して旋律を覚えた。
「はい」
と言って目の前に出されたのは赤いチェックのハンカチ。弥琴はそこで始めて目の前に人がいることに気がついた。
「…ありがとう」
「どういたしまして」
眼鏡の生徒は顔を覆う程長い前髪で隠れていない、左側の前髪を耳にかけながら微笑んだ。
弥琴は借りたハンカチで顔の汗を拭う。風に当たっていたせいかひんやりと冷たくなっていた。
「これっ」
眼鏡の生徒が情報室を出て行きそうになったので慌てて弥琴は声を掛けた。
「あー、それは君にあげる」
「え、でも」
「いいって。それよりもうチャイム鳴るよ、君は急いだ方がいいんじゃない?」
時計を見ると予鈴は既に鳴り終わっている時間だった。弥琴の教室は2-1組。二階の一番端に位置するクラスだ。ここからでは走らないと間に合わない、そう思って急いで席を立つ弥琴。しかしドアの方に足を踏み出した途端、何かに躓いて派手に転んでしまった。
「痛…」
床にぶつけてしまった膝小僧をさすりながら、彼のは足元を見た。数冊の本が転がっていた。
「神霊、お祓い、陰陽師…?」
オカルトちっくな題名が書いてある分厚い本。何処かカビ臭くて、異様なオーラを放っていた。
ここに来た時には気づかなかった…
さっきの人のだろうか。
彼はとっさにドアの方を見たが、もう眼鏡の生徒の気配はなかった。
彼は取り敢えずその数冊の本を持っていくことにした。
情報室を出てドアを閉めると同時に、廊下に授業の始まりを知らせる本鈴のチャイムが鳴りひびいた。